第24話――まだ開かない門
王宮での暮らしは、王宮なりの拍子で進んでいった。
レオンとユリウスは、それぞれ元の務めに戻った。二人の任務は、王宮の門で終わっていたのだ。
夕食の皿は、長いテーブルに隙間がなくなるほど並べられた。仕立て屋が、まだ日取りも決まっていない宴のための絹地を抱えて、顔を出していった。
エレナは、そのすべてを見つめていた。医療施設にふらりと顔を出していく貴族たちを見ていたのと、同じ目で。
忘れる人間なら、二、三週間もあれば十分だ。
王宮に来て最初の晩、エレナは家へ手紙を書いた。あの演奏の夜、杭でも打ち込まれたかのように背筋をこわばらせていた母の姿を思い出すと、ペンが止まらなくなった。
翌朝、まだ朝食も始まらないうちから、エレナは王女の部屋の前に立っていた。
「お願いに上がったわけではありませんわ」
彼女のほうが、先に口を開いた。
「王立医療施設で、手伝いの者を受け入れているかどうか。それを伺いたいだけですの」
リゼルはしばらく彼女を見つめてから、微笑んだ。
「管理者の方に、訊いてみますね」
その日から、エレナは朝早くに王宮を出て、昼過ぎに戻ってくるようになった。肘までまくり上げた袖を、そのままにして。
◇
医療施設から戻ると、エレナは残りの時間を、西棟の古い物置部屋の前を「通りがかる」ことに費やした。
一度目は、バンドの練習が一曲の半ばに差しかかったころ、戸口にひょっこりと姿を見せた。
「通りがかっただけですわ」
「どちらへ向かわれる途中でしょう?」
ライラが、ほんの少しだけ丁寧すぎる笑顔で尋ねた。
「この棟は、この先、行き止まりですけれど」
エレナは答えなかった。ライラが椅子を引いてきて勧めたが、彼女はそれを断り、扉のそばの床に腰を下ろした。あの夜と、同じ場所に。
「長居はいたしません」
彼女は、最後の曲が終わるまでそこにいた。
帰り際、リゼルがギターを片づけながら、何気ない調子で言った。
「この部屋、鍵はかけていないんですよ。エレナさん、いつでもいらしてくださいね」
「ここに用など、ございませんもの」
二度目は、彼女が腰を下ろすが早いか、エリアスが手帳を抱えてまっすぐにやってきた。
「昔の宮廷で弾かれていた撥弦楽器のことですが、調弦はどのように? それと、弦の張りの強さは――」
エレナは答えた。答えて、さらに答えた。エリアスの手帳が二ページ進んだところで、彼女はようやく気づいた。ただ通りがかっただけの人間にしては、詳しく語りすぎていることに。
「……通りがかっただけ、ですわ」
「はい」
エリアスは、その一言まで手帳に書き留めた。
三度目には、扉のそばにクッションがひとつ置かれていた。誰が置いたのか、言う者はいない。エレナも尋ねなかった。ただ黙って、その上に腰を下ろした。
その日、バンドが練習していたのは、あの愛の歌だった。後方の医療施設で、最初の日に演奏した曲だ。繰り返すたびに、アレンのドラムは同じところで半拍遅れた。「どうか男ら去りゆけ」の一節で。
「あそこで、毎回ドラムが遅れますのね」
エレナが言った。音の狂いを指摘するのと、少しも変わらない口ぶりで。
「ほかの殿方には去っていただきたい、と願う一節でしょう? 何をためらうことがありますの」
スティックが、宙で一瞬止まった。ライラが、ちらりとアレンを見る。
「……申し訳ありません。次は、気をつけます」
十日目に、家から返事が届いた。端正な父の筆跡で、たった一行。
『十一箇条、残らずマルガレーテに読んで聞かせた。少なくとも、椅子は壊れていない。――父』
その下に、もう一行。ペン先が紙を突き破りそうなほど、大きな字で。
『十一個目ってのは一体なんの話だ、クソが!』
エレナは長いこと、唇をきつく結んでいた。けれど最後には、ほころぶ口の端に降参した。
◇
そのあいだにも、受け入れ先の町の一覧は、毎夕リゼルの部屋へ届けられた。新しい数字を添えて。
あとの数字が減ったことは、一度もなかった。
昼のあいだ、リゼルは王家の備蓄庫から物資を回してほしいと嘆願を出し、そのたびに同じ答えを受け取った。――本件は、まず貴族議会を通していただきませんと。夜は、あとの数字に追い越された最初の数字を、ひとつ、またひとつと丸で囲んだ。丸で埋め尽くされたページも出てきた。
二週目に入ったころ、リゼルはあることに気づいた。
毎朝、壁に立てかけておいたギターの弦が、前の晩に合わせたときより、ほんのわずかに緩んでいるのだ。
リゼルは、あの日の馬車でエレナが口にした言葉を思い出した。
――わたくしが知っているものより、弦が強く張ってありますのね。
その日の夕方、エレナの左手の指先が三本、薄い布で巻かれていた。ライラはその指を見て、それからリゼルを見た。
リゼルは、何も訊かなかった。
けれどその夜から、物置部屋を出る前に、自分の手で弦をほんの少しだけ緩め、それからギターを元の場所に立てかけておくようになった。
◇
二週目の終わり、リゼルは王立医療施設を訪ねた。予備の毛布や寝台を避難民に分けてもらえないか、管理者に相談するためだった。かつて兄が意識のないまま横たわっていた部屋の前を通り過ぎ、彼女は大部屋の戸口で足を止めた。
中では、エレナが若い兵士に薬のカップを差し出していた。兵士は、それを押し返した。
「知ってます? 後方の軍の医療施設に、貴族の子弟の一団が歌いに来たんですって。そしたら、脚の折れた兵士がひとり、中庭のど真ん中で立ち上がって、歩き出したとか。その一団がここにも来てくれりゃあ、こんな苦い薬、飲まなくて済むんですけどね」
エレナは、カップを彼の手に戻した。
「あの夜、脚の折れた方が立ち上がって歩いたりは、していません。わたくし、その場におりましたから」
淡々とした声だった。
「お飲みなさい。傷に、歌は聞こえませんわ」
若い兵士は顔をしかめたが、やがて観念したように、カップの中身をあおった。
リゼルは、戸口で立ち尽くしていた。
あの夜に歌ったことを、悔やんでいるわけではない。けれど、あの兵士が語っていた歌は、彼女の歌った歌ではなかった。そんな歌は、どこにも存在しない。それなのにその歌は、本物よりも速く、旅をしている。
毛布の件についても、管理者の答えはほかの者たちと同じだった。貴族議会の判断を待たねばならない、と。
王宮へ戻る道の半ばまで、エレナは黙って歩いていた。それから、四つ折りにした紙を一枚、差し出した。
「避難してきた人たちに要るものです。食べ物のほかに」
リゼルは紙を開いた。水を入れる器。清潔な布。子どもと年寄りのための毛布。道中で病人の世話をする人手。どれも、何から先に要るかの順に並んでいる。
「家を離れてきた人に足りないのは、食べ物だけではありませんの。何年も、見てまいりましたから」
エレナは振り向かずに言った。
「忘れないように、書き留めておいただけですわ」
リゼルはその覚え書きをたたみ、受け入れ先の町の一覧と一緒にしまった。
◇
三週目の終わり、物資の件で貴族議会が開かれた。
王座は空いていた。父は軍議のため、この場には来られずにいる。
リゼルは議場の中央に立った。手には二枚の紙。丸だらけになった受け入れ先の町の一覧と、自分のものではない几帳面な筆跡で綴られた、あの覚え書き。彼女は声を震わせて訴えたりはしなかった。ただ、一行ずつ読み上げていった。
ひとりの貴族が、いかにも恭しく頭を垂れた。
「王女殿下は、まことにお慈悲深くていらっしゃいます。なれど、王家の備蓄庫の糧秣は、すなわち軍の糧秣にございます。ただでさえ、前線への補給は遅れがち。この上そこから割くとなれば……」
「避難民の面倒は、受け入れた町が見るべきものでございましょう」
別の貴族が言い添えた。
「王都が備蓄庫の扉を開いたと知れれば、彼らはもう、どの町にも留まりますまい。皆、まっすぐこちらを目指してまいります」
「それに、殿下のお手元の数字は、いまだ検めを経たものではございませんので」
この議会が彼女の音楽を禁じたときのように、机を拳で叩く者はいなかった。どの言葉も礼にかない、どの言葉にも筋が通っていた。そして、どの言葉も、同じところへ行き着いた。
「軍からの報告が届きしだい、議会として改めて審議いたします、殿下」
かつて彼女の楽器を鉄屑と呼んだ老公爵は、審議のあいだ、ついにひと言も口を開かなかった。その目はリゼルではなく、彼女の手の中の紙に注がれていた。
大広間では、たった一曲で、ここに居並ぶ貴族たちの心を揺さぶることができた。
今日、彼女は最後まで言葉を尽くした。それでも、麦の袋ひとつ動かせなかった。
リゼルは手の中の紙を、皺が寄るほど握りしめた。それから指をほどき、ゆっくりと皺を伸ばしていった。この紙は、まだ要るのだ。
◇
その夜も、エレナはいつものように西棟へ向かった。
その道は内庭を抜けていく。王女の部屋の窓が見える道だ。この三週間、彼女が戻るより先に、あの窓が暗くなった夜は一度もなかった。
今夜も、同じだった。昼過ぎに、議会で退けられたばかりだというのに。
忘れていく人間は、見知らぬ人々の数字を、毎晩夜更けまで読んだりしない。称賛されたくて善いことをする人間は、誰も見ていない部屋でそれをしたりしない。
王都まで追いかけてきた答えは、もうそこにあった。たったひとつの窓の、その枠の中に。
エレナは、それを言葉にしなかった。自分自身に対してさえ。見極めが終わってしまえば、ここに留まる口実がなくなってしまうから。
物置部屋では、ギターがいつもの場所で、壁に立てかけられていた。弦は、もう緩めてあった。ちょうど、彼女の指が覚えている張りにまで。もう幾晩も、ずっとこうだった。彼女は誰にも、何も話していないのに。
今夜になってようやく、エレナは自分に認めた。それが誰の手によるものなのか、本当はずっと分かっていたのだと。
彼女は長いこと、その場に立ち尽くしていた。耳のほうが、少しずつ赤くなっていった。
◇
二日後の夕暮れ、衛兵がひとり、駆け足で報告にやってきた。王女があらかじめ命じておいたとおりに。
リゼルは城門の上の城壁へ上がった。すぐ後ろにアレンが続き、ほどなくしてエレナも追いついてきた。
城門は、定めの刻限どおりに閉ざされていた。誰かを迎え入れよという命令は、まだ出ていない。
眼下には、城壁に沿って、人々が長い列をなして座り込んでいた。
馬のいない荷車の車輪にもたれかかる老婆。眠ってしまった子どもを、両腕で抱えている男。靴を片方だけ握りしめている女の子。
泣いている者はいなかった。叫ぶ者もいなかった。誰もが黙っていた。声など、ここまでの道のどこかで、とうに使い果たしてしまったかのように。
リゼルは数えはじめた。一列ずつ。毎晩、一覧を一行ずつ辿ってきたのと同じように。
数え終わるより先に、その日の最後の光が消えた。
その手には、ギターもなかった。麦の袋ひとつ、なかった。隣では、エレナの唇が声もなく動いていた。あの覚え書きを、胸の内で一行ずつなぞっている。布を巻いた指は、石の胸壁の上で動かない。アレンはまっすぐに立ち、何も言わなかった。
リゼルは一度も、眼下から目を逸らさなかった。
受け入れ先の町の一覧に、王都の名はない。手の中の紙には、今夜の数字を書き込む行が、どこにもなかった。
あとの数字が、王都の門までたどり着いていた。




