第23話――問わなかった夜
衛兵たちの声がまだ門前に残っているうちから、エレナは馬車の座席に座ったまま、動けずにいた。
ほかの者は、とうに全員降りている。残っているのは貴族の令嬢ひとりきりだった。彼女は王宮の門前に敷かれた石畳を、まるで断崖の縁でも覗き込むような目で見つめていた。
「エレナさん」
その声に、エレナはびくりと肩を跳ねさせた。勢いよく立ち上がった拍子に、危うく扉の枠に頭をぶつけかける。そのまま足もとも見ずに降りようとして、つま先が段を半歩踏み外した。
差し出されたレオンの手が、彼女の肘を支えていた。まるで、最初からそうなると分かっていたかのように。
「あ、ありがとう存じます……」
エレナはその手をそっと振りほどき、リゼルへ向き直った。そして、生まれてこのかた一度もしたことがないほど深く、膝を折った。
「お、王女殿下……! も、申し訳ございません……! 初めてお会いした日、わたくし、殿下に向かって、称賛されたいだけのご令嬢だなどと……存じ上げなかったとはいえ……いえ、存じ上げていなかろうと、口にしてよい言葉では……」
言葉は絡まり合ったまま、出口を見失っていた。
リゼルは背筋を伸ばして礼を受けようとはしなかった。ただ少し身を屈め、相手と同じ高さから、その顔を覗き込んだ。
「エレナさん。この王宮には、エレナさんほどまっすぐに物を言ってくださる方は、そう多くないんです」
「……と、おっしゃいますと?」
「ですから、これまでどおりに話していただけませんか。わたくしが誰なのか、まだご存じなかった頃のように」
エレナは顔を上げた。口を開き、閉じ、もう一度開く。
「そ、そうは、おっしゃいましても……」
彼女は背筋を伸ばし、どうにか令嬢らしい声を取り戻そうとした。
「と、とにかく。わたくし、まだ見極めを終えたわけではありませんわ。あなたが……その、あなたが……」
言葉は最後まで続かなかった。先に、耳のほうが赤くなってしまったからだ。
「はあ~」
ユリウスが、両腕を思いきり空へ伸ばした。
「やっと我慢しなくて済みます。ここまでの道中、三回は口を滑らせかけましたよ」
「四回だ」
レオンが訂正し、リゼルに向かって軽く頭を下げた。
「殿下のご帰還を、詰所へ伝えてまいります」
ライラは何も言わなかった。ただ少しうつむいて、上がりかけた口元を帽子の影に隠している。アレンは馬車の脇で直立したまま、表情ひとつ変えていなかった。
「お部屋のことですけれど」リゼルが振り返った。「王宮に泊まってください。客間なら、いくつも空いていますから」
「お気遣いには及びませんわ。町で宿くらい、自分で探せますもの」
「宿の並ぶ通りは、ここからだと少し遠いですよ」
エレナは、ひと呼吸ぶん黙り込んだ。
「……では、そうさせていただきますわ」
そう言って、たったひとつの鞄の持ち手を握り直す。
そこへ侍従がひとり、回廊から足早に出てきて、リゼルに頭を下げた。
「陛下より、殿下には今宵はゆっくりお休みいただくように、と。旅のご報告は、明朝お聞きになるそうでございます」
◇
その夜。国王の執務室には、まだ明かりがあった。
机の上に、魔法のランプがひとつ。白くやわらかな光は、凪いだ水面のように静まり返っている。
アルドリックが呼んだのは、リゼルではなかった。今回の旅のために自ら選んだ、二人の騎士だけだった。背後で扉が閉まる。室内に、控える侍従の姿はない。
「報告を」
レオンの報告は短く、的確で、余計な言葉がひとつもなかった。
通った街道。森で盗賊に襲われ、誰ひとり傷を負うことなく制圧したこと。医療施設では、管理者の示した条件をすべて守って働いたこと。そして、ある貴族の令嬢が、王都まで同行してきたこと。
「ローゼンベルク家の令嬢、エレナです」
「うむ」
医療施設での働きぶりは、ユリウスが引き継いだ。口調はなめらかで、ごく自然だった。――少しばかり、なめらかすぎた。
「……それでお嬢が、いつも必ず先に管理者へ許可を――リゼル殿下が、です。殿下がいつも必ず、先に許可を取りに……」
レオンは振り向かなかった。アルドリックも、何も言わなかった。
「それで。歌は」
これまでのどの問いよりも短い一言だった。それだけで、部屋じゅうの空気が音もなく沈んだ。
ユリウスは癖のように、隣のレオンへ目をやった。いつもどおりなら、先に口を開くのは彼のはずだった。
だが、レオンは黙っていた。その視線は机に広げられた国境の地図へ落ちたまま、動かない。あまりに長いその沈黙に、ユリウスは、問いが聞こえていなかったのではないかとさえ思いはじめた。
「……脚に包帯を巻いた患者が、おりました」
ようやく、レオンが口を開いた。
「殿下が立てない足のことを歌われたとき、その男は自分の脚を見下ろしました。歯を食いしばって、椅子の縁に手をついて」
そこで、言葉が途切れる。
「立ち上がろうとしていたのです、陛下。あの脚で」
ユリウスが、レオンの横顔を見た。
「もしあの歌が、あと一節長く続いていたなら。あの男は立てたのか。それとも、脚がもう一度折れたのか。私には分かりません」
損害を報告するときと変わらない、平坦な声だった。
「……あるいは、その両方か」
レオンは続けた。
「もうひとり、何日も力尽きたように、背もたれに身を預けていた男がおりました。曲が終わったとき、その男は拳を握り、身体に残っていた力のすべてで、ただ一度だけ叫びました」
身体の脇で、レオンの手が知らず知らず拳を作っていた。
「明日を待つことをやめた者が、たった一晩で、もう一度生きたいと願うようになる。どんな薬にも、どんな将にも、できることではありません」
声が、さらに遅くなる。
「ですが――あのとき叫ぶのに使った力が、翌朝、目を覚ますために取っておくべき力ではなかったのかどうか。それも、私には分かりません」
ユリウスは口を開き、そして閉じた。いつもなら勝手にこぼれ出てくる軽口が、今夜はひとつも浮かんでこなかった。
「殿下が『拳を掲げろ』と歌ったとき――」
やがて、彼は言った。この部屋で口にしたどの言葉よりも、低い声だった。
「僕は、もう掲げていたんです。掲げたことに、自分で気づくより先に」
彼は、自分の手を見下ろした。
「僕は騎士です。命令にはためらわず従えと、叩き込まれてきました。でも、あの夜――僕に命令した人なんて、誰もいなかったんです、陛下。あったのは、歌だけで」
ユリウスは、喉を鳴らして唾をのんだ。
「なのに僕は、これまで受けたどんな命令よりも速く、それに従っていました」
誰も、何も言わなかった。
「殿下が『まだ終わりじゃない』と歌えば、中庭の誰ひとり、諦めませんでした」
言葉が、止める間もなく口からこぼれ出ていく。
「でも、もしいつか、その歌が――」
「ユリウス」
レオンが口にしたのは、名前だけだった。
ユリウスは止まった。言いかけた言葉は部屋の真ん中に宙吊りになったまま、誰にも続きを拾われなかった。
「殿下のお心は、信じております、陛下」
しばらくして、レオンが言った。
「ですが、あの夜。中庭にいた誰ひとりとして、その歌が自分をどこへ連れていくのか、問いませんでした」
ひとつ、間が空いた。
「……私も、問いませんでした」
窓を叩く風の音が聞こえるほど、部屋は静まり返った。
アルドリックは机の上で両手を組んだまま、長いあいだ動かなかった。
「もし、あの歌を――」
ようやく、王が口を開いた。
「前線の兵が聴いたなら。お前たちは、どうなると思う」333
ユリウスの目が、地図の上を辿った。国境に沿って長く引かれた、赤いインクの線を。
「……誰も、逃げないと思います」
「その先に、何が待っていようとも」
レオンが、静かに言い添えた。
それが今夜耳にしたなかで最もよい答えなのか、最も恐ろしい答えなのか――部屋にいる誰にも、分からなかった。
「下がってよい」アルドリックは言った。「今夜のことは、まだリゼルには伏せておけ」
二人の騎士の背後で、扉が閉まった。
王は、同じ場所に座ったままだった。
机の隅に、一通の報告書が重ねて置かれている。その最後の一行には、こう記されていた。――国境守備隊、兵力不足。至急、増員を求む。
アルドリックは魔法のランプに手を伸ばし、机の上をゆっくりと滑らせた。白い光が、ちょうど国境の線の上に落ちるところまで。
その光は、少しも揺らがなかった。
◇
翌朝、リゼルはいつものように、父のもとで旅の報告をした。
医療施設のこと。手伝った仕事のこと。そして、奏でた歌のこと。アルドリックは口を挟まずに耳を傾け、話が終わると、軍の報告書を一通手に取った。
「医療施設でお前が耳にした、連絡の途絶えた部隊のことだが」
王は言った。
「あれは、別の国境守備隊だ。カーレルの隊ではない」
息を止めていたことに、リゼルは気づいていなかった。止めていた息が勝手にほどけて、こぼれ落ちるまで。
「カーレルの陣からは、軍の伝令路を通じて、予定どおりに報告が届いている」アルドリックは続けた。「医療施設に知らせが届く道は、ひとつしかない。負傷者の搬送路だ。その道が断たれれば、彼らのもとに届くのは沈黙だけになる」
「……その部隊は、どうなったのですか」
「敵が兵を回して、退路を断った。生き残った者の一部が、包囲を破って抜け出してきた」
――一部。
その言葉は、リゼルの胸の真ん中に、思っていたよりもずっと重く沈んでいった。
ほんの今しがた、彼女は安堵したばかりだった。思わず笑みがこぼれそうになるほどに。そして同じ瞬間にも、どこかで誰かが、もう二度と帰ってこない兄を、息子を、父を待っている。
呼んでもいないのに、ひとつの光景が浮かんできた。医療施設で、母親の隣に座っていた小さな女の子。そして、誰にも答えることのできなかった、あの問い。
――お母さん、いつになったらおうちに帰れるの?
リゼルの手が、スカートの裾をきつく握りしめた。
アルドリックはその手を見て、それから娘の顔を見た。
「安堵してよい」王は静かに言った。「だが、忘れるな」
リゼルは頷いた。
アルドリックは同じ声のまま、話を続けた。敵はなおも国境沿いに兵を増やしている。前線へ送られる兵は各地の町から引き抜かれ、そのぶん後方は手薄になる。街道には盗賊や火事場泥棒が増え、物資の到着は遅れ、負傷者を送り返すのも遅れる。そうして前線は、ますます持ちこたえるのが難しくなっていく。
「南の街道の件だが。お前の進言どおりに調べさせていた者から、報告が届きはじめている」
王は付け加えた。
「盗賊の一部は、ただの盗賊にしては動きが組織立ちすぎている。……今はまだ、それ以上は言えん」
「国境の近くに暮らす人々は……」
「前線に近い村々が、後方の町へ避難を始めている」
リゼルは、しばらく黙っていた。
「避難してきた人々を受け入れている町の一覧を、いただけますか」
アルドリックは長いあいだ娘を見つめていたが、やがて頷いた。そして、もう一通の封筒を差し出した。
「軍の報告と一緒に届いた。お前宛てだ」
封筒の筆跡には、見覚えがあった。
封を切ると、文字は記憶にあるものより、わずかに傾いていた。膝の上か、それとも馬の背で書いたかのように。
『リゼルへ
余は無事だ。案ずるな。
こちらは夜ごとに冷え込み、兵たちが眠れる時間も、夜ごとに短くなっている。だが、余の守る戦線は揺らいでいない。
あの日、物置部屋で弾いてくれた曲は、綺麗だった。帰ったら、もう一度聴かせてくれ。
カーレル』
最後の一行まで目で追ったとき、手紙を持つ手の甲が、ふと温かくなった。誰かに、そっと包み込まれているように。
目を落とすと、窓から差し込んだ朝の陽射しが、ちょうどそこに落ちていた。
リゼルは手紙を元の折り目どおりにたたみ、胸もとへしまった。
◇
西棟の古い物置部屋は、以前と変わらず静かだった。部屋の隅には、古い木箱が置かれたままになっている。兄がいつも腰を下ろしていた場所だ。
リゼルはその木箱に腰かけ、ギターを膝に乗せると、いつもの曲を弾きはじめた。兄が、綺麗だと言ってくれた曲を。
あの日よりも、ゆっくりとした演奏になった。そうしようと思ったわけではない。手のほうが、勝手に遅くなっていた。
廊下の足音が、扉の前で止まった。ノックの音はない。
曲が終わり、リゼルは顔を上げた。
戸口に、エレナが立っていた。
「迷子になったわけではありませんわ」
彼女のほうが先に口を開いた。
「少し、見て回っていただけですの。この王宮、廊下が必要以上に多すぎますわ」
「客間なら、反対側ですよ」
「ですから、見て回っていると申し上げているのです」
リゼルは小さく笑った。エレナは部屋の中へ入ってきて、二歩ぶん離れたところに立った。座ろうとはしない。
ひと呼吸ぶんの沈黙のあと、それを破ったのはエレナだった。彼女に思いつくかぎり、いちばんまっすぐな問いで。
「その曲……どなたのために歌っていらっしゃるの?」
リゼルは、膝の上のギターに目を落とした。
「お兄様のためです。今は、前線にいます。発つ前は、いつもここへ顔を出して、そこに座って聴いてくれていたんです」
知らず知らず、指先が胸もとの封筒に触れていた。
「今日、手紙が届いたんです。帰ったら、もう一度聴かせてほしい、と」
エレナは何も言わなかった。彼女はギターを見て、それからリゼルの指を見た。
「三本目の弦が、下がっていますわ」
「えっ」
「曲の半ばから、ずっと」
エレナは一歩踏み出し、断りもなく手を伸ばした。糸巻きに触れ、少しずつ回していく。リゼルが弦を弾くたびに耳を澄まし、やがて、音がぴたりと収まった。
「……これでよろしいですわ」
「ありがとうございます」
「お礼には及びませんわ。狂った音を聞いているのが、我慢ならないだけですもの」
エレナは元どおり二歩下がった。けれど今度は、扉のそばの床に腰を下ろした。
「もう一度、弾いてくださる?」
リゼルの顔は見ないまま、彼女は言った。
「さっきのは数に入りませんわ。音が狂っていましたもの」
リゼルは、もう一度弦に指を置いた。
同じ部屋に、同じ曲が流れはじめる。今度は、狂った音はひとつもなかった。
最後の一音が消えると、エレナは立ち上がり、「おやすみなさいませ」とだけ言って出ていった。廊下を遠ざかっていく足音は、まっすぐ客間のほうへ向かい、一度も迷わなかった。
リゼルはしばらくのあいだ、静けさの中に座っていた。
膝の上のギターには、まだ手のぬくもりが残っている。合わせ直したばかりの三本目の弦も、まだ正しい音を保っていた。彼女は指先で、弦をゆっくりとなぞった。
この曲のおかげで、今夜を越えることができた。そして、誰かがひと晩を越える支えにも、なれるのかもしれない。
けれど、歌は物資を補ってはくれない。家を失ったばかりの子どもに寝床を敷いてもくれないし、いつになったら家に帰れるのかという問いにも、答えてはくれない。
次は、ギターだけを抱えて行くのはやめよう。
リゼルはギターを壁に立てかけ、受け入れ先の町の一覧を取り出して、木箱の上に広げた。高い窓から差し込む月明かりで、どうにか文字が読める。
町の名前が、書記の筆跡で一列に並んでいる。それぞれの横には、二つの数字が書き添えられていた。受け入れられる人数と、すでにたどり着いた人数。
いくつかの行では、あとの数字のほうが大きかった。
リゼルは名前を一つずつ、一行ずつ、ひとつも飛ばさずに読んでいった。聞いたこともない名前。父の執務室の地図で、小さな点として見たことがあるだけの名前。彼女にとって、何の意味も持たなかった点。――今夜までは。
どの名前も、誰かが眠れずにいる場所だった。
リゼルはペンを取り、あとの数字に追い越されてしまった、最初の数字を丸で囲んだ。
もう一行。
もう一行。
月明かりは、とうに木箱の縁を越えていた。それでもリゼルは、まだペンを置いていなかった。




