第17話――歌が残したひととき
リゼルは、入口から見える医療施設の様子を静かに見つめていた。
「忙しそうですね……」
ライラが小さくつぶやいた。
ユリウスも建物の奥へ視線を向け、静かに頷いた。
「ええ。ここでは、少しの時間も無駄にはできないのでしょう」
やがて、レオンが職員服を着た中年の男性を伴って戻ってきた。
男性の顔には疲労の色が浮かんでいたが、リゼルの姿を見ると、わずかに足を止め、丁寧に頭を下げた。
「リゼル王女殿下。お待たせしてしまい、申し訳ございません」
周囲の人々の注目を集めないよう、彼は声を落としていた。
リゼルはかすかに微笑み、頷いた。
「大丈夫です。わたくしに特別な気遣いをしていただく必要はありません。ここには、ほかにも世話を必要としている方がたくさんいらっしゃいますから」
施設の管理者は承知したように頷き、レオンへと向き直った。
「陛下からの書類は確認済みです。演奏のための場所をご用意することは可能ですが、皆様にはご協力をお願いしたいと思います。患者の診察や治療を行う際には、何よりも静かな環境を優先しなければなりません」
「承知しました。治療の妨げになることはいたしません」
レオンが答えると、管理者はほっとしたように表情を和らげた。
「ありがとうございます」
「演奏できる場所だけでなく、職員の方々が普段どのように動いているのかも確認させていただきたい。皆さんの妨げにならない場所を選びたいと考えています」
レオンが付け加えると、管理者は少し意外そうな顔をしたあと、頷いた。
「承知しました。では、立ち入りを許可できる区域をご案内いたします。演奏の時間については、治療の予定を確認してから改めて決める必要があります。何かご希望がございましたら、いつでも職員にお申し付けください」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
管理者に案内され、一行は立ち入りを許可された区域を見て回った。
病室のベッドで休んでいる患者もいれば、日差しが差し込む廊下に出て腰を下ろしている患者もいる。自分では身の回りのことができない者のそばには、職員が付き添い、細やかに世話をしていた。
レオンは職員たちの動きを妨げないよう、通路の端に寄りながら周囲を確認していた。ユリウスも患者や職員の様子を注意深く見ている。
ある部屋の前を通りかかったとき、リゼルは、腕に包帯を巻いた青年が反対側の手で水の入ったカップを持ち上げようとしているのに気づいた。わずかに動かすだけでも、何度も手を止めて休まなければならないようだった。
近くにいた職員がそれに気づき、すぐにカップを支えてやる。青年は水を飲むと、小さく頷いて感謝を伝えた。
リゼルは歩みを緩め、しばらくその光景を見つめてから、仲間たちの後を追った。
この人たちの力になりたい。けれど、自分には医師や職員の代わりを務めることはできない。
今の自分にできるのは、治療を受けている人々に音楽を届けること。そのためには、場所や聴く人たちのことを考えなければならなかった。
「午後になると、患者の一部が中庭で休憩を取るようになります」
二棟の建物に挟まれた広い中庭に着くと、管理者が説明した。
「ここなら病室からもそれほど離れていませんし、場所を適切に使えば、休息を必要とする方々の邪魔にもならないでしょう。ただ、実施するかどうかは治療の予定を確認してから決める必要があります」
リゼルは周囲を見渡した。中庭は大勢の人が集まれるほど広く、特に静けさが必要な部屋からも距離がある。
「それでしたら、実際に演奏する予定の時間帯に、こちらの様子を確認させていただけませんか? 音楽が休息を必要としている患者さんの邪魔にならないか、確かめておきたいんです」
管理者は賛同するように頷いた。
「承知しました。適切な時間がわかり次第、職員からお知らせいたします」
「ありがとうございます」
管理者が別の仕事に戻ると、一行はもう少し周囲を見て回ることにした。職員たちの作業を妨げないよう、通路を塞がないことにも気を配る。
レオンは中庭から各病棟へ続く通路を確認し、楽器を置くならどこがよいかを考えていた。ユリウスは、休憩している患者たちから少し距離を取りながら、彼らが落ち着いて過ごせる場所を確かめている。
そのとき、横から若い女性の声が聞こえてきた。
「失礼。皆さん、ここで何をなさるおつもりですの?」
リゼルが振り向くと、食事を載せた盆を手にした若い女性が立っていた。貴族令嬢らしい服装で、年齢はリゼルとさほど変わらないようだった。
彼女はエレナという名で、普段からこの軍の医療施設に足を運び、療養中の人々の世話を手伝っている。
彼女のそばには、きちんと畳まれた清潔な布も用意されていた。
「療養中の方々に、音楽を聴いていただこうと思っているんです」
リゼルは丁寧に答えた。
エレナはわずかに眉を上げた。
「音楽……ですの?」
彼女は一行のほかのメンバーに目を向け、それから再びリゼルを見た。
「それでは、皆さんは人々から称賛されたい貴族のご子息やご令嬢、ということかしら?」
声は大きくなかったが、不満を含んだ響きは近くにいる者にも十分伝わった。
ライラはすぐに眉をひそめた。反論しようと口を開きかけたユリウスも、ふと動きを止め、リゼルがどう答えるのかを見守った。
レオンも女性へ視線を向けたが、口を挟まず、リゼルの返答を待っていた。
しかし、リゼルは腹を立てる様子もなかった。
「どうして、そのようにお考えなのですか?」
「そういう方々なら、これまで嫌というほど目にしてまいりましたもの。」
エレナはほとんど間を置かずに答えた。
「誰かが困っていると、親切な人間だと周囲に示すためだけに、わざわざ姿を現す方々がいらっしゃいますの。けれど、興味を失えば、何事もなかったかのように、何不自由ない暮らしへお戻りになる……まったく、よくできたお話ですこと。」
彼女は、少し離れた場所にいる患者たちへ目を向けた。一人の男性は職員に腕の包帯を整えてもらっており、別の患者は疲れ切った様子で椅子の背にもたれていた。
「ここの方々が求めているのは、ご自分が善人であると誇示するためのご親切ではありませんわ。必要なのは、きちんとした治療と、家へ帰ること。そして、以前と変わらぬ暮らしを取り戻すことですの。」
ライラが何か言い返そうと唇を動かした。だが、リゼルがそっと手を上げ、少し待ってほしいと合図した。
相手が話し終えるまで耳を傾けてから、リゼルは落ち着いた声で答えた。
「おっしゃるとおりです。音楽で傷を治すことはできませんし、一度演奏しただけで、誰かの生活が元どおりになるとも思っていません」
エレナはわずかに目を見開いた。リゼルが言い訳をすることなく、その事実を認めたのが意外だったのだろう。
「それほどご立派なお考えをお持ちなら……どうして、わざわざここへ?」
リゼルは少し離れた場所にいる患者たちを見つめてから、女性へ視線を戻した。
「傷が癒えるまで、そして家に帰れるようになるまでの間、せめて少しでも、そうしたつらいことを忘れて過ごせる時間があればいいと思ったんです」
彼女は、ほんの少しだけ言葉を切った。
「わたくしたちの歌を聴いて、どんな気持ちになるかはわかりません。気に入ってくださる方もいれば、まったく興味を持たない方もいるでしょう。それでも、そんなひとときを届けてみたいんです」
エレナはしばらくリゼルを見つめていた。
「……まあ、口ではずいぶんとご立派なことをおっしゃいますのね。」
そう言いながらも、表情がはっきりと和らいだわけではなかった。
「ですが、口で立派なことを並べるのと、実際に行動で示すのとは別ですわ。あなた方が本当にこの方々のためにいらしたのか、わたくし自身の目でしかと見極めさせていただきますわ。」
そう言い残すと、エレナは食事の盆を手に、隣の建物へと戻っていった。足早な様子からは、まだ片づけなければならない仕事が残っていることがうかがえた。
ユリウスはその後ろ姿を見送り、リゼルへと向き直った。
「ずいぶん率直な人ですね」
「彼女には彼女なりの理由があるのでしょう」
リゼルはそう答えた。
ライラは、まだ少し不満そうな顔をしていた。
「でも、何も見ていないうちから人を決めつけるなんて、少しおかしくありませんか?」
「それもそうですね」
リゼルはかすかに微笑んだ。
「でも、わたくしたちだって、まだ彼女に何も見せていないのですから」
ライラは言葉に詰まり、やがて小さく息を吐くと、納得しきれない様子ながらも頷いた。
レオンはリゼルたちを見渡してから、静かに口を開いた。
「それなら、あとは実際の行動を見ていただくしかありません。私たちにできることを、確実に行いましょう」
リゼルは仲間たちを順に見渡し、それから再び中庭へ目を向けた。
「ええ。わたくしたちは、自分たちがやろうと決めたことを精いっぱいやればいいんです。まずは、やってみましょう」
◇
管理者から適切な時間を知らされると、一行は演奏場所の確認を始めた。
すぐに楽器を取り出して演奏することはせず、まずは周囲の様子や人々の動きを観察した。職員たちは患者の世話をするため、まだ中庭を頻繁に行き来している。その時間に演奏を始めれば、仕事の妨げになるだけでなく、患者たちの休息も邪魔してしまうおそれがあった。
レオンは管理者と演奏の時間や場所について相談し、アレンは楽器を置く位置を確認した。職員が器具を運んだり、患者を移動させたりできるよう、通路は十分に空けておく。
ユリウスも周囲を見回し、患者が休んでいる場所と職員が頻繁に通る場所を確かめた。
「この位置なら、通路を塞がずに済みそうですね」
ユリウスが示した場所を確認し、レオンも頷いた。
「そうだ。何かあった場合には、すぐに演奏を止められるようにしておこう」
約束した時間になり、周辺での診察や治療が一段落すると、管理者は一行に演奏の準備を始めてよいと伝えた。何か問題が起きた場合には、すぐに演奏を中断するよう念を押すことも忘れなかった。
リゼルは了承し、仲間たちの準備が整っているかを確かめるために振り返った。
全員で楽器を所定の位置に運ぶ。リゼルはギターを肩に掛け、ライラはベースの弦を確認した。アレンはドラムがぐらつかないように位置を整え、エリアスはキーボードの前に座って、機材と音量をもう一度確かめた。
レオンとユリウスは、職員たちの通行を妨げていないことを確認してから、少し離れた場所へ移動した。演奏を聴く患者たちの様子も見守れる位置だった。
リゼルは、ここにいる人々が娯楽を求めて集まったわけではないことをよく理解していた。静かに休んでいたい人もいるはずだ。
彼女は仲間たちに向き直った。
「今日は、あの愛の歌を演奏しましょう。音はできるだけ柔らかくしてくださいね。聴いてくださる方々が心地よく感じられるようにしたいんです。無理に盛り上げたり、大げさな演奏にしたりする必要はありませんから」
「わかりました」
アレンが答えた。
ライラも微笑んだ。
「それなら、ベースもできるだけ柔らかい音になるようにしますね」
エリアスは眼鏡の位置を直し、真剣な面持ちで頷いた。
「キーボードの音色も、この場の雰囲気に合うよう調整します。ほかの楽器の音を邪魔しない音量にしますね」
「ありがとう、みんな」
管理者から演奏開始の合図を受け、リゼルは前方の位置へと進み出た。
患者の中には、不思議そうにこちらを眺める者もいた。男性の一人は隣に座る友人との会話を続けており、手すりの近くに座る年配の女性は、膝に掛けた布を整えていた。器具の箱を運んでいた二人の職員は、見慣れない楽器の一団に気づいて少し足を緩めたものの、そのまま仕事を続けていった。
演奏の準備が整う頃、エレナも中庭の近くへ戻ってきた。患者たちの世話をひと区切りつけたのだろう。彼女は少し離れた場所に立ち、腕を組んで演奏を見守った。まだ警戒心の残る表情だった。
リゼルは、聴衆の注目を集めようとはしなかった。ただゆっくりと息を吸い、ギターの弦に指を置いた。
最初の音が、柔らかく響いた。
ゆったりとした旋律が流れ始める。澄んだギターの音色が少しずつ広がり、やがてエリアスのキーボードが加わった。主旋律を覆い隠すことなく、音に奥行きを与えていく。
続いてライラのベースが旋律を支え、アレンが一定のリズムでドラムを加えた。
四つの楽器の音が、ゆっくりと一つの歌へ溶け合っていく。
演奏が始まったばかりの頃、患者の多くはそれまでの行動を続けていた。ただ、何人かが演奏する一行に目を向け、やがて中庭の近くで交わされていた会話が少しずつ小さくなっていった。
壁にもたれていた男性が、音のするほうへ顔を向ける。
手すりの近くにいた女性も、膝の布を整える手を止め、歌に耳を傾けた。
エレナは腕を組んだまま、疑わしげにリゼルを見つめていた。
インストゥルメンタルの部分がしばらく続いたあと、リゼルが歌い始めた。
「一度目が合ったその瞬間に」
優しくもはっきりとした歌声が、ギターの音色に重なって広がっていく。
壁にもたれていた男性は、わずかに体を起こした。視線がゆっくりとリゼルへ向かう。傷の痛みが消えたわけではない。それでも、歌声はほんのひととき、彼の意識を苦痛から遠ざけていた。
キーボードが旋律を受け継ぎ、リゼルは次の一節を歌う。
「心はたちまち囚われて」
ベースとドラムが柔らかく旋律を支える。通りかかった職員の一人が足を緩め、友人と話していた青年も、いつしか口を閉じて歌に聴き入っていた。
旋律が少しずつ広がっていく。リゼルは甘く穏やかな声で、さらに歌い続けた。
「恋し焦がれて乙女を想う」
語尾をかすかに伸ばすと、ギターが短い旋律を奏でて、その歌声を引き継いだ。
肩に包帯を巻いた少年が隣の友人へ笑いかける。相手も笑みを返し、二人は再び歌へと耳を傾けた。
演奏の音量が少しずつ小さくなっていく。リゼルは、先ほどよりも深く穏やかな声で歌った。
「誰より赤き乙女の頬」
少し離れた場所で見守っていたエレナも、次第に真剣に聴くようになっていた。ギターの音はほかの楽器をかき消しておらず、ドラムのリズムも彼女が想像していたほど激しくはない。
組んでいた腕から、少しずつ力が抜けていった。
リゼルはわずかに顔を上げ、旋律が次の節へ向かって高まっていくのを感じながら歌い続けた。
「心は大地に沈まんばかり」
ギターにキーボードが重なり、歌声は柔らかく伸びていく。
「心の玉か星の玉 いずれの星にも例えられようか」
旋律が少しずつ広がっていく。聴いていた人々の中には、椅子の背にもたれ、しばし音楽に身を委ねる者もいた。
やがて音が再び静まっていく。リゼルはそっと息を吸い、最後の節へと進んだ。優しい歌声には、確かな願いが込められていた。
「どうか男ら去りゆけ」
「どうか乙女の心に人なかれ」
「どうか 風よ想い届け」
ギターとキーボードが歌声に寄り添い、ベースとドラムが最後の一節まで曲を支えた。
やがて楽器の音がゆっくりと消えていく。中庭をしばしの静寂が包み、すぐには誰も口を開かなかった。
通路の近くに座っていた男性が、そっと目を閉じて長く息を吐いた。再び目を開けたとき、それまで膝の上の布を強く握っていた手は、力を抜いて静かに置かれていた。
先ほど布を整える手を止めていた女性も、しばらく演奏者たちを見つめてから、かすかに微笑んだ。そして、膝の布をもう一度きちんと整えた。
肩に包帯を巻いた少年は友人と目を合わせた。二人は何も言わず、ただ静かに笑みを交わした。
まだ仕事が残っていた職員たちでさえ、一瞬だけ足を止めていたが、やがてそれぞれの持ち場へ戻っていった。
レオンは、患者たちの表情を静かに見渡した。誰もが笑顔になったわけではない。それでも、演奏が始まる前よりも穏やかな顔をしている者がいることに気づいた。
ユリウスも小さく息をつき、リゼルたちへ視線を向けた。
「少しでも、気持ちを休める時間になったのならいいですね」
彼の言葉に、レオンは静かに頷いた。
エレナはその場に立ち尽くし、ギターを下ろすリゼルを見つめていた。
たかが、一曲の愛の歌にすぎない。
それなのに、つい先ほどまで彼女は、仕事が残っていることさえ忘れて聴き入っていたのだ。
一人の患者が、そっと拍手を始めた。
その音に続いて、近くにいた人々も一人、また一人と手を叩き始める。腕に包帯を巻いていて思うように手を動かせない者もいれば、ゆっくりと手を上げ、ぎこちなく拍手する者もいた。それでも、誰もができる限りの感謝を伝えようとしていた。
リゼルは聴衆に向かって頭を下げた。仲間たちも微笑み、同じように礼を返す。
顔を上げると、患者たちの表情がいくらか和らいでいるのが見えた。リゼルは満足そうに仲間たちへ微笑みかけた。
◇
演奏が終わると、管理者が一行のもとへやってきた。
「皆さん、ありがとうございました。治療の妨げになることもありませんでしたし、患者たちの表情もずいぶん和らいだようです」
リゼルは彼に微笑んだ。
「そう言っていただけて嬉しいです」
「また機会があれば、次回も時間を調整してみましょう。職員の仕事に支障が出ないようにしながら、興味のある患者たちがもっと聴けるようにできればと思います」
「ぜひお願いします。わたくしたちに改善すべき点があれば、遠慮なくお知らせください」
管理者は頷くと、建物内の様子を確認するためにその場を離れた。
入れ替わるように、腕に包帯を巻いた男性が近づいてきた。彼はリゼルの前で立ち止まり、軽く頭を下げた。
「ありがとうございました。こんなふうに楽しい気持ちになれるものを聴いたのは、ずいぶん久しぶりです」
リゼルは彼に微笑みかけた。
「気に入っていただけたなら嬉しいです。どうか、ゆっくり休んでくださいね」
男性は頷き、慎重な足取りで自分の席へ戻っていった。
エレナは、まだ曲について話している患者たちを見ていた。そのうちの一人は、かすかに旋律を口ずさんでいる。
彼女は少し迷うように立ち止まっていたが、やがてリゼルたちのもとへ歩み寄った。
「先ほどの曲……思っていたよりは、悪くありませんでしたわ。」
ライラはリゼルへ視線を向け、口元に浮かびかけた笑みを隠した。それに気づいたエレナは、眉をひそめた。
「誤解なさらないでくださいませ。褒めて差し上げたつもりはありませんの。ただ、耳にしたものをそのまま申し上げただけですわ。……それで、わたくしの考えがすべて変わったなどと思われては困りますもの。」
「わかっています」
リゼルは落ち着いた声で答えた。
「一度の演奏で、この人たちの苦しみがなくなるわけではありません。明日になれば、また治療を受け、同じ現実と向き合っていかなければなりませんから」
「……ええ。おっしゃるとおりですわ」
エレナは少しだけ視線をそらした。
リゼルは患者たちのいるほうへ目を向けてから、再びエレナを見た。
「それでも、わたくしたちの歌で今日という一日が少しでも良いものになったのなら、それだけでも意味があったと思います」
エレナはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「次にまた演奏にいらっしゃるのでしたら、今日のように職員の方々を慌てさせることのないよう、お願いしたいものですわね。人助けのつもりが、ここの方々に余計なお手間をかけさせてしまっては、本末転倒ですもの。」
リゼルは気にした様子もなく、微笑みを返した。
「わかりました。誰にも迷惑をかけないよう、気をつけますね」
エレナは頷き、仕事に戻るため、建物のほうへと歩いていった。
その道すがら、彼女は演奏中に見た患者たちの表情を思い返していた。
自分たちの評判を上げるために来たのだと思っていたあの一行も、もしかすると、最初に考えていたような人たちではないのかもしれない。
楽器をすべて片づけ終えると、一行は管理者のもとへ戻り、演奏が何事もなく終了したことを報告した。
リゼルは中庭を振り返った。患者の中にはすでに休息に戻った者もいれば、まだ座ったまま話を続けている者もいた。
「リゼル様……」
ライラがそっと呼びかけ、彼女に微笑みかけた。
「今日は、とてもいい演奏ができましたね」
リゼルは仲間の顔を見渡した。
「ええ。みんなが力を貸してくれたおかげです」
アレンが小さく笑い、ライラも明るく頷いた。その隣では、エリアスが真剣な表情で演奏を振り返り始めていた。
「私は、曲の序盤の音の組み立てを少し変えれば、もっと早く聴く人たちの注意を引けると思います」
リゼルは彼へ顔を向けた。
「エリアス?」
「はい?」
「わたくしたち、まだ宿に戻っていませんよ?」
エリアスは一瞬言葉を止めると、素直に手帳を閉じた。
「わかりました。記録だけ残して、詳しい検討はあとにします」
ユリウスが小さく笑い、レオンは呆れたようにわずかに首を振った。
「相変わらずだな」
レオンの言葉に、エリアスは少し困ったような笑みを浮かべた。
「気づいたことを忘れないうちに記録しておきたいだけです」
「それはわかるけど、続きは宿に戻ってからにしよう」
ユリウスがそう言うと、エリアスは今度こそ手帳をしまった。
リゼルも仲間たちを見て笑い、彼らの後について歩き出した。
今日、彼女は自分の目で確かめることができた。
音楽は、人々が置かれた状況そのものを変えることはできない。それでも、彼らの何気ない日常のひとときに寄り添うことはできるのだ。
リゼルにとって、それだけで、自分の歌を携えて旅を続けるには十分な理由だった。




