第3話――見知らぬ世界と目覚めし音
これが、リゼルにとって初めて部屋の外へ足を踏み出す瞬間だった。
療養を終え、すっかり身体が回復したある日、兄であるカーレル王子が、外の空気を吸いに行こうと彼女を誘ってくれた。
大きな木製の扉が開かれた瞬間――
目の前に広がった光景に、リゼルは思わず息を呑んだ。
どこまでも続く、果てのない青空。
その空の下には、精緻な装飾を施された王城の屋根が連なっている。
庭園には色とりどりの花々が咲き誇り、陽の光を浴びて鮮やかに輝いていた。
小さな鳥たちが空を舞い、爽やかな風が吹き抜け、リゼルの金色の髪をさらさらと揺らしていく。
これが……世界。
本当の、世界なのだ。
(綺麗……)
リゼルの身体の中にいるリクは、そう思った。
青緑色の瞳が大きく見開かれる。
そこにあるものは、前の人生では一度も見ることのできなかったものばかりだった。
かつてリクの世界にあったのは、白い天井と、小さな窓だけ。
けれど今は違う。
目の前のすべてが、どこまでも広がっている。
そして、それを自分の目で見て、自分の身体で感じることができる。
気づけば、彼女の足取りは少しずつ速くなっていた。
歩いていたはずが、いつの間にか小走りになっている。
柔らかな革靴が緑の芝生を踏む。
リゼルは、そのまま前へ駆け出した。
風が頬を撫でる。
身体の中を血が巡り、しなやかな筋肉が動く感覚が伝わってくる。
そのすべてが、信じられないほど新鮮だった。
「ふふっ……」
思わず、小さな笑い声がこぼれる。
だが、突然リゼルは足を止めた。
勢い余って、危うく転びそうになる。
そうだ。
以前の自分には、こんなことはできなかった。
身体を少し動かすだけで、全身に痛みが走った。
それなのに今、自分は走っている。
何にも遮られることのない空の下を――。
「気に入ったか、リゼル」
後ろから歩いてきたカーレルが、妹の隣で足を止める。
その眼差しは、いつになく穏やかだった。
「はい、お兄様……」
リゼルは慌てて姿勢を正した。
そして、小さく咳払いをして、王女らしい振る舞いを取り戻す。
「わ、わたくしは……ただ、本日は随分と空気が澄んでいると感じただけですわ」
カーレルは、わずかに口元を緩めた。
「そうか」
そう言って、彼はリゼルを連れて庭園の奥へと歩いていく。
やがて二人は、王都全体を見渡すことのできる高いテラスへと辿り着いた。
眼下に広がるアーリア王国の王都は、まるで一枚の絵画のように美しかった。
澄んだ川が街の中央を流れ、その両岸には数え切れないほどの建物が並んでいる。
人々が行き交い、街は本来なら活気に満ちているはずだった。
けれど――。
よく目を凝らしてみると、リゼルはどこか奇妙な違和感を覚えた。
王都全体を覆う空気が、重い。
見回りをする兵士たちの表情は険しく、市場を行き交う人々の顔にも、明るい笑顔はほとんど見られなかった。
「お兄様……何かあったのですか?」
リゼルが尋ねる。
「どうして、街の様子が……こんなにも息苦しいのでしょう?」
カーレルの瞳から、わずかに光が消えた。
彼は東の彼方へと視線を向ける。
「戦争だ」
短い言葉だった。
「隣国が、昨年から我が国へ侵攻を続けている。敵軍は少しずつ、我らの国境へ近づいてきているのだ」
「……わたくしたちは、勝てるのでしょうか?」
リゼルの問いに、カーレルは静かに拳を握りしめた。
「余は、母上を守る。そなたを守る。そして、この国の民も守る。そのためならば、あらゆる手を尽くそう」
その声には、王子としての強い決意が宿っていた。
だが、次に口を開いたとき、その表情には深い憂いが浮かんでいた。
「だが……最も恐ろしいのは、敵の刃ではない」
カーレルは眼下の街を見つめる。
「絶望だ」
その一言が、静かに響いた。
「民は恐れ始めている。兵たちもまた、戦う気力を失いつつある。人の心が敗れれば、どれほど堅固な城壁であろうと、もはや意味を成さぬ」
リゼルは、その言葉を黙って聞いていた。
胸の奥が、鋭く痛んだ。
この重苦しさ。
逃げることもできず、ただ狭い場所で、いつ終わるとも知れない苦しみを待ち続ける感覚。
それならば――誰よりもよく知っている。
なぜなら、それはリクが十六年間、病室のベッドの上で味わい続けてきたものだったからだ。
(何か……できることはないのかな)
(この人たちの心を、少しでも癒やせるものが……)
その夜。
リゼルはなかなか眠りにつくことができなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、昼間に見た街の光景を思い返している。
どうすればいいのだろう。
何をすれば、人々の心に再び希望を灯せるのだろう。
そんなことを考えていた、そのときだった。
――どこからか、音楽が聞こえてきた。
かすかで、儚い旋律。
けれど、不思議なほど懐かしい。
(……この曲……)
リゼルは耳を澄ませた。
どこか、前の世界で母が聴かせてくれたあの歌に似ている。
気づけば、彼女の足は音のする方へ向かっていた。
静まり返った王宮の廊下を、一歩ずつ進んでいく。
音は彼女を導くように、王宮の西棟へと続いていた。
そこは長い間使われていない、古びた一角だった。
そして最後に、音は一つの古い物置の前で途切れた。
リゼルは扉に手をかける。
ギィ……。
軋んだ音を立てて扉が開く。
中へ足を踏み入れた瞬間、積もっていた埃がふわりと舞い上がった。
薄暗い部屋の隅。
そこに、一つの古びた楽器が置かれていた。
古い木で作られた、竪琴によく似た楽器。
細長い首を持ち、何本もの弦が張られている。
この世界の人間なら、誰も知らない楽器なのかもしれない。
けれど――。
リクには、それが何なのか分かっていた。
「……ギターに似てる」
リゼルは楽器の前に腰を下ろした。
そして、壊れないようにそっと持ち上げ、自分の膝の上へ乗せる。
その瞬間だった。
指先が弦に触れた。
ふわっ……。
掌から、柔らかな光が溢れ出した。
暖かな光は瞬く間に広がり、楽器全体を包み込んでいく。
ただの光ではない。
これは――変質。
まるで錬金術そのものだった。
朽ち果てた木材が、細かな光の粒へと崩れていく。
そして、その光の粒が再び絡み合い、一つの形を作り始めた。
木材の密度が変化していく。
より美しく、より豊かな響きを生み出すために、内部の構造そのものが組み替えられていく。
部屋の隅に転がっていた錆びた金属や銅の欠片までが魔力に引き寄せられ、宙へ浮かび上がった。
それらは赤く輝きながら溶け、細く引き伸ばされ、強靭な弦へと姿を変えていく。
古びた竪琴は、目の前でその姿を完全に変えていった。
やがてそこに現れたのは――。
洗練されたボディラインを持つ、一つの魔導楽器だった。
艶やかに磨かれた上質な木材で作られたボディ。
その滑らかな曲線は、リクの記憶にあるスリムなギターの形状を色濃く残していたが、細部には銀色に輝く魔法文字が刻み込まれている。
そして、この魔導楽器にはシールドケーブルもアンプも必要ない。
内部に宿る魔力そのものが音を蓄え、増幅し、空間全体を震わせる豊かな響きを生み出すのだ。
これが――自分の魔法。
『記憶による創造』。
リゼルは静かに目を閉じた。
孤独。
恐怖。
そして――希望。
この街で絶望を抱えている人々へ、自分が届けたいものを思い浮かべる。
そして、ゆっくりと指を弦へと滑らせた。
――ギィン。
最初のコードが、部屋いっぱいに響き渡った。
この世界で、人々が知る音楽といえば、せいぜい数個の音を奏でる素朴な笛や、粗末な革張りの太鼓くらいだった。
そんな世界において――。
複雑なポリフォニー。
幾重にも重なる力強いハーモニー。
そして、魔力によって駆動する魔導ギターの豊かな響き。
それはまるで――。
晴れ渡った昼間の空を突然引き裂く雷鳴だった。
この世界の人々は、これほど複雑で力強い音楽を受け止める術を、まだ知らなかった。
リゼルは歌い始めた。
透き通るように美しく、それでいて力強い王女の歌声。
そこに重なるのは――。
一人の少年が抱えていた魂と痛み。
二つの人生が一つの歌声となり、聴く者の心を揺さぶっていく。
まるで、目には見えない手が胸の奥から心臓を取り出し、握り潰したあと、もう一度元の場所へ戻していくかのように。
――バンッ!
突然、物置の扉が勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、ライラと、若い近衛兵のアレンだった。
ライラは、必死になってリゼルを探していた。
お嬢様が部屋からいなくなったと知った瞬間、血の気が引き、慌ててアレンを連れて王宮中を探し回っていたのだ。そして、この西棟から聞こえてきた信じられない音色に導かれるように、たどり着いたのだった。
二人とも、まるで石に変えられたかのように、その場で凍りついている。
ライラの目が、大きく見開かれる。
身体が震えた。
まるで強烈な電流が全身を駆け抜けたかのようだった。
頭の中が真っ白になる。
何も考えられない。
その瞬間、ライラは無意識に息を止めっていた。
自分の呼吸音で、この美しい音を壊してしまうことさえ恐ろしく感じたのだ。
胸の奥に溢れた感情は、もはや抑えきれなかった。
涙が次々と頬を伝い落ちる。
やがてライラは、その場に力なく崩れ落ち、膝をついた。
まるで、魂の半分が身体から抜け落ちてしまったかのように。
一方――。
戦場を幾度となく駆け抜けてきた若き兵士、アレンは、石像のように立ち尽くしていた。
鋭い眼差しは大きく見開かれ、今にも血管が張り裂けそうなほどだった。
(な、なんだ……これは……!?)
アレンの頭の中で、叫び声が響き渡る。
これまで信じてきた世界が、一瞬で崩れ去っていく。
この音は、ただの音楽ではない。
それは、魂そのものを揺さぶる衝撃波。
Aランクの攻撃魔法よりもなお激しく、心の奥底を震わせる力だった。
やがてアレンの両膝が、力を失った。
ドンッ!
床に膝を打ちつける。
自分でも気づかないうちに、涙がこぼれ落ちていた。
荒々しい戦場を生き抜いてきた男の目から、止めどなく涙が溢れていく。
彼は歯を食いしばった。
そのまま両手で床板を掴み、倒れまいと必死に身体を支える。
こんな姿を見られたくない。
兵士としての誇りが、それを許さない。
それでも――。
心も魂も、その歌に抗うことができなかった。
二人とも、もう一言も発することができない。
部屋全体が、これまで人々が知らなかった音楽の力に包まれていた。
やがて――。
最後の音が静かに消えていく。
そして、その場には恐ろしいほどの静寂だけが残った。
ライラはその場に顔を伏せ、声を押し殺しながら泣き続けていた。
身体は小さく震えている。
まるで、失ったものをようやく取り戻した子供のように。
一方のアレンは、まるで死地から逃げ帰ってきたかのように、荒い息を繰り返していた。
背中には冷や汗が流れ、全身が汗で濡れている。
「お、お嬢様……リゼルお嬢様……」
ライラがゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた顔。
真っ赤になった瞳。
その眼差しは、目の前のリゼルをまるで創造神でも見るかのように見つめていた。
「先ほどの音は……いったい、何なのでしょうか……?」
声が震えている。
「わたし……自分の壊れてしまった心が……もう一度、ひとつに繋ぎ直されていくように感じました……」
ライラは言葉を失いながら、それでも必死に続けた。
「こんなもの……人間が想像できるようなものではございません……」
アレンも、震える手で頬の涙を拭った。
そして、ふらつきながら立ち上がる。
彼は深く、深く頭を下げた。
「……私は、幾度となく戦場を経験してまいりました」
その声は、普段の彼からは想像できないほど震えていた。
「数え切れぬほどの死も見てきました。ですが……この世に、人の魂をここまで震わせる『音』が存在するとは……考えたこともありませんでした」
アレンは顔を上げる。
その瞳には、心からの畏敬が宿っていた。
「これは……十万の軍勢にも勝る力にございます」
そして、震える声で言い切った。
「まさしく……奇跡にございます、お嬢様」
リゼルは、目の前の二人を見つめていた。
どうやら、想像していた以上に強烈な反応を引き起こしてしまったらしい。
少し驚きながらも、二人の目に浮かぶ畏敬と驚愕を見て――彼女は悟った。
この世界を救うための武器は、すでに自分の手の中にある。
(この音楽の力が、これほどのものなら……)
(わたくしたちは、この世界を救えるかもしれない)
リゼルは静かに立ち上がった。
青緑色の瞳に、強い決意が宿る。
「ライラ……アレン……」
二人の名を呼ぶ。
「わたくし一人の歌では、絶望を抱えているすべての人々に、この音を届けることはできないかもしれません」
リゼルは、二人へ向かって手を差し伸べた。
「だから……あなたたちも、わたくしと一緒に『バンド』を作ってくれませんか?」
その瞬間。
彼女の手のひらから、青と金色の魔力が再び眩い光を放った。
今度は、周囲のあらゆるものが魔力に引き寄せられていく。
古びた木材。
朽ちた鉄片。
そして、乾いた牛革。
それらが宙へと舞い上がり、無数の光の粒に包まれていく。
溶ける。
組み合わさる。
形を変える。
それは凄まじい速度で進み、やがて部屋いっぱいに大きな音を響かせた。
――ドンッ!
――バチッ!
そして、まだ驚きから立ち直れずにいるライラとアレンの目の前で――。
一つの新たな魔導楽器が姿を現した。
スリムで美しいボディに銀色の魔法文字が刻まれた、アンプ不要で深く力強い低音を響かせる――魔導ベース。
そしてもう一つ。
魔力によって強烈な打撃音を生み出す――魔導ドラムセット。
二つの楽器は、まるで最初からそこに存在していたかのように完成された姿で佇んでいた。
リゼルは、魔導ベースをライラへ差し出した。
「ライラ……」
その声は、静かだった。
「あなたは、人々の心を優しく繋ぐ者。これを、あなたに託します」
次に、アレンへと視線を向ける。
「アレン……」
「あなたは、すべての命のリズムを支える強さを持っている」
「このドラムで、わたくしたちの音を支えてください」
二人は、目の前に現れた不思議な楽器を見つめた。
そこに宿る魔力を感じた瞬間――。
自分たちの運命が、この音楽と永遠に結びついたのだと、本能的に理解していた。
ライラは震える手で魔導ベースを受け取った。
アレンはその場に跪き、深い敬意を込めて魔導ドラムセットを受け取る。
その瞬間――。
闇に飲み込まれようとしているアーリア王国の片隅で。
人々の心と、この世界の運命を音楽で繋ぐ新たなバンドが――。
正式に、その産声を上げた。




