第2話――再び与えられた命
心臓が脈打っている。
リクはそれをはっきりと感じ取っていた。
トクン……トクン……。
一定のリズムで、力強く、確かな鼓動を刻んでいる。
彼はしばらくの間、何が起きているのか脳が理解を拒んでいるかのようにじっと動かず、やがてゆっくりと手を伸ばし、自らの胸元に触れた。
身体につながれた管はない。
絶えず鳴り続ける医療機器もない。
あの忌まわしくも、馴染み深い痛みもない。
そして何より――
息ができる。
リクは、これまでの人生で一度も経験したことがないほど深く息を吸い込んだ。冷たく新鮮な空気が肺の隅々まで満たしていく。そして、ゆっくりと息を吐き出す。
もう一度。
さらにもう一度。
息をするたびに、自分が間違いなく「生きている」ことを証明しているかのようだった。
たしかに自分は、死んだはずなのに。
最後の光景がまだ脳裏に焼き付いている。
強く握りしめてくれた母の手。
手の甲に落ちた温かい涙。
背景に流れていたあの歌。
そして、最後に伝えようとした言葉。
――もし来世があるなら……もう一度聴きたい……。
リクは静かに目を閉じた。
(ここが……その『来世』なのだろうか?)
「お嬢様……」
控えめな声が、彼を現実に引き戻す。リクは視線を向けた。ベッドの傍らに、メイド服を身にまとった少女が静かに立っている。
長い茶色の髪に、黒い瞳。彼女はあからさまに不安そうな表情で彼を見つめていた。
「どこかお加減の悪いところはございませんか?」
リクはすぐには答えなかった。
目の前の少女を、警戒するようにじっと見つめる。
医者ではない。
看護師でもない。
そして当然、彼の母でもない。
しかし、その瞳に浮かぶ純粋な心配の色が、リクの心を妙にざわつかせた。
「わたくしはライラと申します。リゼル様の専属メイドを務めております」
少女はもう一度、深く頭を下げた。
「昨日は突然お倒れになって……皆、本当に心配しておりましたのよ」
「昨日……?」
自分の口から出た音に、リクは思わず息を呑んだ。
自分の声ではない。
鈴の音のように透き通った、柔らかく甘い少女の声。
リクは反射的に自分の喉元に触れた。
「僕の……声……?」
ライラが不思議そうに小首を傾げる。
「何かございましたでしょうか?」
「いや……」
彼は言葉を濁した。
「なんでもない」という言葉が喉の奥につかえて出てこない。声が出せないからではない。自分の声よりも、もっと恐ろしい「ある事実」に気づき始めていたからだ。
この体は、僕のものじゃない。
リクは恐る恐る、ベッドから足を下ろした。
素足が冷たい床に触れる。
彼はその場でピタリと動きを止めた。
床は、たしかにそこにあった。
立っている。
自分の足が、自分の体重をしっかりと支えているのだ。
震えもない。
痛みもない。
体が今にも崩れ落ちそうな、あの絶望的な感覚もない。
リクは数秒間そのまま立ち尽くし、やがて、おそるおそる一歩を踏み出した。
そして、もう一歩。
すべてが、あまりにも容易かった。
彼は危うく笑い出しそうになった。滑稽だからではない。他の誰かにとってはごく当たり前の日常が、彼にとっては想像することしか許されなかった「奇跡」だったからだ。
『歩く』という奇跡。
「お嬢様……?」
ライラが心配そうに駆け寄ろうとする。
「……大丈夫だ」
リクは手でそれを制し、自分の両手を見つめた。
小さく、華奢な手。
抜けるように白い肌。
五本の指は、思いどおりに自由に動く。
強く握りしめ、開き、また握る。
その些細な感覚が、彼を泣きたくさせた。
(これが……僕が一度も持てなかった『命』……)
顔を上げると、少し離れた場所に大きな姿見があるのが目に入った。
リクはゆっくりとそこへ歩み寄る。
鏡に映る姿を見て、彼は再び息を呑んだ。
一人の少女が、そこに立っていた。
窓からの光を反射して煌めく青緑の瞳。肩まで伸びた美しい金糸の髪。まるで精巧に作られた人形のように、白く整った顔立ち。
鏡の中の少女が動く。
僕が動いているのだ。
少女が頬に手を当てる。
僕も同じように頬に触れた。
彼はその姿を、長い間見つめ続けた。
「これ……僕、なの……?」
後ろに立つライラが恭しく答えた。
「はい、そうでございます」
リクは振り返った。
「僕の名前は……?」
『僕』という聞き慣れない一人称に、ライラは一瞬だけ目を丸くした。しかし、お嬢様はまだ倒れたショックで混乱しておられるのだと思い直し、慎重に口を開いた。
「リゼル王女殿下でございます」
その名前が、頭の中にふわりと浮かんできた。
リゼル。
リゼル……。
聞き慣れない響きだった。
しかし同時に、この体がはじめから知っていたかのように、ごく自然に唇が動いた。
「リゼル……」
リクの心臓が小さく跳ねた。
僕の名前はリクだ。はっきりと覚えている。
あの白い部屋も、ベッドも、母の手も、雨の音も、あの歌も。
すべての記憶はここにある。
だが、この体には『リゼル』という名がある。
「ここはアーリア王国の王宮でございます」
ライラは静かに言葉を続けた。
「あなた様は、アーリア王国の王女、リゼル・マリアベル・アーリア様でいらっしゃいます」
リクは黙ってその言葉を聞いた。
王女……。
王国……。
王宮……。
どれも自分の人生には縁のない言葉だ。
しかし今、それは揺るぎない現実として目の前に存在している。
もう一度鏡を見た。そこに映る少女は、自分の記憶にある『自分』とはあまりにもかけ離れていて、美しすぎた。
「あの……」
リクは躊躇いながら口を開いた。
「僕の……母さんは、どこにいる?」
ライラが言葉に詰まった、その時だった。
重厚な扉が静かに開いた。
一人の女性が足早に入ってきた。優雅なドレスに身を包んだその女性は、本来なら気高い気品をまとっているのだろうが、今はその美しい顔に深い焦燥と不安を浮かべていた。
姿見の前に立つリゼルの姿を見た瞬間、彼女はピタリと足を止めた。
その瞳が、激しく揺れ動く。
「リゼル……」
微かな声だった。
しかしその声を聞いた瞬間、リクの胸の奥で何かが激しく弾けた。
女性は駆け寄り、彼を力強く抱きしめた。
「目を覚ましてくれたのね……」
その温もりを肌で感じた瞬間、リクは全身を強張らせた。
温かい。
誰かを強く思い出させるほどに、温かい。
女性の手が、彼の背中を優しく撫でる。
「本当に怖かったのよ……」
その言葉が、リクの胸を鋭く締め付けた。
彼は目を閉じた。
記憶の中にある、元の母の手を思い出す。
最期の瞬間まで握りしめてくれていた手。決して自分を手放そうとしなかったあの手。
この抱擁が、あの母のものではないことは分かっている。
目の前にいる人は、僕の本当の母じゃない。
なのに、この温もりは……。
あまりにも似すぎている。
「母さん……」
無意識のうちに、その言葉が口からこぼれ落ちていた。
女性は一瞬動きを止めた。『母さん』と聞き慣れない呼び方をする娘の様子に微かな戸惑いを覚えたが、今はただ、無事に生きて目覚めてくれたという事実だけで十分だった。彼女はすべてを包み込むように、さらに強く彼を抱きしめた。
「ええ、そうよ。私はここにいるわ」
リクの瞳に涙が滲んだ。
誰にも見られたくなくて、慌てて俯く。
しかし遅かった。一滴の涙が、自分の手の甲にポツリと落ちる。
彼自身にも分からなかった。
これが終わってしまった前の人生への涙なのか、それとも、たった今与えられた新しい人生への涙なのか。
女性はゆっくりと体を離し、涙ぐんだ笑顔を見せた。
「私はエララよ」
彼女は愛おしそうに微笑んだ。
「エララ・アーリア。あなたの母よ」
リクは彼女を見つめた。
エララ。知らない名前だ。
だが、その笑顔には、彼がこの世で最も愛し、恋い焦がれた人の面影が重なっていた。
何かを言わなければならない気がした。
『僕はあなたの子じゃありません』と。
『僕はリゼルじゃない』と。
『僕の名前はリクです』と。
しかし、エララの瞳を見た瞬間、すべての言葉は喉の奥に消えていった。
その瞳には、彼がかつて一身に受けていたのと同じ、無償の愛が溢れていたからだ。
見返りなど求めない。ただ、我が子が生きているという事実だけで満たされる、深く無垢な愛。
だから、リクはただ小さく頷くことしかできなかった。
「……はい」
その返事に、エララは心からの安堵の笑みをこぼした。
「よかったわ……ちゃんと覚えていてくれたのね」
リクは答えなかった。
自分が一体『何を』覚えているのか、彼自身にも分からなかったからだ。
元の母のことは覚えている。
しかし今、新しい母を与えられた。
自分の名前がリクであることは覚えている。
しかし今、誰もが自分をリゼルと呼ぶ。
一つの人生が終わり、新しい人生が始まろうとしている。
リクは再び窓際へと歩み寄った。
風に揺れるカーテンの向こうには、どこまでも広がる空が見えた。
彼の人生で、一度も見たことがないほど広大で美しい空。
かつて、彼はベッドの上から小さな窓枠に切り取られた空を見上げていた。
『一度でいいから、あの外の世界に出てみたい』と、何度願ったことだろう。
今、彼は外にいる。
それどころか――
世界そのものが、彼の目の前に広がっていた。
リクはそっと窓ガラスに手を触れた。
冷たい風が頬を撫でる。
そして、その静寂の中で――。
彼は『ある音』を耳にした。
とても小さく。
遠くから。
気のせいかと思うほど微かに。
ピッ……。
リクは動きを止めた。
ピッ……。
心臓が早鐘を打つ。
その音は、あの白い部屋で鳴っていた音と同じだった。
十六年間、ずっと彼のそばにあった音。
彼の命が尽きると共に、永遠に消え去ったはずの音。
リクは勢いよく振り返り、部屋中を見渡した。
医療機器はない。
心電図のモニターもない。
その音を発するようなものは、ここには何一つ存在しない。
だが、音は確実に彼の頭の中で鳴り響いていた。
ピッ……ピッ……。
そして、記憶のさらに深い底から……。
あの『歌』のメロディーが、再び静かに流れ始めていた。




