第20話――答えのない日
その夜、医療施設から宿に戻ったリゼルは、部屋のテーブルのそばに座っていた。レオンは、もう一度旅程を確認していた。
「予定どおりなら、そろそろ王都へ戻る準備を始めるべきです」レオンが言った。「殿下がこちらで果たされる務めも、間もなく終わりを迎えます。これ以上遅れれば、王宮の予定に影響が出るおそれがあります」
リゼルはしばらく書類を見つめていた。できることなら、もう少し人々の手助けを続けたかった。けれど、自分の務めを疎かにするわけにはいかないことも、よく分かっていた。
「分かりました。明日、管理者の方にお伝えしましょう。少なくとも、ここ数日、わたくしたちを受け入れて仕事を手伝わせてくださったことに、お礼を申し上げるべきですわ」
◇
翌朝、リゼルとレオンは、王都へ戻ることを伝えるため、管理者のもとを訪れた。
管理者は二人に気づくと、手にしていた書類を机に置いた。
「もう間もなく王都へ戻ることになりそうなので、そのことをお伝えに参りました」とリゼルは切り出した。
「ここ数日、わたくしたちを受け入れ、仕事を手伝わせてくださって、ありがとうございました」
管理者は理解を示すように頷いたが、ふと思いついた様子で口を開いた。
「それでしたら、お帰りになる前に、もう一度演奏していただく時間はありませんか?」
「前回の演奏のあと、機会があれば、もう一度皆さんに演奏していただく時間を設けたいとお話ししていました」
「今では施設の人々も、皆さんに少しずつ慣れてきました。時間をうまく調整できるなら、患者や職員、それに付き添いのご家族も一緒に聴ける場を設けたいと思っています」
「ぜひ。喜んで演奏させていただきます」リゼルは答えた。
管理者は治療の予定を確認すると約束し、翌日の夕方、建物の間にある中庭を演奏場所として使うことにした。
「今度は、きちんと舞台を準備しましょう」部屋を出たリゼルは、仲間たちに告げた。「皆さんが使いやすく、安全に過ごせるようにすることも忘れずに」
エリアスは真剣な面持ちで頷いた。一方、ユリウスは、もう一度演奏できると知って嬉しそうに笑った。
◇
午後、一行が舞台を設置する場所を確認していると、管理者のもとに一人の兵士から報告が届いた。管理者は書類を読み終えると、リゼルも呼び、前線の状況について一緒に報告を聞くことにした。
「まだ連絡が取れないのか……」管理者が尋ねた。
「戦闘後、ある部隊との連絡が途絶えました。伝令もまだ戻っておらず、負傷者の搬送路も予定どおりには使えない状態です。その部隊がどの程度の損害を受けたのか、まだ分かっていません」兵士が報告した。
管理者は眉をひそめた。
「その部隊が無事かどうかは確認できているのか?」
「まだです。負傷者の数も、それぞれの安否も把握できていません」
リゼルはレオンの隣で、じっと立ち尽くしていた。
カーレルはすでに前線へ戻っていた。
その事実だけで、ずっと考えないようにしていた不安が、抑えようもなく胸の内によみがえった。兄は、この場所から数日で行ける距離にいるのかもしれない。あるいは、今は誰にも外へ知らせを送れない地域にいるのかもしれなかった。
カーレルがその部隊にいると決めつける理由はない。彼が危険な目に遭ったという証拠もない。
けれど、無事だと確かめられるものも、何ひとつなかった。
もし本当に兄に何かあったら、どうやってそれを知ることができるのだろう。
次の報告が届かなければ、あとどれほど待たなければならないのだろう。
リゼルは拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込んでいると気づき、ゆっくりと指の力を緩める。
「リゼル様?」
彼女が黙り込んだことに気づき、ライラがそっと声をかけた。
「大丈夫です」
その答えは反射的に口をついて出た。けれど、自分でも本当に大丈夫なのか、確信は持てなかった。
リゼルは気持ちを切り替えて仕事に戻ろうとした。だが、視線は母親の隣に座っている一人の女の子のところで止まった。
母親が娘の髪を編んで整えていると、女の子は顔を上げて尋ねた。
「お母さん、いつになったらおうちに帰れるの?」
母親の手が、ほんの一瞬止まった。
「もう少しだけ、我慢してね」
母親は優しく微笑みながら、娘の頭を撫でた。けれど、それ以上の答えは返ってこなかった。
女の子はそれ以上せがむことなく、ただ頷いて、自分の服の裾をいじり始めた。そして、リゼルが以前弾いて聴かせた短い旋律を、小さな声で口ずさんだ。
リゼルには、その旋律が分かった。
前に会ったとき、女の子は音楽を聴いて、幸せそうに笑っていた。その笑顔を見て、リゼルも嬉しかった。けれど今も、女の子は同じ場所で待ち続けている。いつ家に帰れるのか、誰にも答えられないまま。
その旋律は、女の子の記憶にも残っていた
それでも、彼女の家はまだ遠く、帰れる日がいつになるのかも分からなかった。
リゼルは胸の真ん中を何かに押さえつけられたように感じ、わずかに顔を背けた。だが、女の子の姿は、どうしても振り払えない兄への思いと重なってしまう。
もし、いつか自分がここでカーレルの知らせを待つことになったら、何ができるだろう。
届かない報告を何度も聞き、知らせを尋ね続け、それでも兄は無事だと自分に言い聞かせるしかないのだろう。心の奥では、希望を持つだけでは真実に近づけないと分かっているのに。
リゼルは自分の手を見下ろした。
前世のリクにとって、音楽がどれほど大きな意味を持っていたか、彼女は誰よりもよく知っていた。
リクは人生の大半を病院で過ごした。生まれつき病を抱えた身体は、彼にできることを限っていた。その現実が変わると約束してくれるものなどなかった。音楽が病気を治したわけではない。痛みを消し去ってくれたわけでもない。それでも、歌はつらい夜を乗り越える助けになり、楽しみにできるものを与え、長く続く日々にも意味をもたらしてくれた。
彼女は、音楽がすべての問題を解決できなければ価値がないなどと思ったことはなかった。
それなのに、なぜ今回は、自分が何か間違ったことをしているかのように苦しくなるのだろう。
それはもう、自分の心を支えるために歌を求めているだけではないからだ。今のリゼルは、自分を救ってくれたものを、同じように苦しんでいる人たちへ届けようとしている。かつて自分を支えてくれたものを、誰かに手渡したいと願っている。
女の子がギターの音に笑顔を見せたことは、確かだった。
音楽を聴いて、少し気持ちが和らいだ患者たちがいたことも、確かだった。
けれど、女の子が母親にいつ家に帰れるのかと尋ねる声を耳にしたとき、リゼルには一言も答えられなかった。
もし音楽が、ほんのひととき苦しみを忘れさせるだけで、そのあと彼らを再び同じ恐怖と向き合わせ、ひとりきりで耐えさせるのだとしたら。自分が彼らに届けているものは、本当にそれだけで十分なのだろうか。
そんな問いを抱いたことに、リゼルは心の奥で恥ずかしさを覚えた。ほんの一瞬の幸せにも意味があることは、よく分かっていたからだ。ただ横になり、時間が過ぎるのを待つしかなかったあの日、自分もそれを何より求めていた。
それでも、そのことを理解しているからといって、目の前の無力さが消えるわけではなかった。
音楽は、連絡の途絶えた人を探し出すことはできない。危険な道を越えて負傷者を運ぶことも、女の子をすぐに家のぬくもりへ連れ帰ることもできない。
リゼルは皆を助けたかった。けれど、目の前にある苦しみをどうすれば和らげられるのか、自分にも分からなかった。
そのとき、彼女が考えていたのは、音楽のことでも、前の演奏のあとに聞こえた拍手のことでもなかった。
もし、自分にとって大切な人が、別れを告げる機会さえないまま世界からいなくなってしまったら。そのとき、自分はそばにいる人に何を求めるだろう。
「きっとすべてうまくいく」という慰めだろうか。
リゼルには、誰もそんな言葉を求めているわけではないと分かっていた。
もしかすると、ただ誰かにそこにいてほしいのかもしれない。恐怖にひとりで沈んでいかないよう、そばにいてほしい。そして、何の知らせも届かない日々の中でも、生きていく力を失わずにいられるよう支えてほしいのだ。
リゼルはゆっくりと顔を上げた。
待ち続ける人に答えを与えることはできない。去っていった人が必ず無事に戻ると約束することも、歌を歌うだけで誰かの痛みを消すこともできない。
それでも、彼女にできることはある。
ただ黙って耐え続けるよう求めるのではなく、恐怖が消えなくても、もう一度心を奮い立たせる旋律を届けることならできる。
明日になればすべてがよくなると告げる歌ではない。
今日、まだ答えが見つからなくても、待ち続けているからといって彼らの人生の意味が失われるわけではないのだと、力強く伝える歌だ。
まだここへたどり着いていない人たちを助けることはできなくても、目の前にいる人々には、ただつらい日が過ぎるのを耐えて待つだけではなく、その先も生きていく力を持ってほしかった。
その考えに至っても、悲しみが消えたわけではなかった。カーレルへの不安が和らいだわけでもない。
リゼルはまだ怖かった。胸は痛み、次に前線から届く知らせがどんなものになるのかも分からなかった。
けれど、演奏する曲を選ぶ段になって、もう悲しみを優しく包み込むだけの曲にはしたくないと思った。
聴く人がもう一度立ち上がりたいと思えるほどの力を持った曲にしたい。苦しみが消えたからではない。苦しみがそこに残っていても、前へ進む力を取り戻せるような曲を。
◇
夕方、リゼルは翌日の演奏でどんな曲にするか、メンバーを集めて話し合った。
「最初の一拍から、聴く人の心に突き刺さるような音楽にしたいんです」リゼルは決意を秘めた眼差しで言った。「ドラムの音と旋律には、皆が胸の奥に押し込めている感情を揺さぶるほどの力強さがほしい。そしてサビでは、音楽が一気に弾けるようにして、聴く人が心の底から叫びたくなるようなものにしたいんです」
アレンは少し首を傾げて尋ねた。
「最初からドラムのリズムを前面に出すんですか?」
「はい。最初の一拍で、諦めかけた心をもう一度奮い立たせたいんです」
エリアスは手帳に方針を書き留め始め、それから顔を上げた。
「それなら、キーボードで音に厚みを持たせ、サビでは響きに広がりを加えます。歌声とギターの力が、聴く人たちにまっすぐ届くようにします」
「お願いしますね」
ライラはしばらくリゼルを見つめてから、優しい声で尋ねた。
「この曲には、リゼル様の不安が表れているんですね」
リゼルは少しの間、黙っていた。すぐには答えず、誰かを安心させるために無理に笑顔を作ることもしなかった。
「ええ」リゼルはようやく答えた。「わたくしもまだ怖いですし、どうしても答えを知りたいことがあるのです」
彼女は自分の手を見つめてから、続けた。
「でも、何が起きるのか分からないまま待つことが、どれほど苦しいかは知っています。だから、皆がただ耐えることだけに、持てる力をすべて使ってしまうようにはしたくないのです」
普段は冗談を口にすることの多いユリウスも、珍しく黙り込み、それからゆっくりと頷いた。
「それなら、僕たちで最高の演奏にしましょう」
「そうですね」とアレンが続けた。「今日、答えが見つからなくても、せめて音楽を聴いている間は、まだ進んでいける道があると感じてもらいたいです」
「ええ。一緒に、この曲を最高のものにしましょう」
リゼルの心の痛みは、まだ消えていなかった。カーレルのことが心配で、前線からの知らせを待つ人々に答えを与えることもできない。
それでも、目の前にいる人たちのために何かをしたかった。彼らが直面している状況そのものは変えられなくても、歌を心に届けたい。人は時に、すべてがよくなるという約束を求めているわけではないのだから。
彼らに必要なのは、自分自身で答えを見つける日まで、生き続けるための力なのかもしれない。
◇
翌日、舞台と音響設備は整い、使用できる状態になっていた。道具を片づけ、周囲を整理し終えると、管理者は通路を確認し、すべて問題ないことを確かめた。一行は開演までに残っている作業を進め、それぞれの準備に取りかかった。
演奏会の知らせは、医療施設の中をあっという間に広がっていった。
木製の舞台が整った中庭を通りかかった職員が、器具を載せた台車を押す同僚に声をかけた。
「今夜、前に演奏しに来た貴族たちが、また演奏会を開くんだってさ」
「本当か? この前の演奏のこと、まだ話している患者も多かったぞ」
短い会話は、いつもの仕事の合間に少しずつ広がっていった。患者の世話に向かった職員たちは、近くにいる患者や家族にも、夕方には中庭で演奏があること、外へ出られる人なら聴きに行けることを伝えた。
「今夜、また音楽を聴けるんですか?」休憩していた男性が尋ねた。
「ええ。前に演奏してくれたのと同じ一行ですよ」職員は彼の毛布を整えながら答えた。「舞台の準備も、ちょうど整ったところです」
男性は、隣に座っていた患者にもその話を伝えた。ほどなくして、休憩場所では演奏会について話す声が聞こえ始めた。リゼルの演奏を覚えている人もいれば、初めて話を聞いて、今夜はどんな曲を聴けるのかと尋ねる人もいた。
意識の戻らない父親を担当している職員から知らせを聞いた女の子は、目を輝かせ、すぐに母親を振り返った。
「お母さん、今夜、お姉さんがまた演奏するの?」
娘が嬉しそうにしているのを見て、母親はかすかに微笑んだ。以前は退屈そうだったその目にも、再び光が宿っていた。
「そうよ。今夜も、お姉さんの歌が聴けそうね」
「早く聴きたい!」
女の子の声につられて、近くにいた患者たちも笑顔になった。何人かは時間になったら聴きに行こうと話し始め、家族たちも、体調が許すなら自分が付き添っている人を連れて行きたいと考えていた。
近くで職員の仕事を手伝っていたエレナにも、そうした会話が時折聞こえてきた。患者たちが興味深そうに演奏の話をしていることに気づく。
彼女は、リゼルたちが協力して完成させた舞台に目を向けた。
彼らは、ただ演奏する場所を準備しただけではない。人々が、音楽の始まる時を楽しみに待つようにもしていた。
エレナはもう一度だけ舞台を眺め、それから自分の仕事へ戻った。
今度は彼女自身も、実際に演奏が始まったとき、彼らの音楽が人々にどんな気持ちをもたらすのか、知りたいと思っていた。
◇
午後遅く、エレナが屋敷に戻ると、母の声が聞こえてきた。
「クソッ! こんな大した用でもないのに、なんでこんなに長ったらしい手紙を書くんだよ! 読んでるうちにお茶が冷めちまったじゃないか!」
マルガレーテは苛立たしげに手紙をテーブルへ置いた。
グスタフは妻の茶器に目をやり、落ち着いた声で答えた。
「読み終えてから飲むと言ったのは、君だろう」
「誰が、あの手紙があんなに長ったらしいなんて分かるもんかよ!」
「少なくとも、読み終えたじゃないか」
「ああ! 読み終えたよ! それがどうしたってんだ!」
エレナは二人のやり取りに笑いをこらえながら、そばへ歩み寄った。
「お父様、お母様、今夜のことでお誘いしたいことがありますの」
マルガレーテは娘へ顔を向けた。
「ん? 何だい?」
「今夜、医療施設でリゼルたちの演奏会があるんですの。よかったら、お父様もお母様も一緒に聴きに行きませんか?」
「お前が話していた、あの貴族の子たちかい?」マルガレーテが尋ねた。
「ええ。どんな演奏をするのか、お二人にもご自身の耳で聴いていただきたいのですわ」
マルガレーテはソファにもたれ、しばらく考え込んだ。
「ふうん……まあ、いいさ。せっかくお前がわざわざ誘いに来たんだ。あたしも行くよ」
彼女はテーブルの上の手紙を指さして、続けた。
「こんなものを読んで頭が痛くなったんだ。外へ出て何か聴いて、耳をすっきりさせるのも悪くないね」
「それでは、支度をして一緒に出かけましょう」エレナは言った。「演奏が始まる少し前には着いていたいですわ」
話がまとまると、エレナは夕方の支度をするために自分の部屋へ上がっていった。マルガレーテは再びテーブルの手紙を手に取り、不機嫌そうにこぼした。
「次もこんな長ったらしい手紙をよこしたら、書いた本人をここへ呼びつけて、あたしの目の前で読み上げさせてやるからね!」
グスタフは手紙に目をやり、短く答えた。
「少なくとも、次は自分で読まなくて済むな」
「もうっ、グスタフぅぅぅっ!!」
マルガレーテの怒鳴り声がまた響いたが、グスタフは何事もなかったかのように書類へ目を戻した。
出発の時間が近づくと、三人は支度を終え、医療施設へ向かった。
◇
日が沈み、広場を囲む灯りが、皆で作り上げた木製の舞台を照らしていた。聴きに来られる患者、仕事を終えた職員、そして患者に付き添う家族たちが、少しずつ集まり始めた。
病室から出られない患者もいたが、体調の許す多くの人々が広場へやってきた。以前リゼルのギターを聴いた人も、ここ数日の手伝いを通して一行を知った人も、今夜の演奏を楽しみにしていた。
エレナは両親と一緒に戻ってきた。三人は通路を塞がない場所に腰を下ろした。
「ずいぶん手をかけたようだね」グスタフが言った。
エレナは、準備を確認しているリゼルと仲間たちを見つめた。胸の内に、少しずつ期待が膨らんでいく。
ユリウスがリゼルに目で合図を送った。準備はすべて整っている。
リゼルが舞台へ上がり、続いてほかのメンバーたちもそれぞれの位置へ進んだ。
誰も口を開かなかった。皆の表情は厳しく、今から演奏を始めるというより、目に見えない敵と向き合うために戦場へ向かうかのようだった。
彼らがそれぞれの位置につくと、広場の話し声は少しずつ小さくなり、人々の視線が舞台へ集まっていった。前回の演奏とは、明らかに違う空気がそこにあった。
リゼルは舞台の中央に立ち、マイク型に作り替えられた音響増幅石をしっかりと握った。観客を見渡し、ゆっくりと息を吸ってから顔を上げた。
広場全体が静まり返った。
メンバーは全員、準備を整えている。
リゼルはそのマイクをゆっくりと口元へ持ち上げた。
そして、歌が広場に響き渡るその直前、この夜の音楽が人々にどんな感情をもたらすのか、まだ誰ひとりとして知る者はいなかった。




