第11話――記憶の街
翌朝、リゼルはいつもより早く目を覚ました。
目を開けた瞬間、前線から運び込まれたカーレルの姿が脳裏に浮かぶ。
兄は、まだ意識を取り戻していない。
ライラに身支度を整えてもらうと、リゼルはすぐに王立医療施設へ向かった。
カーレルが療養している部屋は、思っていたよりも静かだった。
カーレルはベッドに横たわり、身体のあちこちに包帯が巻かれている。顔色も普段より青白く、目を覚ます気配はない。
リゼルはベッドの傍らで足を止めた。
少し前までは、彼の容体について報告を聞くことしかできなかった。
けれど今は、自分の目でその姿を見ている。
いつも目の前にいて、話をして、何があっても自分を守ると言ってくれた兄が、今は目の前で静かに眠っている。
リゼルはゆっくりとベッドの脇に腰を下ろした。
そして、そっとカーレルの手を握る。
「……お兄様」
返事はない。
「お見舞いに来ましたわ」
それでも、何の反応も返ってこない。
リゼルは少し俯いた。
「母様は……お兄様は見た目よりずっと丈夫だと仰っていました……」
無理に笑みを浮かべる。
「ですから……早く目を覚ましてくださいませ」
その声は、とても小さかった。
まるで眠っている相手に、ただ語りかけているだけのように。
けれど、心の奥では分かっていた。
怖いのだ。
自分の言葉が、永遠に届かないのではないかと。
しばらくその場に座っていたリゼルは、やがてゆっくりと立ち上がった。
「わたくしは、これから務めに向かわなければなりません」
最後にもう一度、カーレルの手をそっと握る。
「また、お見舞いに参りますわ」
そう言って背を向ける。
けれど扉が閉まる直前、リゼルはもう一度だけ振り返った。
カーレルは、変わらず眠り続けていた。
――――――――
王立医療施設を出ると、リゼルはアルドリックが自分を呼んでいると知らされた。
部屋へ入ると、王は机の前に立っていた。
机の上には、王国の地図が広げられている。
「来たか、リゼル」
「はい、お父様」
アルドリックはしばらく娘の顔を見つめた。
まるで、どこから来たのか分かっているかのようだった。
「カーレルの見舞いに行ってきたのか?」
リゼルは頷く。
「はい」
「容体はどうだ?」
「まだ目を覚ましておりませんわ」
リゼルは静かに答えた。
「ですが、医師によれば、しばらくは厳重な経過観察が必要とのことです」
アルドリックはゆっくりと頷いた。
しばらく沈黙したあと、再び地図へ視線を戻す。
「お前に話がある」
リゼルが近づく。
地図の上には、一つの場所に印が付けられていた。
「ここは……どのような街ですの?」
「王国の南にある街だ」
アルドリックが説明する。
「近いうちに、あの地域の交易路に関する取り決めが変更される。そのため、お前には現地の領主から報告を受け、民の暮らしについても自分の目で確かめてもらいたい」
リゼルは黙った。
「わたくしが……ですか?」
「そうだ」
「ですが……お兄様が戻られたばかりです」
アルドリックは、娘を理解するような目で見つめた。
「分かっている」
「それでしたら、もうしばらく王都に残ることはできませんでしょうか?」
その問いは、務めを嫌がっているからではない。
兄が意識を失ったままなのに、王都を離れたくない。
ただ、それだけだった。
アルドリックは小さく息を吐いた。
「お前の気持ちは分かる」
「ですが、お前の務めもなくなるわけではない」
リゼルは俯いた。
「この任務を延期することはできませんの?」
「ただの視察であれば、延期もできただろう」
アルドリックは答える。
「だが今回は、すでに各地の代表が集まる予定が組まれている。お前には王家の代表として、彼らの話を聞いてもらわねばならん」
そして、娘をまっすぐに見つめた。
「本来なら、この役目はカーレルが担うはずだった。だが、今のあいつには無理だ。だから、この役目をお前に任せたい」
「……」
「リゼル。王女であるということは、王都にずっと留まっていることではない」
リゼルは黙って父の言葉を聞いていた。
「時には、家族のそばにいることが何より大切な時もある。だが時には、自分の務めを果たすことも同じくらい大切なのだ」
長い沈黙のあと、リゼルはカーレルのことを思った。
野戦病院で出会った人々のことを思った。
そして、自分がそこで知ったことを思い出した。
やがて、リゼルは小さく頷いた。
「……分かりましたわ」
「すまない」
アルドリックはそう言って、娘の頭にそっと手を置いた。
「自分の務めを果たしてこい。そして、戻ってくるのだ」
リゼルは顔を上げる。
「はい」
――――――――
二日後。
王家の馬車が王都を出発した。
リゼルは窓際の席に座り、遠ざかっていく王都の城壁を眺めていた。
胸には、まだ重いものが残っている。
カーレルは、まだ目を覚ましていない。
戻った時、兄が目を覚ましているのかどうかも分からない。
それでも、自分の務めを停めることはできなかった。
隣に座るライラが、リゼルの表情を見つめる。
「リゼル様……まだ殿下のことがご心配ですか?」
「ええ」
リゼルは正直に答えた。
「戻ってきた時には……お兄様が目を覚ましていてくださるといいのですが」
「きっとお目覚めになります」
ライラは優しく微笑んだ。
「きっと、お元気になられますから」
リゼルも小さく微笑み返す。
「ありがとう、ライラ」
馬車が王都から遠ざかるにつれて、窓の外の景色も変わっていった。
城壁が視界から消え、代わりに広い草原が現れる。
小さな村。
長く続く街道。
道沿いの店。
そして、街と街の間を行き交う人々。
リゼルは黙って窓の外を眺めていた。
「ここは……」
ぽつりと呟く。
「王都とは、ずいぶん違いますのね」
前方に座っていたアレンが振り返った。
「はい」
「こんな景色、初めて見ましたわ」
リゼルの瞳に、少しずつ光が戻っていく。
心配が消えたわけではない。
それでも、目の前に広がる世界には、思わず興味を惹かれてしまう。
道端を走る子どもたち。
荷物を運ぶ商人。
草原の中に建つ小さな家。
どれも、彼女が慣れ親しんだ王都とは違っていた。
「エリアス、あれをご覧ください!」
リゼルが指差す。
エリアスが手元の書物から顔を上げた。
「何でしょう?」
「あの風車ですわ」
「風車ですね」
「分かっていますわ!」
「それでしたら、説明する必要はありませんね」
リゼルが振り返ってエリアスを見る。
「……時々、あなたは余計なことを言いますわね」
ライラが小さく笑う。
アレンも思わず笑みを浮かべた。
馬車の中の空気が、少しだけ和らいだ。
けれど、リゼルが旅の景色を面白いと思うたびに、ベッドに横たわるカーレルの姿が脳裏に蘇る。
だから彼女は、自分にそう言い聞かせるしかなかった。
少なくとも今は――
自分の務めを精一杯果たそう。
――――――――
アレンは、旅の間ずっと少しだけ口数が少なかった。
目的地がどこなのか、彼は知っている。
そこは、彼の故郷だった。
王宮で渡された書類を見た時から分かっていた。
だが、誰にも話していない。
リゼルにさえ。
信用していないわけではない。
ただ、あの場所のことを思い出すと、何から話せばいいのか分からなかったのだ。
馬車が一本の街道を通り過ぎる。
アレンは窓の外を見た。
あの木は、まだ残っている。
覚えている。
子どもの頃、何度もその木の前を走り抜けた。
少し先には小さな丘がある。
そして、その丘の向こうには――。
アレンは、しばらく目を閉じた。
幼い二人の子どもが、人目を忍んで遊んでいる。
男の子が一人。
そして、女の子が一人。
「アレン?」
リゼルの声に、アレンは我に返った。
「はい?」
「少し静かですけれど……どうかなさいましたか?」
「いえ、何でもありません」
アレンは薄く笑った。
「少し昔のことを思い出していただけです」
リゼルは頷いた。
「疲れたら、遠慮なく仰ってくださいね」
「はい」
アレンは再び窓の外へ視線を向けた。
――――――――
旅の末、彼らはようやく目的地の街へ到着した。
門をくぐった瞬間、リゼルは顔を上げて周囲を見回した。
この街は王都ほど大きくはない。
それでも、活気に満ちていた。
通りの両側には店が並び、商人たちが忙しそうに荷物を運んでいる。
道沿いの店からは料理の香りが漂い、路地では子どもたちが走り回っていた。
リゼルは興味深そうに辺りを見回す。
「ここは……面白そうですわね」
ライラが微笑む。
「お散歩に出てみたいですか?」
リゼルは一瞬ためらった。
「……はい」
「ですが、その前に――」
ライラが手元の書類を見る。
「あなたは、お仕事がございます」
リゼルは肩を落とした。
「そうでした……」
アレンが微笑む。
「仕事が終わってから、行けばいいではありませんか」
リゼルが彼を見る。
「約束ですわよ?」
「はい」
書類を読んでいたエリアスが口を挟む。
「必要でしたら、散策の時間を含めた日程を私が組みましょう」
リゼルは微笑んだ。
「結構ですわ」
「承知しました」
「……それと、そんなに真剣な顔をするのもやめてくださいませ」
――――――――
初日は、街を治める領主と面会し、交易や民の暮らしについて報告を受けた。
二日目には、リゼルが街の主要な施設を視察した。
三日目には商人や住民と直接会い、彼らの話を聞いた。
四日目には再び街の統治者たちとの会議に参加し、自分が見聞きしたことを確認した。
そうして、幾日かが過ぎていった。
リゼルも少しずつ街に馴染んでいった。
一日の仕事を終えたあとには、街を歩く時間も持てるようになった。
ある日、リゼルは菓子店の前で足を止めた。
「ライラ……」
「はい?」
「あのお菓子、とても美味しそうですわ」
「わたしもそう思います」
「では、買いましょう」
「はい」
二人が店へ入っていく。
その後ろ姿をアレンが眺めていた。
隣にはエリアスが立っている。
「アレン殿」
「はい?」
「リゼル様は楽しそうですね」
アレンは菓子を選んでいるリゼルを見る。
「そうですね」
「ですが、先ほどまではカーレル殿のことを心配しておられました」
「今も心配していると思います」
「それでは、なぜ笑えるのでしょう?」
アレンは少し黙った。
「人は……いくつもの感情を、同時に抱けるものですから」
エリアスは真剣な顔で頷いた。
「興味深い情報ですね」
「……それ、書き留めないでくださいよ」
「もう書きました」
「……早すぎませんか」
――――――――
街に少しずつ慣れていっても、リゼルは変わらずカーレルのことを考えていた。
夜、眠る前に窓の外を眺めながら、今頃兄はどうしているのだろうと思うこともあった。
もう目を覚ましただろうか。
それとも、まだ眠ったままなのだろうか。
願うことは一つだけ。
王都へ戻った時、あの瞳が再び開いている姿を見たい。
その一方で、アレンもまた、見覚えのある場所を歩くことが増えていた。
皆と離れて一人になると、彼は決まっていくつかの場所で足を止めた。
小さな路地。
古物を扱う店。
古びた石壁。
そして、かつて子どもたちが遊び場にしていた広場。
すべて覚えている。
そして――
アレンが街の中央広場を歩いていた時だった。
足が止まった。
通りの向こうから、一人の女性が歩いてくる。
貴族の衣装を身にまとい、その後ろには護衛が付き従っていた。
アレンは、その姿をしばらく見つめた。
心臓が、一瞬だけ止まったような気がした。
「……ソフィア?」
女性が足を止める。
そして振り返った。
大きく見開かれた瞳が、アレンを捉える。
「アレン……?」
時間が、一瞬だけ止まったようだった。
やがて、二人は笑った。
「久しぶりね」
ソフィアが言う。
「ああ……本当に久しぶりだ」
アレンが答える。
二人はしばらく立ち話をした。
互いの近況を尋ね、離れてからの暮らしについて話し、子どもの頃のことも話した。
「覚えてる? 子どもの頃、私のお菓子をこっそり盗んだこと」
「盗んでない」
「じゃあ、どうしてなくなったの?」
「……買ったんだ」
「私のお金で?」
アレンは黙った。
ソフィアが声を上げて笑う。
「アレンは相変わらずね」
その笑顔を見ていると、アレンは自分がまた子どもの頃に戻ったような気がした。
けれど、あの頃にはもう戻れない。
ソフィアは、もうすぐ結婚する。
「あなたは?」
ソフィアが尋ねる。
「今回は、どれくらいここにいるの?」
「数日間だよ。王宮からの任務で来てるんだ」
ソフィアは微笑んだ。
「そう。いろんなところへ行けて、いいわね」
アレンはすぐには答えなかった。
ソフィアは少し彼を見つめてから、何気ない口調で尋ねた。
「それで……私の結婚式には来てくれるの?」
アレンは固まった。
「……結婚式?」
「うん」
ソフィアは微笑む。
「あなたにも来てほしいの」
心臓が強く脈打った。
何度も想像したことのある質問だった。
けれど、実際に彼女の口から聞かれると、何も言えなくなってしまう。
「俺……」
アレンは視線を逸らした。
「もちろん、行く」
ソフィアの笑みが少し大きくなる。
「本当?」
「ああ」
短い沈黙が流れた。
アレンは、何か言わなければと思った。
このまま、妙な空気のまま会話を終わらせたくなかった。
そして、考えるより先に――
「それなら……結婚式で、俺が音楽を演奏するよ」
……。
アレンは固まった。
ソフィアも黙り込む。
「音楽?」
「……うん」
自分が何をしてしまったのか、ようやく実感が湧いてきた。
待て。
俺、何言った?
そもそもソフィアの結婚式で演奏するなんて、考えてもいなかった。
何の準備もしていない。
ただ、どうしていいか分からなくなって、口から出てしまった言葉だった。
「アレンって、音楽できるの?」
ソフィアが尋ねる。
「うん……最近、知り合いに誘われて演奏してるんだ」
「そうなの?」
ソフィアは笑った。
「じゃあ、楽しみにしてるね」
アレンは頷いた。
「ああ。楽しみにしててくれ」
ソフィアが去っていったあと、アレンはその場に立ち尽くしていた。
そして額を押さえる。
「俺、何言ってんだ……」
――――――――
夕方、アレンが宿へ戻ると、リゼルはライラと一緒に報告書を読んでいた。
エリアスは、いつものように何かを手帳へ書き込んでいる。
アレンは入口で立ち止まった。
「皆さん」
リゼルが顔を上げる。
「アレン? お帰りなさい」
「はい」
アレンは深く息を吸った。
「少し……お話ししたいことがあります」
ライラも顔を向ける。
「何でしょう?」
アレンはしばらく黙った。
「この街は……私の故郷なんです」
三人が黙る。
リゼルが瞬きをした。
「まあ……?」
「出発する前から知っていました」
ライラが驚いたように尋ねる。
「それなら、どうして最初に教えてくださらなかったのですか?」
「どう話せばいいのか、分からなかったんです」
エリアスが頷く。
「よくある意思疎通上の問題ですね」
アレンが彼を見る。
「慰めてくださってありがとうございます」
「どういたしまして」
リゼルは笑いを堪えながら尋ねた。
「それで……今日は何があったのですか?」
アレンは少し視線を逸らした。
「彼女に……会いました」
リゼルはすぐに思い出した。
アレンの幼馴染。
もうすぐ結婚する女性。
「幼馴染の方が、結婚式に来るかと聞いてきたんです」
アレンは続ける。
「それで私は……結婚式で音楽を演奏すると、つい言ってしまいました」
部屋に沈黙が落ちた。
ライラがアレンを見る。
リゼルもアレンを見る。
エリアスもアレンを見る。
「……つい?」
ライラが尋ねる。
「はい」
「音楽のことを?」
「はい」
エリアスがすぐに手帳を開く。
「それでは、さっそく計画を――」
「ちょっと待ってください!」
アレンが慌てて止める。
「今、言ってしまったばかりなんですよ!」
リゼルが小さく笑った。
「でも、もう口にしてしまったのでしょう?」
「……はい」
アレンはため息をついた。
「だから、皆さんにお願いしたいんです」
そしてリゼルを見る。
「ソフィアの結婚式で、音楽を演奏するのを手伝っていただけませんか?」
リゼルは、しばらく黙っていた。
アレンの顔を見る。
隠そうとしている感情も。
そして、口にしてしまった約束を守ろうとしていることも。
すべて伝わってきた。
だから、リゼルは微笑んだ。
「もちろんですわ」
アレンが顔を上げる。
「本当ですか?」
「ええ」
リゼルは頷いた。
「お約束してしまったのですもの。わたくしたちも、あなたのお手伝いをいたしますわ」
そして、少し間を置いて続ける。
「ただし、曲についてはアレンが自分で決めてくださいませ」
「私が、ですか?」
「ええ。演奏したい曲も、歌いたい曲も、アレンが決めるのです」
リゼルは優しく微笑んだ。
「最初にこの約束をしたのはアレンですもの。でしたら、彼女に歌を届けるのも、アレン自身であるべきですわ」
アレンはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……分かりました」
「わたくしたちは演奏で支えます。歌と曲の準備は、アレン自身で進めてくださいませ」
ライラが微笑む。
「もちろんです。わたしも精一杯お手伝いします」
エリアスが手を上げる。
「それでは、アレン殿が歌うことを前提に、式の時間に合わせた曲数と、各楽器の配置について――」
「エリアス」
リゼルが振り向く。
「まだ始めないでくださいませ」
「……承知しました」
エリアスはゆっくりと手帳を閉じた。
ライラがくすくすと笑う。
部屋の空気が、少しずつ和らいでいった。
けれど、アレンはまだ静かだった。
窓の外へ視線を向ける。
自分がかつて暮らしていた街。
たくさんの思い出が詰まった場所。
そして、幼い頃から密かに想い続けてきた女性。
ようやく、ここへ戻ってきた。
けれど今回の帰郷で、彼女の結婚式に出席することになる。
アレンは静かに目を閉じた。
その日、自分が何を感じるのかは分からない。
それでも、一度口にしてしまった約束だけは――
守ろうと思った。
リゼルもまた、窓の外へ目を向ける。
どうやら、新しい仕事が一つ増えたようだ。
ソフィアの結婚式。
アレンの幼馴染の結婚式。
そして、その日に届けるための音楽。
それはきっと、この記憶の街で始まる、彼らの新たな物語になる。




