第8話――それぞれの「受け入れ」
翌朝、王宮はいつもと変わらぬ一日を迎えていた。
アレンは、いつものように王宮付きの兵士として任務に就いていた。
割り当てられた区域を巡回し、交代の合間には他の兵士たちと会話を交わす。
特に変わった様子もなく、与えられた任務をこなしていた。
それは、午前も半ばを過ぎた頃だった。
王宮の一角の床に小さな魔法陣が浮かび上がった。
淡い青色の光が魔法陣の中で渦を巻き、その中心から一通の封筒がゆっくりと姿を現す。
アレンは近づき、それを拾い上げた。
封筒には王家の紋章はない。
そこに記されているのは、彼の名だけだった。
アレンはしばらく封筒を見つめていたが、そのまま懐へとしまった。
誰も、それが何の手紙なのかを尋ねなかった。
そしてアレン自身も、何も語らなかった。
休憩の時間になると、彼は人のいない場所へ移動し、封筒を取り出した。
アレンはゆっくりと封を開ける。
紙に記された文字を、一行ずつ目で追っていく。
その表情が、少しずつ変わっていった。
紙を持つ手が止まる。
手紙を読み終えると、彼はそれを丁寧に折りたたみ、元の封筒へ戻した。
アレンは一人、しばらく黙ったまま座っていた。
やがて、小さく息を吐く。
休憩が終わると、手紙を懐にしまい、再び任務へ戻った。
だが今度は、明らかに様子がおかしかった。
交代の際、近くで働いていた兵士の一人が、その変化に気づいた。
「アレン、今日はなんだか元気がないな」
アレンは振り向いた。
「私は、そんなふうに見えるか?」
「うん。いつもより、少し口数が少ない気がする」
アレンは薄く笑った。
「何でもない」
相手はしばらく彼を見つめた。
「本当に?」
「……少し、考えなければならないことがあるだけだ」
「何かあったなら、話してくれていいからな」
「ありがとう」
アレンは再び自分の任務へ戻った。
だが、彼の思考は手紙に記されていた言葉から離れることがなかった。
⸻
夕刻。
アレンはいつものように古い倉庫へやって来た。
リゼル、ライラ、エリアスはすでに来ていた。
アレンも自分の位置につき、いつものように機材を確認した。
「アレン、今日はあまり元気がないわね」
ライラが、いつもと違う彼の様子を見て声をかける。
「少し、考え事があるんだ」
「仕事のこと?」
「まあ、そんなところだ」
アレンは、それだけ答えた。
練習はいつも通り始まった。
ギター、ベース、キーボード、そしてドラムの音が重なり、部屋いっぱいに響いていく。
だが今日は、アレンの集中力がいつもより欠けていた。
ところどころ、彼のリズムがわずかに遅れる。
ライラは何度も彼の様子を窺った。
エリアスもまた、何かに気づいているようだった。
それでも、誰も何も尋ねなかった。
やがて、扉を叩く音が響いた。
一人の侍従が、部屋の前に立っている。
「失礼いたします、リゼル殿下」
リゼルが振り向く。
「どうしましたの?」
「陛下がお呼びでございます。お越しいただきたいとのことでございます」
リゼルはわずかに目を見開いた。
そして頷く。
「承知しましたわ」
リゼルは三人を振り返った。
「それでは、今日はここまでにいたしましょう」
「はい」
ライラが頷く。
エリアスは自分の機材を片付け始めた。
ほどなくして、二人は部屋を出ようとした。
だが、アレンはその場に残っていた。
ライラが尋ねる。
「アレン、あなたも一緒に帰る?」
「私は、もう少し片付けてから戻る」
アレンは四つの楽器に目を向けた。
「ついでに、王宮内の見回りもしておく」
ライラは頷いた。
「それなら、お願いね」
「ああ」
ライラとエリアスが部屋を出ていく。
扉がゆっくりと閉じられた。
部屋に残ったのは、アレン一人。
彼はしばらく黙って立っていた。
そして、服の中にある封筒にそっと手を触れた。
⸻
王の執務室。
アルドリックは窓辺に立っていた。
リゼルが入ってくると、彼は振り返った。
「来たか」
「はい、お父様」
リゼルはゆっくりと彼のもとへ歩み寄った。
部屋の中は静まり返り、物音一つしない。
アルドリックはすぐには彼女に座るよう促さなかった。
ただ、しばらく娘の姿を見つめていた。
その眼差しから、リゼルは今回呼ばれたことが、決して些細なことではないのだと感じ取った。
「昨夜、余はこれまで目を向けてこなかったものの存在を知った」
リゼルは黙って耳を傾ける。
「そなたを巡って、これまで言い争っていた貴族たちが、そなたに拍手を送った」
「そなたの楽器を笑っていた者たちまで、最後まで耳を傾けた」
「そして、人前で決して弱さを見せようとしなかった者たちまでもが、涙を流した」
リゼルは少しだけ俯いた。
「わたくし自身も、まさかこのようになるとは思っておりませんでしたわ」
「そうだな」
アルドリックは机へ向かい、一枚の書類を手に取った。
「だが、昨夜起きたことを見て、余はあることを考え直さねばならなくなった」
彼は書類を机の上へ置く。
「この一年、余は今の王国に必要なのは、軍事力だけだと考えていた」
「武器」
「食糧」
「そして、敵を食い止められるだけの強固な城壁」
リゼルは黙っている。
「余の考えが間違っていたわけではない」
「だが、それだけでは足りなかった」
その言葉に、リゼルは顔を上げた。
アルドリックは彼女を見つめる。
「昨夜、余の者たちから報告を受けた」
「そなたの歌を聴いた者たちは、戦争を忘れたわけではない」
「敵が国境にいることも知っている」
「愛する者が戻ってこないかもしれないことも、分かっている」
アルドリックは一度言葉を切った。
「それでも……彼らは笑うことができた」
リゼルは言葉を失った。
「それこそが、余には分からなかった」
アルドリックは小さく息を吐く。
「王には、国を守る責務がある」
「だが、余が守ったものの中に、そこに生きる者の心が残っていなかったとしたら……勝利に、いったい何の意味がある?」
リゼルは、わずかに拳を握った。
これは、彼女がこれまで王としてしか見てこなかったアルドリックではない。
自分が信じ続けてきたものだけでは足りなかったのだと、認めようとしている一人の男だった。
「リゼル」
「はい」
「……あの夜」
リゼルの身体がわずかに強張る。
アルドリックは彼女をまっすぐ見つめた。
「なぜ、あのようなことをした?」
リゼルはしばらく考えた。
そして、ゆっくりと答える。
「わたくしには、何も待ち望むものがないということが、どのようなものなのか分かるからですわ」
胸の奥には、あのときの貴族たちの侮辱が今も残っていた。
そして、その一方で、自分の歌によって、彼らが「鉄屑」と呼んだものに何ができるのか、思い知らせてやりたいという気持ちも、わずかにあった。
アルドリックは黙った。
「以前のわたくしは、生きるということは、ただ一日一日を呼吸して過ごすことだと思っておりました」
「ですが、外の世界へ出て初めて気づいたのです……生きるということは、何かを待ち望むことなのだと」
リゼルは自分の手を見つめる。
「歌が戦争を変えるわけではありません」
「すべての人を救えるわけでもありません」
「失われたものを、取り戻すこともできません」
リゼルは顔を上げた。
「それでも、誰か一人でも、あと一日だけ生きてみたいと思ってくれるのなら……わたくしは、歌う価値があると思いますわ」
アルドリックは、しばらく目を閉じた。
そして再び目を開いたとき、その眼差しには変化があった。
「そなたは、自分が今言ったことの意味を分かっているか?」
リゼルは首を横に振る。
「そなたは、余にすらできないことをしているのだ」
「人々の心に届いている」
リゼルは黙り込んだ。
アルドリックは彼女のもとへ歩み寄る。
「そして、それを見て……余は一つの現実を受け入れなければならないと思った」
彼はリゼルの前で足を止めた。
「そなたはもう、王宮の中に隠しておける少女ではない」
「そなたは、自分自身の道を選べるほどに成長した」
リゼルは胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。
「お父様……」
「余は、そなたを守ることとは、そなたを外の世界から遠ざけることだと思っていた」
「だが今は分かる。そなたをそなた自身にしたのは、外の世界のほうだったのだ」
アルドリックは、わずかに笑った。
「だから今日からは、そなたに音楽をやめろとは言わぬ」
リゼルはわずかに目を見開いた。
「それどころか……そなたがその歌を、もっと多くの人々へ届けたいというのなら、余が道を開こう」
「そなたが王女だからではない」
「そなたが今していることが、この王国にとって本当に価値のあるものだと、余自身が認めたからだ」
リゼルは唇を噛みしめた。
目の奥が熱くなる。
「はい……」
アルドリックはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ声を和らげる。
「それから、もう一つある」
リゼルが顔を上げる。
「余がそなたをここへ呼んだのは、王としてだけではない」
彼はまっすぐに彼女を見つめた。
「父として、そなたを呼んだのだ」
リゼルは黙り込んだ。
「余は、そなたの人生の何年もの時間を見落としてきた」
「自分の娘に会いに行く時間さえ、余にはなかった」
「そなたがずっと部屋にいることは知っていた」
「だが、その心の中で何を感じているのかを、余は一度も尋ねなかった」
アルドリックの声が、少しずつ弱くなる。
「余は、自分がそなたを守っているのだと思っていた」
「だが、もしかすると……そなたを一人きりにしていたのかもしれぬ」
リゼルの目に涙が滲んだ。
彼女は慌てて俯く。
「お父様のせいではありませんわ」
「それでも、もっと早くそなたに言うべきだった」
アルドリックは手を伸ばした。
そして、そっと彼女の頭に手を置く。
「すまなかったな、リゼル」
その短い言葉に、リゼルは涙を堪えきれなくなった。
頬を涙が伝う。
「……お礼を申し上げるのは、わたくしのほうですわ」
アルドリックは微笑んだ。
「これから、そなたが何かしたいと思ったなら、余に言え」
「もう、王家を飾るだけの王女ではない」
リゼルは頷いた。
「はい」
その瞬間、初めて「父」と「娘」という関係が、王と王女という立場によって隔てられることはなかった。
その執務室にいたのは、支配する者と従う者ではない。
ただ、一人の父親と、
一人の娘だった。
⸻
執務室を出たリゼルは、ゆっくりと廊下を歩いていた。
彼女は頬に残った涙の跡へ、そっと手を触れる。
ほんのいくつかの言葉が、これほどまでに自分の心を強くしてくれるとは思っていなかった。
以前の彼女は、音楽を奏でたい、病床に縛られていた少年時代にはできなかったことをしたいと、ただ思っていた。
リゼルは足を止める。
そして、小さく微笑んだ。
「……ありがとうございます、お父様」
そう呟くと、彼女は再び古い倉庫へ向かった。
気持ちから逃げるためではない。
ただ、一曲だけ弾きたかった。
少しだけ、心を休ませるために。
⸻
扉を開けた瞬間、リゼルはキーボードの音を耳にした。
いつもの練習とは違う。
はっきりとしたリズムはなく、
どこか噛み合わない音があり、
長い間が空くこともある。
まるで、何かを吐き出したい人間が、
ただ心のままに鍵盤を押しているようだった。
リゼルは扉の前で立ち止まった。
そこには、エリアスの魔晶石キーボードの前に、アレンが一人で座っていた。
彼はリゼルに気づいていない。
指が、一つずつ鍵盤を押していく。
やがて、その音が少しずつ繋がり、一つの旋律になっていった。
アレンは俯いたまま、
静かに歌い始めた。
「羨むのかー 喜ぶのかーー」
声がわずかに震えている。
それでも、彼は歌い続けた。
「こぼれ落ちるこの涙は どこから来るんだろう」
リゼルはじっと立っていた。
邪魔をすることなく、
最後の音がゆっくりと消えていくまで、ただ聴いていた。
アレンが鍵盤から手を離す。
再び、静寂が部屋を包んだ。
リゼルはゆっくりと歩み寄る。
「……アレン」
アレンは驚いて振り向いた。
「リゼル様……」
リゼルはしばらく彼を見つめた。
「さっきの曲……そなたが作ったのですか?」
アレンは目の前のキーボードへ視線を落とす。
「これを曲と呼んでいいのか、私にも分かりません」
彼は小さく笑った。
「ただ、思うままに鍵盤を押していただけで……」
リゼルは彼の隣へ腰を下ろした。
「何かあったのですか?」
今度は、アレンはすぐには答えなかった。
彼は服の中へ手を入れ、
一通の封筒を取り出した。
「今日、手紙を受け取りました」
リゼルは彼の手の中の封筒を見る。
「誰からですの?」
アレンはしばらく黙った。
「幼なじみからです」
彼は手紙に視線を落とした。
「彼女が……結婚するそうです」
リゼルは何も言わなかった。
アレンは続ける。
「幼い頃から、私と一緒に遊んでいた、下級貴族の娘です」
「そして私は……ただの平民です」
彼は封筒を強く握った。
「子供の頃は、身分なんて考えたこともありませんでした」
「ただ、いつか自分がもっと強くなって、もっと価値のある人間になれたら……そのときに、彼女に想いを伝えようと思っていた」
「でも、私はずっと待っていた」
「自分が準備できるまで」
「自分がもっと相応しい人間になるまで」
あるいは、本当はただ……拒絶されるのが怖かっただけなのかもしれない。
アレンは小さく笑った。
「それで結局……遅すぎたんです」
部屋を静寂が包み込む。
「彼女のことは、嬉しく思っています」
「彼女が愛する人と結婚するのなら、私は喜ぶべきです」
彼は言葉を止めた。
「でも……私も、悲しいんです」
彼であってほしくないな……
リゼルは何も言わず、彼を見つめていた。
「その二つの気持ちは、同時にあってもいいのですわ」
アレンが顔を上げる。
「彼女の幸せを喜びながら、自分が失うものを悲しんでもいいのです」
「悲しいと思うことが、彼女の幸せを願う気持ちを嘘にするわけではありませんわ」
アレンは黙り込んだ。
その瞳が、わずかに揺れる。
リゼルは魔晶石キーボードへ目を向けた。
「さっきの曲……そなたの気持ちだったのですね」
アレンは頷いた。
「はい」
リゼルは、わずかに微笑んだ。
「それなら……もう一度、その曲をわたくしに聴かせていただけませんか?」
アレンは彼女を見る。
「もう一度?」
「ええ」
リゼルは彼の隣に座ったまま、静かに微笑んだ。
「今度は、その曲が生まれた理由を、わたくしも知っていますから」
アレンは目の前のキーボードを見つめる。
そして、再び鍵盤へ手を置いた。
最初の音が、古い倉庫の中に響く。
そして今度は――
その旋律は、アレンがただ胸の内から吐き出した独り言ではなかった。
二人がすべてを言葉にする必要もなく、互いの中にある感情を理解するための音になっていた。
曲が終わったあとも、二人はしばらく黙って座っていた。
誰も、すぐには何も言わなかった。
けれど、先ほどまで重くのしかかっていた空気は、少しずつ軽くなっていった。
リゼルがアレンをちらりと見る。
「そういえば……さっき、ずいぶん適当に鍵盤を押していましたわね」
「え?」
アレンが振り向く。
「何度か、そなた自身も次にどの鍵盤を押すのか分かっていないのが伝わってきましたわ」
「……」
アレンは魔晶石キーボードを見る。
「だって、これを弾いたことなんてないんですから」
「では、どうして弾いてみようと思ったのです?」
「分かりません」
彼は笑った。
「あのときは、何も考えていなかったんです」
リゼルは真剣な顔で頷いた。
「では、そなたは天才ということですわね」
「どうしてそういう結論になるんですか!?」
リゼルは思わず吹き出した。
「だって、適当に押していたのに、ちゃんと曲になったではありませんか」
「それなら次は、もっと適当に押してみますか」
「それはやめてくださいませ」
二人は同時に笑った。
それから、二人の会話は少しずつ別の話へ移っていった。
音楽の話から、練習の話へ。
練習の話から、理論の話ばかりして、他人を眠らせかけるエリアスの話へ。
「今日、エリアスはリズムの話だけで15分も話していましたよ」
アレンが言う。
「十五分ではありませんわ」
「もっと長かったんですか?」
「わたくしは時間を計っていませんもの」
「でも、私の顔を見れば、すごく長かったって分かるでしょう」
リゼルは笑った。
「エリアスが聞いたら、きっと『その時間にも意味があります』と反論するでしょうね」
「それでライラは、『誰も聞いてない』って言うんでしょうね」
「その通りですわ」
二人はまた笑った。
やがて、話題はますますくだらないものになっていった。
アレンの好きな食べ物の話。
ライラが以前、ベースを自分の足へ落としかけた話。
エリアスが、倉庫の備品の置き場所が記録と違うというだけで、管理係と長々と言い争っていた話。
そして先日の、リゼルをひたすら褒めていた若い貴族の話まで飛び出した。
アレンは、わざとその男の口調を真似する。
「『リゼル様だからこそ、美しいのでしょうか……』」
リゼルが勢いよく振り向く。
「アレン」
「はい」
「もうやめてくださいませ」
「はい」
彼は笑いを堪えようとした。
だが、結局こらえきれず、吹き出してしまう。
リゼルもまた、笑いを堪えられなかった。
二人の笑い声が、古い倉庫の中に静かに響いた。
手紙のことは、まだ消えていない。
アレンの想いも、なくなったわけではない。
そして、リゼルが父から受け取った言葉も、まだ彼女の心の中に残っている。
それでも、この短い時間だけは、二人ともそれらを考えずにいた。
戦争もない。
身分もない。
兵士としての務めもない。
王女としての立場もない。
叶わなかった恋もない。
そこにいたのはただ、くだらない話をしながら座っている二人の人間だけだった。
やがて、二人の胸にあった重苦しさは、少しずつ薄れていった。
そしてそれは、誰にも無理に作る必要のない、小さな笑い声へと変わっていった。




