第7話――貴族たちの静寂と涙
大広間には、今なお盛大な拍手が鳴り響いていた。
リゼルと三人の仲間たちが演奏の場を後にしたあとも、その音はなかなか止まらなかった。
最初はほんの数人から始まった拍手が、次第に会場にいたほとんどすべての貴族たちへと広がっていった。
かつてリゼルを嘲笑し、その楽器を「鉄屑」と呼んだ者たちでさえ、立ち上がり、彼女へ惜しみない拍手を送っていた。
リゼルは大広間の脇を歩きながら、いまだ鳴り止まぬ拍手に耳を傾けていた。
けれど、そこに勝利の喜びはなかった。
彼女の心に残っていたのは、先ほどまでそこにいた人々の顔だった。
ある者は、知らず知らずのうちに微笑んでいた。
ある者は、昔の楽しかった記憶でも思い出したのか、くすりと笑っていた。
ある者は目を閉じ、音楽に導かれるまま、大切な人へと思いを馳せていた。
ある者は、これまで知らなかった何かを見つけたかのように、目を輝かせていた。
そして、ほんの少しだけ目尻に涙を浮かべ、それを誰にも見られぬよう静かに拭う者もいた。
そんなリゼルの後ろを、アレンが明らかに興奮した様子で歩いていた。
「リゼル様……」
「どうしたの?」
「皆、本当に私たちに拍手を送ってくれたんですね!」
「見ていたわ」
リゼルは微笑んだ。
隣を歩いていたライラが、くすくすと笑う。
「アレン、さっきまで石像みたいに固まっていたじゃない」
「固まってなんかいません! 感動していただけです!」
「耳、真っ赤よ?」
「……」
アレンは慌てて両手で耳を覆った。
その後ろから魔晶石キーボードを持って歩いていたエリアスが、眼鏡越しに二人を眺めながら呟く。
「厳密には、耳の色の変化は感動と直接的な因果関係があるわけではありません。血流の増加による可能性が――」
「エリアス」
リゼルが笑顔で呼びかける。
「今は分析しなくてもいいわ」
「かしこまりました」
エリアスはすぐに口を閉ざした。
三人の小さな笑い声が、先ほどまで張り詰めていた空気を少しずつ和らげていく。
けれどリゼルの心には、先ほど大広間で感じたものがまだ残っていた。
自分の歌が、皆を泣かせたわけではない。
ただ、それぞれの心の奥に隠されていた何かが、外へ流れ出るきっかけになっただけなのだ。
だからこそ、彼らの反応はそれぞれ違っていた。
喜びに胸が満たされた者。
初めて耳にする音楽に胸を躍らせた者。
蘇った記憶に、心を震わせた者。
ただ、胸の奥に溜め込んでいたものが少し軽くなった者。
音楽が、彼らを別人に変えたわけではない。
ただ、もう一度、自分自身でいられる場所を与えただけなのだ。
⸻
宴が終わると、貴族たちは少しずつそれぞれの屋敷へと帰っていった。
けれど、その夜のリゼルの歌の話は、宴の終わりとともに消えることはなかった。
リゼルの歌声について語る者。
四つの奇妙な楽器について語る者。
身体の奥まで響いた旋律について語る者。
そして、自分自身でも説明できない、不思議な感情について語る者。
音楽を聴いた者たちは皆、それぞれの感情を抱えたまま家路についた。
ある貴族の夫人は屋敷へ戻ると、一人で窓辺に腰を下ろした。
暗闇の向こうへ視線を向けながら、彼女は前線にいる息子のことを思った。
これまでずっと、他人の前では強くあろうとしてきた。
けれど、先ほどの歌を聴いたことで、心の奥深くへ押し込めていた不安が、再び込み上げてきた。
彼女は目を閉じ、小さく呟いた。
「どうか……無事に帰ってきてくださいね……」
別の場所では、中年の貴族が妻と向かい合って座っていた。
彼は、先ほど聴いた歌について、薄い笑みを浮かべながら語った。
「なぜなのかは分からない……。だが、あの歌を聴いた瞬間、私は娘のことを思い出した」
妻は、しばらく何も言わなかった。
「……あの子が亡くなって、もう何年になるのかしら」
男は小さく笑った。
「そうだな……。私は、ずっとあのことを心の奥にしまい込みすぎていたのかもしれない」
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
けれど、それで十分だった。
音楽が過去を変えたわけではない。
戦争を消し去ったわけでもない。
失われたものを取り戻したわけでもない。
ただ、人々がもう一度、自分自身の感情を受け入れるためのきっかけを与えたのだ。
⸻
一方、かつてリゼルに強く反発していた保守派の公爵は、自室で珍しく黙り込んでいた。
手にしたワインには、まだ一口も口をつけていなかった。
彼は長い間、目の前の机を見つめていた。
「……鉄屑、か」
かつて自分があの楽器をそう呼んだことを思い出し、深く息を吐く。
「……私は、あまりにも早く判断してしまったようだ」
彼は未だにリゼルの音楽を理解しているわけではない。
新しいものを好んでいるわけでもない。
今すぐそれを受け入れられるとも思っていない。
それでも、初めてだった。
もう、あれを単なる騒音だと言い切ることができなかった。
なぜなら、自分自身もまた、音楽が終わった瞬間に胸の奥で感じたものを、はっきりと覚えているからだ。
(私は……音楽のことを、何も知らなかったのだな……)
⸻
翌日、用事を終えたリゼルは、王宮の廊下を歩いていた。
彼女はこれまでに起きた様々な出来事について考えながら歩いていたため、向こうから歩いてくる誰かに気づかなかった。
「おや……」
正面から歩いてきた若い貴族の青年が、ぴたりと足を止める。
「リゼル様」
リゼルは顔を上げた。
「あら、あなたは……」
「先日の夜、素晴らしいお歌を拝聴した者でございます」
青年は優雅に一礼した。
「リゼル様のお声が……今もなお、私の心の中に響いております」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
リゼルは礼儀正しく微笑んだ。
しかし、青年はそれだけでは終わらなかった。
「ですが、こうして間近でお姿を拝見すると……あの歌の美しさは、どうやら歌声だけによるものではなかったのだと、気づかされました」
「……」
「その翡翠の瞳は、まるで深い海のように美しい」
リゼルは、少し妙な気分になった。
「そして、そのお声は、私がこれまで耳にしたどの歌よりも優しい」
「……ありがとうございます」
「歩くお姿でさえ、まるで旋律に合わせて舞っているかのように優雅でいらっしゃる」
リゼルの笑顔が、わずかに引きつった。
――この人、何もかも褒めるつもりなのかしら……。
青年は真剣な表情のまま、なおも続ける。
「昨夜、私は自分が歌に魅了されたのだと思っておりました」
「ですが今は……私を魅了したものは、もしかすると歌ではなかったのではないかと、そう思っております」
リゼルは黙り込んだ。
ようやく理解した。
この男は、自分を口説いている。
しかも、どうやら本気らしい。
どうにか失礼にならないよう話を切り上げようとしていた、その時だった。
青年は微笑み、最後の言葉を口にした。
「リゼル様だからこそ、美しいのでしょうか。
それとも――美しいからこそ、リゼル様なのでしょうか。」
リゼルは数秒間、沈黙した。
顔には礼儀正しい笑みを浮かべたまま。
けれど、その胸中に浮かんだのは、ただ一つ。
(こいつ、ヤバいな……)
「……随分と、お上手にお褒めになるのですね」
「リゼル様よりそのようなお言葉を賜れるとは、光栄の極みでございます」
青年は誇らしげに微笑んだ。
どうやら、自分の言葉を聞いた王女が逃げ出したいと思っていることには、まったく気づいていないらしい。
リゼルは、少し離れた場所で待っていたアレンへ視線を向けた。
「アレン、参りましょう」
「かしこまりました」
アレンがすぐに駆け寄ってくる。
だが、その場を離れる前に、彼は貴族の青年を見て首を傾げた。
「……あの人、リゼル様を褒めているんですよね?」
後から追いついてきたライラが、小声で答える。
「ええ」
「ずいぶん長いこと褒めてません?」
「私もそう思うわ」
エリアスも真剣な顔で頷いた。
「観察した限りでは、約三分間にわたり、リゼル様の容姿、声、立ち居振る舞いについて賞賛し続けております。なお、その間に新しい情報は一つも増えていません」
「エリアス!」
リゼルが振り返る。
頬が少し赤くなっていた。
「……申し訳ございません」
三人は、ぴたりと黙った。
そして――
「ははははっ!」
アレンが堪えきれずに噴き出した。
「アレン!」
「も、申し訳ございません!」
三人の笑い声が、王宮の廊下へと響いていく。
リゼルは呆れたようにため息をつきながらも、思わず微笑んだ。
少なくとも……彼らが傍にいてくれるおかげで、さっきまでの気まずさも、笑い話に変えることができる。
⸻
四人がいつもの物置部屋へ戻ると、小さな机を囲むように腰を下ろした。
エリアスは聴衆の反応について記録をまとめていた。
ライラは楽器の手入れをしていた。
そしてアレンは、先ほどの貴族の青年の仕草を真似していた。
「『リゼル様だからこそ、美しいのでしょうか……』」
「もうやめなさい、アレン」
リゼルが即座に言い放つ。
「かしこまりました」
四人の間に笑いが起こった。
やがて笑い声が静まると、リゼルは目の前に並べられた四つの楽器を見つめた。
思い浮かぶのは、先ほどまでの貴族たちの顔。
笑顔。
興奮。
記憶。
恐れ。
そして、一部の者が浮かべていた、ほんのわずかな涙。
「歌が……彼らを泣かせたわけではないのですね」
ライラがリゼルを見る。
「では、いったい何なのでしょう?」
リゼルは窓の外へ視線を向けた。
「ただ……心の中にあるものが、流れ出る場所を作っただけなのだと思いますわ」
誰も答えなかった。
けれど、全員がその意味を理解していた。
貴族たちは、誇り高い。
古いしきたりに縛られている。
理解できないものを拒むこともある。
けれど、豪華な衣服をまとい、高い身分にある彼らもまた、一人の人間なのだ。
失うことを恐れる人間。
大切な人を想う人間。
誰にも語ったことのない記憶を抱えている人間。
そして、戦争に揺れるこの国で、誰かに希望を与えてほしいと願う人間。
リゼルはようやく気づき始めていた。
自分が彼らに与えたものは、ただの音楽ではなかったのかもしれない。
ほんのひとときだけでも、身分も立場も忘れ、一人の人間としての心を取り戻せる時間。
それこそが、自分の音楽が与えたものなのかもしれない。
そして彼女はまだ知らない。
あの夜に起きたことが、貴族たちの見方だけを変えたのではないことを。
この国で最も大きな権力を持つ男の考えさえも、変えようとしていることを。
国王アルドリックは、静かに娘の姿を見つめ続けていた。
そして傍らに控える侍従へ、ただ一言だけ告げた。
「……明日、娘を私のもとへ呼べ」
それが、国王と王女――二人の関係を大きく変えることになる対話の始まりだった。




