第22話――新たな同行者
中庭を満たしていた拍手が、少しずつ遠のいていく。
そのとき、髪を振り乱した一人の女性が、まっすぐリゼルのもとへ歩いてきた。すぐ後ろには、表情ひとつ変えない男性と、エレナの姿がある。
「なんなんだよ、お前らのあの曲は!」
女性は開口一番、そう言い放った。
「黙って聴いてるつもりだったのに、おかげで首を痛めちまったじゃねえか!」
「お母様。まずは名乗ってくださいませ」
エレナが淡々とした声でたしなめる。
「ああ、そうだったね。マルガレーテだ。こいつの母親さ。で、こっちが旦那」
「グスタフだ」
男性は軽く頭を下げた。
「演奏、感謝する。妻は首を痛めたが、私の首は無事だ」
「あんたがこっそり練習してたからだろ! あんなにぴったり拍子を合わせやがって!」
「いや。勝手に合っただけだ」
ユリウスが思わず噴き出した。エリアスは眼鏡の位置を直し、身を乗り出して質問しかけたが、その前にライラがそっと彼の袖を引いた。
「で、次はいつやるんだい?」
マルガレーテが尋ねる。
「申し訳ありません」
リゼルは答えた。
「明日の朝には、王都へ発たなければならないんです」
――王都へ。
その言葉が、エレナの耳に引っかかったまま離れなかった。
初めて会った日、自分が口にした言葉がよみがえる。善人だと見せびらかすためだけに姿を現し、何事もなかったかのように、何不自由ない暮らしへ戻っていく人たち。明日、リゼルはまさにその場所へ帰っていくのだ。
それなのに、彼女がここを忘れていく姿が、どうしても思い浮かばなかった。
代わりに浮かんだのは、リゼルが「叫べェェェェェッ!!!!!」と、声が割れる寸前まで叫んだ瞬間だった。その力は、エレナの胸の真ん中を正面から打ち抜いた。隣で箱を仕分けていたはずの少女が、舞台の中央では、まるで別人のように立っていた。誰に命じられたわけでもないのに、中庭じゅうの視線が彼女ひとりに集まり、彼女はその力を、そっくりそのまま人々へ返してみせたのだ。
演奏はもう終わっている。それでも、エレナの目はリゼルから離れようとしなかった。
汗に濡れて頬に張りつく金色の髪。ギターケースに置かれたまま、まだ小さく震えている手。見つめれば見つめるほど、知りたくなる。この少女の内側には、いったい何があるのだろう。どうすれば、あれほどまでに輝けるのだろう。
もし今、誰かに「リゼルに憧れているのか」と問われたら、エレナは即座に否定するだろう。
――そして否定したあとも、きっと目を離せずにいるのだ。
演奏の前、この一行はまるで戦場へ向かう兵士のような顔をしていた。リゼルが何を背負っているのか、エレナは知らない。ただ、自分も傷を抱えたまま、それでも誰かに手を差し伸べられる人なのだということだけは分かった。舞台の中央に立っていた少女と、何日も箱を運び、職員のために黙って道を空けていた少女は、同じひとりの人間なのだ。
物思いに沈んだ娘の隣で、グスタフが口を開いた。
「娘は何日も、あなた方と共に働いてきた。正式に名を伺っておくべきだろう」
リゼルは背筋を伸ばした。
「リゼル・マリアベル・アーリアと申します」
その夜初めて、グスタフの瞼がぴくりと動いた。マルガレーテはぽかんと口を開ける。
「アーリア……って、国の名前と同じアーリアかよ。クソ――」
夫の肘が、そっと彼女の脇腹に触れた。マルガレーテは続く言葉をのみ込み、杭でも打ち込まれたかのように背筋をこわばらせた。
「し、失礼……いたしました。わ、わたくし、め……」
彼女は歯を食いしばった。
「ちくしょう、舌がもつれて回らねえ」
「娘に目をかけていただき、感謝申し上げます」
グスタフは深く頭を下げた。声はいつもどおり平坦だったが、組んだ両手にだけ、わずかに力がこもっていた。
そのやり取りはすべて、水の底から聞くように遠く、くぐもってエレナに届いていた。耳に残ったのは、リゼルの声の語尾――「……申します」という響きと、途中で途切れた母の悪態だけ。母が悪態をつくのはいつものことで、わざわざ振り向く気にもならなかった。
頭の中にあるのは、たったひとつの言葉だった。初めて会った日、リゼルに向かって言い放った言葉。
――何事もなかったかのように、何不自由ない暮らしへ戻っていく。
あの言葉は、リゼルにこそふさわしいと思っていた。けれど今、脳裏に浮かんでいるのは自分の姿だった。明日の朝、あの馬車は街道を去っていく。自分はいつもの廊下で食事の盆を手に立ち、いつもと同じ仕事を続けながら、今夜のことは歌をひとつ聴いただけだと自分に言い聞かせる。
もし、そうなるのなら。
何事もなかったかのように振る舞うのは――わたくしのほうだ。
爪が手のひらに食い込むほど、エレナは拳を握りしめた。
誰に許しを乞うたわけでもないのに、心はとうに歩き出していた。あの少女の歌が向かう、その先へ。
明日の朝、遠ざかる馬車を見送るのが「見ているだけのわたくし」だなんて――そんな結末を、受け入れるつもりはなかった。
リゼルは小さく首を振り、まだ物思いに沈んだままのエレナへちらりと目をやった。グスタフはその視線を追い、ほとんど分からないほど小さく頷いた。
エレナが顔を上げると、母が妙にかしこまった姿勢で立っていた。彼女は何も尋ねず、リゼルに向き直ると、作法どおりに膝を折った。
「道中、どうかお気をつけくださいませ」
あまりにも淡々とした声だったので、その胸の内でまだ別れを受け入れていないことに、気づく者は誰もいなかった。
そうしてエレナは踵を返し、両親の先に立って中庭をあとにした。
◇
その夜、エレナは寝室の窓辺に腰かけていた。燭台の蝋燭が半分ほどの長さになるまで、ずっと。
「まだ起きてんのかい」
マルガレーテが扉の枠にもたれていた。
「そんなクソ真面目な顔してたって、問題が勝手に消えるわけじゃねえだろ」
「お母様は以前、『きれいな言葉をすぐに信じるんじゃない。相手が本当に何をするのか、ちゃんと見な』とおっしゃいましたわね」
「ああ。それで?」
「わたくし、まだ見極め終わっておりませんの」
エレナは振り向かずに答えた。
「ここには、目の前に傷ついた人がいます。そういう場所なら、誰だって善い人になれますわ。わたくしが知りたいのは、傷ついた人が目に入らない場所へ戻っても、あの人が同じでいられるかどうかですの」
マルガレーテはしばらく黙っていた。
「お前、もう粗探しがしたいわけじゃねえだろ。あいつについて行きてえんだよ」
「違いますわ」
「はいはい、違う違う」
マルガレーテは鼻を鳴らした。
「行ってきな。自分のやりたいことをやりなって、前にも言っただろ。……ただし、あの小娘に――いや、あの子には、いつもより丁寧な口をきくんだよ」
エレナは勢いよく振り向いた。
「お母様が、わたくしに丁寧になさいと?」
「そうだよ! あたしが言ってんだよ! 文句あるか!」
廊下から、グスタフの声がした。
「施設の仕事は、きちんと引き継いでから行きなさい。それから、手紙を書くように」
「二枚を超えたら、あんたに読ませるからね!」
「それなら、好きなだけ長く書くといい」
「グスタフ!」
◇
まだ夜も明けきらないうちから、一行の馬車は宿の前に停まっていた。アレンが荷物を縛りつけ、レオンは手綱を一本ずつ確かめている。
宿から出てきたリゼルは、そこで足を止めた。
馬車のそばに、鞄をひとつだけ提げたエレナが立っていた。
「わたくしも、王都へ参りますわ」
ライラが目を瞬かせ、ユリウスは眉を高く跳ね上げた。
「初めてお会いした日に申し上げたはずですわ。自分の目で見極めさせていただく、と」
エレナは続けた。
「苦しんでいる人が目の前にいるときだけ親切で、家に帰ればすっかり忘れてしまう貴族は、いくらでもおりますもの。あなたが忘れてしまうかどうか、この目で確かめに参りますの」
「では、わたくしが忘れなかったら?」
リゼルが尋ねる。
「そのときは、確信が持てるまで、もっと長く見ていなければなりませんわね」
「王都まで粗探しにいらっしゃるんですか?」
ライラの声は、いつもより少しだけ硬かった。
「何もやましいことがなければ、ご心配には及ばないのではなくて?」
「僕には、ただ一緒に来たいだけに見えますけどね」
ユリウスが小声でつぶやく。
「口にする前に、ラベルをよく確かめたらいかがかしら」
ユリウスはぴたりと口を閉じた。
エレナはリゼルに向き直り、声をわずかに落とした。
「施設の仕事は、夜明け前に職員の方へ引き継いでまいりました。途中で放り出したわけではありませんのよ。それと、あの女の子から伝言ですわ。『わたし、お歌おぼえたよ』と」
彼女は小さく咳払いをした。
「別に、伝言役を買って出たわけではありませんの。たまたま、その場に居合わせただけですわ」
リゼルはしばらく黙っていたが、やがて、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「来る途中、森で盗賊に襲われたんですよ」
「道中の指示に従っていただけるのであれば、もう一人お守りすることは可能です」
レオンが手綱から目を離さずに答えた。
「それでは、よろしくお願いしますね、エレナさん」
「誰かに守っていただくために来たのではありませんわ」
エレナは誰よりも先に馬車へ乗り込んだ。
決して口にすることはないだろう。生まれて初めて、一人の貴族を心から尊敬している――それが身分のためではなく、その人がしてきたことのためだということを。そして、そういう人のそばに、その心が分かるまでいてみたいと思っていることを。
◇
一人の同行者を加えて、馬車は街を出た。エレナはエリアスの隣に座り、向かいにはリゼルとライラが並んでいる。
昼前、リゼルがギターケースを開け、弦の調子を整え始めた。エレナはその指先を、長いこと見つめていた。
「わたくしが知っているものより、弦が強く張ってありますのね」
エリアスが勢いよく振り向いた。
「ご存じなのですか?」
「昔の宮廷で弾かれていた撥弦楽器を、少しだけ習っていたことがあるだけですわ。驚かれるようなことではありませんの」
リゼルがギターを差し出す。エレナは受け取り、弦を一本弾いた。澄んだ音がこぼれ、エリアスは慌てて手帳を取り出した。けれど、簡単な和音を押さえてみると、音は潰れたように濁り、指先に走った痛みにエレナは眉をひそめた。
「指は弦を知っているのに……こんな音は、知りませんの」
「それだけで、ほかの人よりずっと早く始められますわ」
リゼルが言う。
「誰が始めると申しました?」
エレナはギターを返した。けれど、その視線は、まだあの一本の弦に留まっていた。
――いつか、もう一本のギターが隣に並ぶ日が来たら。
リゼルはそう思い、その考えをそっと胸にしまった。
「少なくとも、僕が魚を捕まえようとしたときよりは、ずっとましですよ」
ユリウスが窓から顔を覗かせた。
「魚、ですの?」
エレナが首を傾げる。
「ユリウス、前を見ろ」
前方からレオンの声が飛んだ。
ユリウスの顔は即座に窓から消えた。エレナは唇を結んだが、危うく笑いがこぼれそうになっていた。
夕方、ライラが食事の支度をしている間に、リゼルは焚き火から少し離れた。施設のさらに先には、前線がある。連絡の途絶えた部隊について、新しい知らせはまだ何も届いていない。カーレルがその部隊にいたという証はない。けれど、兄が無事だという証も、どこにもなかった。
リゼルは昨夜の歌の一節を小さく口ずさみ、それから焚き火のそばへ戻った。エレナは顔を上げてしばらくその姿を目で追ったが、何も尋ねなかった。
◇
二日目の午後、道の先に王都の城壁が姿を現した。
「皆さんは、王都のどちらでお務めをなさっているのですか?」
エレナが尋ねた。
「王宮に関わることですわ」
リゼルは答えた。
「今回の旅のご報告もしなければなりませんし」
「王宮のお仕事でしたのね。道理で、皆さん規律正しいわけですわ」
ライラが小さく咳払いをした。アレンはまっすぐ前を見据えたまま。ユリウスがかすかに口笛を吹き、レオンが振り返って彼を見た。
馬車は貴族の屋敷が並ぶ通りへは曲がらず、大通りをまっすぐ進んでいく。やがて、王宮の門が開いた。左右に並んだ衛兵たちが一斉に姿勢を正し、一人の士官が進み出て敬礼する。
「リゼル王女殿下、お帰りなさいませ!」
リゼルは馬車を降り、ごく自然に、その礼を受けた。
エレナは座席に座ったまま、動けなかった。まだ弦の痛みが残る指先が、すうっと冷えていく。
称賛されたい貴族のご令嬢。
その言葉を、自分は――この国の王女に向かって、言い放ったのだ。
「お……王女、殿下……!?」




