第18話――母の小言と、午後のお茶
「今日はこのまま宿に戻って、休んだほうがよさそうですね」
医療施設を出てレオンの後について歩きながら、ユリウスが言った。彼はライラの隣を歩くリゼルへ目を向け、薄く微笑みかけた。
「このままエリアスが演奏について考え続けていたら、宿に着くまで延々と報告を聞かされることになりそうですから」
「そんなに長々と報告するつもりはありませんよ」エリアスが慌てて反論した。「記録しておくべき気づきがいくつかあるだけです」
「それが長いって言っているんです」
ユリウスは即座に答えた。
アレンは思わず吹き出し、ライラも口元を手で覆って笑いをこらえた。一方、エリアスは不満そうに自分の手帳へ目を落とした。
リゼルも微笑んだが、先ほどまでいた建物を振り返ると、口を閉ざした。演奏に耳を傾けてくれた患者もいた。顔を上げてこちらを見ただけの人もいた。そして、多くの人は変わらず疲れを抱えたままだった。曲のあとに拍手をもらったからといって、その光景すべてが変わったわけではない。
「お嬢、何か気になることでもあるんですか?」ユリウスが尋ねた。
「今日のことを踏まえて、この先どうするべきか考えていたのです」
レオンは口を挟まず、リゼルの話に耳を傾けていた。
「また演奏するのであれば、まずは管理者の方に都合のよい時間を相談する必要がありますね」ライラが言葉を添えた。「でも、機会がなければ、無理に急ぐ必要はないと思います」
リゼルは頷いた。
「ええ。わたくしたちの善意が、ここで働いている方々の負担になってしまうのは避けたいですから」
「それなら、まずは誰にも負担をかけないことから始めましょう」アレンが真剣な表情で言った。
リゼルは彼に顔を向け、微笑んだ。
「ありがとう、アレン」
宿に戻ると、皆はそれぞれ荷物を片づけ、休息を取った。エリアスは手帳を開き、気づいたことを重要な項目だけに絞って書き留めた。ライラに少しは目を休めるよう注意されると、彼は反論することなく手帳を閉じた。
リゼルは窓辺に腰を下ろし、カーテン越しに差し込む柔らかな光を眺めながら、今日の出来事を振り返った。次に演奏する機会があれば、まずは管理者に、現場では何が必要とされているのかを尋ねよう。適切な時間や場所がないのなら、自分たちの意思だけで無理に演奏を行うべきではない。
彼女はゆっくりと息を吐き、休むために立ち上がった。
◇
エレナの屋敷では、本来なら午後のひとときは貴族の暮らしにふさわしく、静かで優雅であるはずだった。――屋敷の女主人、マルガレーテの小言さえなければ。結婚前は平民だった彼女は、貴族の家へ嫁いでからどれほど年月が経とうとも、新しい身分にふさわしい話し方に変えようとは、ほとんど思っていなかった。
「おい! 菓子はどこだよ? さっきから持ってこいって言ってんだろうが!」
「ただいまお持ちします、奥様!」
「さっさと持ってこいってんだよ! あたしが立って自分で押さなきゃならねえのか? 何もかもあたしがやるなら、お前らなんか雇って何の意味があるんだ!」
メイドは慌てて菓子のワゴンを押してきた。
ワゴンには、ケーキやフルーツタルト、焼き菓子を盛った皿が所狭しと並んでいた。
マルガレーテは菓子をひとわたり眺め、わずかに満足そうに頷いた。
「ふん。少なくとも今日は、仕事のできる奴もいるじゃないか」
「ありがとうございます、奥様!」
「あたしはそこまで褒めてねえよ。調子に乗って顔に出すんじゃないよ」
メイドは慌てて頭を下げた。マルガレーテはワゴンの上のフルーツタルトに手を伸ばしたが、指先は菓子にほんの少し届かなかった。
「おい、もうちょっとこっちへ押せよ。手が届かねえだろ」
「かしこまりました!」
一人のメイドが張り切って返事をし、女主人の椅子の後ろへ回ると、力いっぱい押した。
ギギギッ!
椅子が半分ほど前へ滑った。マルガレーテの手がつかんだのは空気だけで、フルーツタルトは元の場所に残っていた。
応接間が水を打ったように静まり返った。
マルガレーテはゆっくりと手を下ろし、静かにメイドへ顔を向けた。
「……今、あたしに何をしやがった?」
メイドは満面の笑みで答えた。
「押してまいりました!」
「何を押してんだ、クソが!
あたしが押せって言ったのは菓子のワゴンだ!
あたしの尻じゃねえ!
ワゴンはあそこにあるだろうが!
その目は道を見るためについてんのか、
それとも頭の飾りか、このボケ!」
メイドの笑顔が凍りついた。
「も、申し訳ございません!」
「謝ったらタルトが口に飛び込んでくるとでも思ってんのか? あっちのワゴンを持ってこい! 早くしろ!」
「かしこまりました!」
今度はメイドが菓子のワゴンをつかみ、正しくマルガレーテの目の前まで押してきた。マルガレーテはタルトを手に取ると、大きく一口かじった。
「……うん。うまい」
下がろうとしていたメイドが、ぴたりと足を止めた。
「ほら見ろ! この家にも、まだマシなものがあるじゃねえか!」
マルガレーテは菓子を食べ続けながら、誰がタルトを作ったのか尋ねた。料理長だと聞くと、もう二皿追加で作るよう命じた。次にこれより数が少なかったら厨房まで乗り込み、耳が痛くなるまで文句を叩き込んでやるとも言い添えた。
メイドは返事をし、これまでにないほど慎重にワゴンを押して部屋を出ていった。
「まったく、こんな間抜けどもと一緒にいると頭が痛くなる! 菓子のワゴンひとつ押せねえなんて、ほかの仕事をさせたら、この家には何が残るってんだよ!」
「少なくとも、椅子は壊れていない」
部屋の向こうから男の声がした。マルガレーテの夫、グスタフだった。彼は最初から窓際で書類を読んでおり、騒ぎの間も一度として顔を上げていなかった。
マルガレーテは勢いよく振り向いた。
「あんた、黙ってな! あたしが菓子のワゴンを持ってこさせなきゃ、こんな面倒に巻き込まれずに済んだんだよ!」
「わかった」
グスタフは落ち着いたまま、書類のページをめくった。
「次からは、菓子のワゴンに自分で君のところまで来るよう命じておくよ」
「このクソ野郎! てめぇ、あたしをからかってんだろ!」
「いや、問題を解決しようとしているだけだ」
「問題解決だと? ふざけんじゃねえ!」
「そういうことなら、私は書類に戻るよ」
「そうしな! 書類でも読んで、少しは頭をよくしな!」
グスタフは一度頷き、本当に書類へと目を戻した。一方、マルガレーテはさらにタルトを一切れ手に取り、メイドや料理長、少し離れた場所に座る夫への文句を続けた。
「……お母様」
控えめな声が扉のほうから聞こえた。マルガレーテが振り向くと、帰宅したばかりのエレナが立っていた。
「おや、帰ってきたのかい? そこで突っ立ってないで、さっさと入りな!」
エレナは落ち着いた所作で部屋に入った。ずれた椅子と、母の手にあるタルトに目をやってから、マルガレーテへ視線を戻した。
「……何かあったのですか?」
「何でもねえよ! バカがワゴンを間違っただけさ!」
「そうですか……」
エレナは、それ以上尋ねる必要はないとでもいうように頷いた。
「今日は医療施設のほうはどうだった?」マルガレーテが尋ねた。
エレナは少し考えてから答えた。
「今日は、貴族の子弟たちが患者のために音楽を演奏しておりましたわ。」
「音楽だって? 怪我人が大勢いるってのに
あいつらは音楽を聞かせに行ったのかい?それで傷が早く治るとでもいうのか?」
「そこまでのことではないと思いますわ」
「だったら――」
「ですが、気持ちが少し落ち着かれた患者の方々もいらっしゃいましたわ」エレナは母が言い終える前に答えた。「治療の妨げにもなりませんでしたし、管理者の方が示された条件にも従っておりましたわ
」
マルガレーテはしばらく娘を見つめていた。
「ふん。なら、もう少し様子を見な。簡単に人を信用するんじゃないよ。口で立派なことを言うだけなら誰にでもできる。実際に何をするかを見るんだ」
「はい、お母様」
グスタフは書類をいったん置いた。
「まだ確信が持てないのなら、今日すぐに判断する必要はない。目にしたことを覚えておいて、これから考えていけばいい」
「はい、お父様」
彼は一度だけ頷き、再び書類に目を落とした。マルガレーテは娘を頭からつま先まで眺め、眉を寄せた。
「ところで、エレナ、何か食べたのかい?」
「いいえ、まだですわ。たった今、戻ってきたところですの」
「はあ? だったら、どうして最初に言わないんだよ! 顔色が悪いじゃないか。倒れでもしたら、また面倒が増えるだろ! 座って菓子を食べな!」
エレナはかすかに微笑んだ。
「ありがとうございます、お母様」
「礼なんかいらないよ! 黙って食べな!」
「はい」
「それから、最後のタルトには手を出すんじゃないよ。あれはあたしのだからね!」
「……かしこまりましたわ」
マルガレーテはメイドに菓子をもう一皿持ってくるよう怒鳴った。エレナは父の隣に腰を下ろし
メイドが用意した紅茶を受け取った。
彼女は父に、毎日母の小言を聞かされて疲れないのかと、小さな声で尋ねた。
「マルガレーテと長く暮らしているからね。返事をしたほうがいいことと、聞き流したほうがいいことくらいは分かるよ」
グスタフはそう答えた。
「では、先ほどのワゴンのことは、どういうことでしたの?」
「椅子がまだ壊れていないと分かったから、そう言っただけだよ」
エレナは思わず笑った。
「お父様!」
部屋の向こうからマルガレーテの怒鳴り声が飛んできた。
「今度は何だい!」
「何でもないよ。愛しい娘に状況を報告していただけさ」
「報告だあ? ふざけんじゃねえ!」
彼女の声は廊下にまで響いた。そのとき、年配のメイドが新しい菓子皿を持って入ってきて、マルガレーテの手が届きやすい位置に置くと、静かに下がっていった。
「最初からこうしてりゃいいんだよ。どうして初めからできないんだい」マルガレーテがぶつぶつと言った。
メイドが仕事に戻ろうとしたとき、扉のそばに立つ別のメイドの囁き声が聞こえた。
「今日は奥様、機嫌がいいわね」
「本当ね。いつもなら、気に入らない菓子だったらもっと長く小言を言うのに」
「聞こえてるぞ、コラ! 暇なら、さっさと広間の花を生けに行きな!」
「かしこまりました!」
二人のメイドは、マルガレーテに言われたとおり、慌てて仕事に戻った。
エレナは彼女たちをしばらく見送ってから、母へ顔を向けた。
「花を生け終えたら、あの方たちはお休みになれるのかしら?」
「休むに決まってるだろ! 仕事が終わったら菓子を食べてもいいさ。ただし、あたしが取っておいた分をこっそりつまむんじゃないよ!」
マルガレーテは扉のほうへ怒鳴った。
「聞こえたかい? 仕事を終わらせてから休みな! ほかの人間に仕事を押しつけるんじゃないよ!」
「ありがとうございます、奥様!」
外から返事が聞こえた。
エレナは紅茶を一口飲み、それ以上は何も言わなかった。グスタフも書類のページをめくり、意見を挟まなかった。
ほどなくして、庭師の一人が入ってきて、一部の植え込みはこれ以上刈り込むべきではないと報告した。さらに手を加えれば、木を傷めてしまうおそれがあるという。
マルガレーテは最後まで聞くと、眉間にしわを寄せたまま言った。
「だったら、どうして最初に報告しなかったんだい! そこがまだ切れないと分かっていれば、どうしてあんなに不格好なのか、いちいち考えずに済んだだろ!」
「申し訳ございません、奥様。もっとはっきりと報告するべきでした」
「まあいい。明日は残りのところをきちんと仕上げな。まだ切れない部分はそのままにしておきな。早く見栄えをよくしたいからって、木を傷めるんじゃないよ。分かったね!」
「はい、奥様」
「ほかにも何か制約があるなら、全部報告しな! あとからあたしに知らされるんじゃ遅いんだよ!」
「はい、奥様」
庭師は返事をして、仕事に戻るために退室した。グスタフはその後ろ姿を見送り、平然とした声で言った。
「庭師は逃げたわけじゃない。ただ、庭の手入れに戻っただけだ」
マルガレーテは勢いよく振り向いた。
「分かってるよ!木が枯れるまで切れなんて言ってないだろ!」
「それならいい」
「じゃあ、何でそんなこと言うんだよ」
「はいはい」
エレナが紅茶のカップを置いた。年配のメイドが使い終わったカップを回収して通り過ぎたが、特に表情を変えることはなかった。
マルガレーテは菓子の皿を整えに戻ってきたメイドへ向き直った。
「娘が好きな菓子も持ってきな! そこに突っ立ってぼんやりするんじゃないよ!」
「かしこまりました、奥様」
グスタフは娘を見た。
「今日は、マルガレーテの機嫌がいいようだな」
「お父様……」
「あんた、そんなに暇なのかい!」マルガレーテがすぐさま口を挟んだ。「暇なら書類でも最後まで読んでな! よそのことに口を出すんじゃないよ!」
「分かった」
グスタフはまったく動じることなく、再び書類に目を戻した。エレナはメイドから菓子皿を受け取り、小さなテーブルの端から紅茶のカップを少しだけ遠ざけた。
母の小言はその後も時折続いた。空になった菓子皿が運び出されると、マルガレーテは娘の皿をほんの少しだけ手元へ寄せてやり、それから自分のタルトの皿を自分の側へ引き戻した。
「ちゃんと全部食べな。あたしの最後の一切れには手を出すんじゃないよ」
「はい、お母様」
エレナは静かに菓子を食べた。母はまるで何事もなかったかのように、また別のことについて小言を言い始めた。
◇
翌朝。休息を取り、荷物を整え終えると、リゼルはレオンに、もう一度、後方の軍の医療施設へ戻ることを相談した。
「今回は、必ずしも演奏をする必要はありません」リゼルは言った。「ただ、わたくしたちに手伝える雑用があるかどうか、管理者の方に尋ねてみたいのです。適した仕事がなければ、無理に何かをしようとする必要はありませんから」
レオンは頷いた。
「まずは管理者に、きちんと確認いたします。治療の妨げになる仕事や、私たちの能力を超えることには手を出さないようにしましょう」
「ありがとうございます、レオン」
医療施設に戻っても、一行は楽器を取り出さず、再び演奏場所を借りようともしなかった。レオンは目的を伝えるため管理者のもとへ向かい、ほかの者たちは職員の仕事を妨げない場所で待っていた。
管理者は彼らの申し出を慎重に聞いたあと、患者の治療に直接関わらずに手伝える作業がまだいくつかあると説明した。
一つは、きれいに畳まれた布類を職員が指定する保管場所へ運ぶこと。もう一つは、休憩場所で使用済みのカップや容器を集め、担当者へ引き渡すことだった。
「職員の指示どおりに作業してください。治療室には入らないこと。それから、医療器具を自分たちの判断で動かすこともやめてください」管理者は念を押した。
リゼルはすぐに頷いた。
「承知しました。皆で、指示を厳守いたします」
一行は割り当てられた作業を始めた。ライラは清潔な布類を整えて重ね、アレンとユリウスは集められた容器を職員の指示に従って受け渡し場所まで運んだ。エリアスは、自分が持っている物が通路を塞いだり、間違った場所に置かれたりしないように注意を払っていた。
リゼルもまた、静かに作業を進めた。患者全員に話しかけようとはしなかったし、注目を集めるために歌を披露しようともしなかった。職員から道を空けるよう求められれば、すぐに脇へ寄った。物をどこへ置くべきか分からないときは、手をつける前に尋ねた。
彼らがしていることは、大きな仕事ではない。作業を終えても、誰かが拍手をしてくれるわけではなかった。それでも、職員たちは不必要な混乱に対処するために仕事を中断せずに済んだ。運んだ物はすべて、指定された場所に収められた。
普段どおり医療施設の手伝いに戻っていたエレナは、一行が到着したときから彼らの様子に気づいていた。彼女は挨拶に近づくことはせず、患者のための清潔な布類を準備しながら、少し離れた場所から見守っていた。
リゼルが、籠を別の場所へ運ぶ前に職員へ確認するのを見て、エレナはそちらへ目を向けた。
職員に奥の棚を示されると、リゼルは反論せず、その指示に従って籠を置いた。患者の一人が通路を通ろうとすると、全員が一時的に手を止め、通りやすいように道を空けた。
自分の担当分を終えたエレナは、職員へ籠を返しているリゼルのそばを通りかかった。
「今日は、演奏の準備はなさらないのですね」
リゼルは振り向いた。
「はい。今日は管理者の方に、わたくしたちが手伝える雑用があるかどうかを尋ねに来たのです。適した仕事がなければ、無理に何かをするつもりはありません」
「少なくとも、行動する前に尋ねるのですね」
リゼルは小さく微笑んだ。
「この施設の仕事については、管理者の方がわたくしたちよりもよくご存じですから。その指示に従うべきだと思います」
エレナはしばらく黙ってから、頷いた。
「そうお考えなら、よいと思います。職員の方々が、あなたたちの面倒を見るために仕事を中断しなくて済むようにしてくださいね」
「気をつけます」
エレナはもう一度リゼルを見てから、自分の作業へ戻った。
「それでは、わたくしは失礼します。まだ仕事がたくさん残っていますので」
「どうぞ」
エレナは振り返ることなく立ち去った。リゼルはほんの少しだけその後ろ姿を見送り、仲間たちと一緒に残りの片づけへ戻った。
その日、再び音楽が響くことはなかった。患者たちが聴衆として集まることもなく、作業が終わったあとに拍手が起こることもなかった。皆はただ、それぞれに割り当てられた仕事をこなし、管理者から完了を告げられるまで手を動かし続けた。
施設を出る前に、レオンは約束どおり管理者へ作業の報告をし、次回訪問する際の注意点についても説明を受けた。リゼルは職員たち一人ひとりに礼を述べ、仲間たちと共に外へ出た。
エレナは建物の中に残り、いつもどおり仕事を続けていた。
彼女の手が、ほんの一瞬止まった。リゼルたちが去っていった通路へ目を向け、それから視線を戻し、再び目の前の作業に取りかかった。




