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第14話――歌を届けるために

アーリア王国の王宮に、新しい朝が訪れた。

柔らかな陽光が高い窓から差し込み、廊下の大理石の床を照らしている。侍女や使用人たちはいつもどおり仕事に励み、回廊には足音や小さな話し声が絶え間なく響いていた。

何も変わらない、穏やかな朝。

けれど、リゼルの心は、目の前に広がる平穏な光景から離れていた。

昨夜、窓辺で静かに呟いた言葉が、今も胸の中を巡っている。

絶望が遠く離れた人々のもとまで届くのなら、自分たちの歌もまた、その人たちのもとへ届けられるべきなのではないか。

リゼルは窓辺で足を止め、目覚めつつある王都を見つめた。

人々が仕事へ向かい、店々が次々と扉を開け、馬車が長く伸びる街路をゆっくりと走っていく。

その光景を見ていると、先日まで滞在していた南の町のことが思い出された。

以前のリゼルは、王女の務めとは報告を受け、問題を確かめ、その情報を父へ伝えることなのだと思っていた。

けれど、自分の目で人々の暮らしを見たことで、報告書に記されていることは、現実の生活のほんの一部にすぎないのだと知った。

それは、戦争についても同じだった。

王都が平穏を保ち、人々が普段どおり働き、街路に笑い声が響いていたとしても、誰もが同じように安全な暮らしを送れているわけではない。

ここから遠く離れた場所にも、人々はいる。

家に帰ることさえ叶わないかもしれない人々が。

リゼルは自分の手に目を落とした。

この手でできるのは、楽器を奏で、自分の届けたい旋律を誰かに聴いてもらうことだけ。

けれど、本当に苦しんでいる人々のもとへ音楽を届けたいのなら、いつまでも古い物置部屋で、誰かが聴きに来てくれるのを待っているわけにはいかない。

自分から、歩み出さなければ。

もちろん、思いついたからといって、自由に決められることではなかった。

リゼルはアーリア王国の王女だ。軍に関わる場所へ赴くとなれば、決して簡単な話ではない。自身の安全はもちろん、同行者や移動手段、軍との連携についても考える必要がある。

それでも、この思いを実現しないまま終わらせたくはなかった。

リゼルはゆっくりと息を吸い、窓から離れた。

カーレルの出発を見送るため、リゼルは王宮の正門へ向かった。

昨日、物置部屋で言葉を交わした二人に、今さら多くを語る必要はなかった。

出発の準備を終えたカーレルは、リゼルの姿に気づくと、静かに視線を向けた。

リゼルは小さく頭を下げる。

カーレルもまた、わずかに頷いた。

それだけで十分だった。

やがて、カーレルは前線へ向かう馬に乗り、護衛の兵士たちとともに正門を出ていった。

その姿が遠ざかっていくのを、リゼルは見えなくなるまで見送った。

胸の奥には心配が残っていた。

それでも、昨日の言葉を思い返す。

――さっきの曲、とても綺麗だった。

あの言葉を胸に留め、リゼルはゆっくりと踵を返した。

今日は、お父様に相談しよう。

そして、許可を願い出てみよう。

◇

国王の執務室には、今日も数多くの書類が置かれていた。

アルドリックはそのうちの一枚に目を通していたが、リゼルが入室すると顔を上げ、手にしていた書類を机に置いた。

「どうした、リゼル?」

「お父様に、ご相談したいことがございますの」

アルドリックはしばらく娘を見つめてから、向かいの椅子へ視線を向けた。

「まずは座りなさい」

「ありがとうございます、お父様」

リゼルが腰を下ろし、話を切り出そうとした、そのときだった。

コン、コン。

扉を叩く音が響いた。

「陛下。ご報告に参りました」

扉の向こうから、男の声が聞こえる。

アルドリックはそちらへ顔を向けた。

「入れ」

扉が開き、軍服をまとった男が入室した。

男は国王に正式な敬礼をすると、姿勢を正し、報告を始める。

リゼルはわずかに身じろぎしたものの、そのまま静かに座っていた。

「前線の状況について、ご報告申し上げます」

「申せ」

男は、ここしばらくの軍事情勢について説明を始めた。

報告の大半は、国境付近の動向や物資の輸送、現地に駐留する兵士たちの管理に関するものだった。

アルドリックは口を挟むことなく耳を傾け、確認が必要な箇所では、時折詳しい説明を求めた。

リゼルもまた、静かに話を聞いていた。

直接、自分が判断を下す立場にあるわけではない。それでも、報告される内容に意識を向けていた。

やがて、ある話題に差しかかったところで、リゼルは顔を上げた。

「もう一つ、ご報告がございます。ここ最近、前線から後方の施設へ搬送される負傷兵の数が、継続的に増加しております」

膝の上に置かれたリゼルの指先が、わずかに動いた。

報告を続ける男の声が、静かな執務室に響く。

「一部の軍の医療施設では、これまで以上の負傷者を受け入れている状況です。現在、収容場所と人員の再調整を進め、搬送されてくる兵士たちに適切な処置を施せるよう対応しております」

執務室に、短い沈黙が落ちた。

アルドリックはわずかに眉を寄せる。

「今後、さらに搬送が増えるという報告はあるか?」

「現時点では、確かなことは申し上げられません。しかし、各地から寄せられた報告を踏まえ、関係部署では、さらなる負傷者の受け入れに備えておくべきだと判断しております」

アルドリックは頷いた。

「分かった。関係部署には、引き続き状況を注視させろ。医療施設で必要な物資が不足している場合は、速やかに報告させるのだ。対応が困難になるまで問題を放置することは許さん」

「承知いたしました」

男は再び敬礼し、残りの報告を済ませた。

ほかに伝えるべきことがなくなると、男は退出の許可を求め、執務室を後にした。

扉が静かに閉まる。

再び、部屋に穏やかな静寂が戻ってきた。

リゼルは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。

彼女は、後方の軍の医療施設の様子を自分の目で見たことがない。

ベッドがいくつあるのかも、医療に携わる人々がどれほど忙しく働いているのかも知らない。

それでも、先ほどの報告を聞いただけで、そこにどのような光景が広がっているのか、想像することができた。

ベッドに横たわる人々。

痛みに耐えている人もいるだろう。

いつになれば家族のもとへ帰れるのか、不安を抱えている人もいるかもしれない。

王都の人々がいつもどおりの日常を送っている間にも、負傷者の数は増え続けている。

リゼルは、わずかに俯いた。

自分には、戦場で起きていることを変える力はない。

けれど、生きて帰ってきた人々のために、何かをすることならできるかもしれない。

それは、決して大きなことでなくてもいい。

痛みや不安だけではない何かに心を向けられる時間。

自分の人生には、まだ支えとなるものが残されているのだと感じられる時間。

ほんのひとときでも、そんな時間を届けられたなら。

リゼルは顔を上げた。

「お父様」

アルドリックが娘へ視線を向ける。

「どうした?」

「軍の医療施設へ赴く許可をいただきたいのです」

アルドリックはすぐには答えず、リゼルの顔をじっと見つめた。

娘が何を考えているのか、その理由を聞こうとしているようだった。

リゼルは膝の上で両手を重ね、落ち着いた声で続けた。

「そこで療養している負傷兵の方々に、音楽を聴いていただきたいのです」

「音楽を?」

「はい」

リゼルは頷いた。

「歌や音楽で傷を治すことはできませんし、戦争を終わらせることもできません。けれど、長い療養生活を送る方々は、痛みや不安、孤独と向き合わなければならないことも多いと思います。ほんの短い時間でも、そうした思いから心を離し、安らげるひとときを過ごしていただけるのではないかと考えました」

アルドリックは黙って聞いていた。

リゼルはさらに言葉を重ねる。

「以前、野戦医療所で負傷兵の方々に歌を届けたことがございます。今度は、後方の医療施設で療養している方々のもとへも、わたくしから音楽を届けに行きたいのです」

アルドリックは椅子の背に身を預け、変わらず娘の顔を見つめていた。

「このことは、以前から考えていたのか?」

「本格的に考えるようになったのは、南の町から戻ってきてからです」

リゼルは正直に答えた。

「あの町への旅を通して、王宮の中から状況を見ているだけでは、十分ではないのだと分かりました。人々が何に直面しているのかを理解したいのなら、自分自身で外へ出て、実際に目にすることも必要なのだと思います」

彼女は少し間を置き、続けた。

「今回も同じです。負傷者が増えているという報告を聞くだけで終わらせたくありません。実際に苦しんでいる方々のために、わたくしにも何かできることがあるのなら、行動に移したいのです」

アルドリックは、すぐには返事をしなかった。

机の上に置かれた書類へ一度目を落とし、それを脇へ寄せてから、再び娘に向き直った。

「リゼル。軍の医療施設へ向かうことが、南の町を訪問するのとは違うということは理解しているな?」

「はい、お父様」

「そこは軍に関わる施設だ。搬送されてくる負傷兵の中には、今も情勢が不安定な地域から送られてきた者もいるだろう。施設そのものが戦場にあるわけではないとしても、危険がないとは言い切れん」

「そのことは、十分に理解しております」

リゼルは目を逸らすことなく答えた。

「だからこそ、勝手に出かけるのではなく、まずはお父様に許可をいただきに参りました」

アルドリックは、しばらく娘を見つめていた。

やがて、小さく息を吐く。

「ずいぶんと、答えを用意してきたようだな」

リゼルは、かすかに微笑んだ。

「それほど、このことを実現したいのです」

再び、執務室に静けさが満ちた。

けれど今度の沈黙には、迷いだけではないものが含まれていた。

アルドリックは国王として、娘の願いを慎重に検討していた。

同時に、その言葉の奥にある彼女の真剣な思いも、見過ごすことはできなかった。

そして、ついに口を開く。

「許可しよう」

リゼルは、はっと顔を上げた。

「本当ですか、お父様?」

「ただし、条件がある」

リゼルはすぐに姿勢を正した。

「はい、お父様」

「お前の付き添いだけで向かわせるわけにはいかん。それに、同行者をお前の判断だけで決めることも認められん」

アルドリックは、はっきりとした口調で告げた。

「アレンを同行させる」

リゼルはわずかに目を瞬かせたが、すぐに続きを待った。

「アレンは能力も経験も十分に備えた近衛兵だ。今回の任務に同行させ、お前の安全を守るとともに、道中で何かあった場合にも対応できるようにする」

リゼルは頷いた。

「そのつもりでおりましたわ」

「それに加えて、騎士を二名、同行させる。誰を選ぶかは余が決めよう」

アルドリックは真剣な眼差しで娘を見据えた。

「お前の役目は、療養している者たちに音楽を届けることだ。だが、道中の安全や移動については、責任を持って管理する者が必要になる。お前の善意が、新たな問題を引き起こすようなことがあってはならん」

リゼルは、一言も遮ることなく父の話を聞いていた。

アルドリックは、彼女の願いを妨げようとしているのではない。

むしろ、できる限り安全に実現できるよう、手を尽くしてくれているのだ。

「その条件、すべて承知いたしました」

リゼルは、はっきりとした声で答えた。

「許可してくださって、ありがとうございます。お父様」

アルドリックは頷いた。

「自分の部屋に戻ったら必要な準備を始めなさい。出発については、関係者との調整が済むまで待つのだ。すべてが整う前に、勝手に日程を決めてはならん」

「はい。お父様のお言葉に従います」

リゼルは椅子から立ち上がり、父に一礼した。

扉へ向かって歩き出したとき、彼女の胸の内で、何かが静かに変わった。

つい先ほどまで、そこにあったのは一つの願いにすぎなかった。

けれど今、その願いは、父の許可を得て実行に移せることになったのだ。

これからリゼルは、再び音楽を王宮の外へ持ち出し、後方にある軍の医療施設で療養する人々のもとへ届けに行く。

そこにいる人々が求めているのは、単なる娯楽ではないのかもしれない。

痛みを抱えながらも、誰にも頼れずにいる人々。

そんな人たちに、ほんの短い時間でも、自分たちは苦しみの中に置き去りにされているわけではないのだと感じてもらえたら。

リゼルは執務室を後にした。

扉が、背後で静かに閉まる。

彼女は廊下で一度足を止め、古い物置部屋に置かれた楽器と、これまで誰かに聴いてもらってきた歌を思い浮かべた。

今度は、新しい聴き手たちのもとへ、自分から会いに行くのだ。

彼らが自分の音楽を聴いて、どんな思いを抱くのかは分からない。

笑顔を見せてくれるかもしれない。

涙を流す人もいるかもしれない。

あるいは、ただ黙って耳を傾けるだけかもしれない。

それでも、試してみたいと思った。

リゼルは、ゆっくりと拳を握りしめた。

「今度こそ……わたくしの歌を、皆様のもとへ届けてみせます」

その声は、王宮の廊下に溶けてしまいそうなほど小さかった。

けれど、今のリゼルにとって、それは何よりも確かな決意だった。

苦しみの中にいる人々へ、今度は正式に音楽を届けるための任務。

その始まりは、もうすぐそこまで来ていた。


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