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第13話――王都への帰還

翌朝。


柔らかな朝日が、宿の部屋の窓から差し込んでいた。


アレンはベッドの上で身動きもせずに眠っていた。


しばらくして、ゆっくりと目を開ける。


「……」


目の前には木製の天井があった。


アレンは数秒間それを見つめてから、額を押さえた。


「……頭が痛い」


昨夜、彼は昔からの友人と酒を飲んだ。


最初は少し話をして、そのまま休むつもりだった。


だが、結局――


くだらない話を、ほとんど一晩中聞かされることになった。


アレンは再び目を閉じた。


「……俺、なんであいつと飲みに行ったんだよ」


起き上がろうとする。


しかし、頭を動かした瞬間――


「うっ……」


激しい痛みが走った。


アレンは動きを止める。


「……昨日、どれだけ飲んだんだ……」


コンコン。


扉が叩かれた。


「アレン?」


外からライラの声が聞こえる。


「起きていらっしゃいますか?」


アレンはため息をついた。


「起きています」


扉が開き、ライラとエリアスが入ってくる。


二人はアレンの姿を見た瞬間、足を止めた。


アレンも二人を見返す。


しばしの沈黙。


やがて、ライラが口を開いた。


「昨夜は、かなり飲まれたのですか?」


「……少しだけです」


ライラはアレンの頭から足元まで眺めた。


「とても『少し』には見えませんけど……」


「私もそう思います」


エリアスが後ろから真剣な声で尋ねる。


「昨夜は何時間ほど眠りましたか?」


アレンは黙った。


「……ゼロです」


エリアスはすぐに小さな手帳を取り出し、何かを書き始めた。


「興味深いですね」


アレンが彼を見る。


「全然、興味深くないですよ」


ライラは口元を手で覆い、笑いをこらえている。


「さあ、早く準備しましょう。今日は王都へ戻る日ですから」


「うん」


アレンは頷き、もう一度ベッドから起き上がろうとする。


今度は慎重に、ゆっくりと体を起こした。


ライラがしばらく様子を見る。


「本当に歩けますか?」


「大丈夫です」


「それならよかったです」


ライラは背を向ける。


「少なくとも、馬車までお運びしなくて済みそうですね」


「私はそこまで弱っていませんよ」


「でも、その前に何か食べておきたいです」


ライラが振り返る。


「まだ食欲はあるんですか?」


「食べなかったら、本当に死ぬかもしれません」


「それなら、早く行きましょう」


「ありがとう」


「でも、もうお酒は飲まないでくださいね」


アレンはしばらく黙った。


「……はい」


エリアスが再び手帳に何かを書き込む。


「今の返答も記録しておいたほうがよさそうですね」


「もう記録しなくていいです!」


部屋に小さな笑い声が響いた。


それは、何も特別なことのない朝だった。


けれど彼らにとって、この旅はもうすぐ終わろうとしていた。


――――――――


それからしばらくして、荷物がすべて馬車へ積み込まれた。


町は、これまでと変わらず賑わっている。


市場を行き交う商人。


通りを進む荷車。


店を開ける人々。


道端を走り回る子供たち。


リゼルはしばらくその光景を眺めてから、馬車へ乗り込んだ。


やがて馬車が動き始める。


町を離れていく中、リゼルはもう一度振り返った。


市場も、人々の姿も、次第に遠ざかっていく。


この町を出る前、彼女は自分の役目とは、町の領主から報告を受け、その情報をアルドリックへ持ち帰ることなのだと思っていた。


けれど、この数日間で、彼女はそれ以上のものを見た。


リゼルは窓の外へ目を向ける。


「……王都にいるだけでは、きっと見ることのできなかったものですわね」


向かいに座っていたライラが顔を上げる。


「旅の中で見たもの、ということでしょうか?」


「ええ」


リゼルは頷いた。


そして、アレンへ視線を向ける。


「たとえば、今朝、二日酔いでベッドから起き上がれなかった人とか」


アレンが答える。


「……それは任務とは関係ありませんよ」


ライラが笑う。


「でも、一番はっきり見えたものではありますね」


アレンはため息をついた。


「やっぱり、もう少し寝ておくべきでしたね」


「私もそう思います」


エリアスが即座に答える。


アレンが目を開く。


「せめて今回は分析しないでください」


「助言をしているだけですよ」


「それが怖いんです」


馬車の中に、また小さな笑い声が響いた。


それからしばらくして、アレンは本当に眠ってしまった。


ライラが彼を見る。


「眠ってしまいましたね」


リゼルは頷いた。


「そのままにしておきましょう」


エリアスが手帳を閉じる。


「どうやら、体のほうが本人より先に判断したようですね」


リゼルは思わず笑った。


そして再び窓の外へ目を向ける。


草原と長い街道が、ゆっくりと視界の中を流れていく。


南の町が、少しずつ遠ざかっていく。


そして彼女が持ち帰るものは、鞄の中にある書類だけではなかった。


――――――――


王都への帰路は、さらにほぼ一日続いた。


やがて、王都の高い城壁が見えてきた。


リゼルは窓から外を眺める。


見慣れた景色が、少しずつ目の前へ戻ってくる。


王都。


しかし、馬車が王宮へ入るよりも前に、リゼルはふと一人のことを考えていた。


王都へ着いたら、まず彼のことを聞かなければ。


馬車を降りると、リゼルはすぐ近くにいた使用人へ尋ねた。


「……カーレル兄様は、いかがですか?」


使用人はすぐに頭を下げる。


「カーレル殿下は、すでにお目覚めになっております」


リゼルの足が止まった。


「……もう、目を覚ましたのですか?」


「はい。数日前に意識を取り戻され、容体もかなり良くなっております。ただ、まだ療養が必要とのことでございます」


リゼルは、ほっと息を吐いた。


旅の間ずっと胸の中にあった不安が、少しだけ取り除かれたような気がした。


「そう……」


思わず笑みがこぼれる。


「本当によかったですわ」


けれど、その笑顔は長く続かなかった。


まだ、やるべきことが一つ残っている。


アルドリックへの報告だ。


「先に、お父様へご報告してまいりますわ」


――――――――


国王の執務室は、以前と何も変わっていなかった。


リゼルが中へ入ると、アルドリックがいつもの机の前に立っている。


「戻ったか」


「ただいま戻りました、お父様」


「旅はどうだった?」


「滞りなく終わりました」


アルドリックが頷く。


「座れ」


リゼルは向かいの椅子に腰を下ろした。


アルドリックはすぐには用意されていた書類を開かなかった。


ただ、しばらく娘を見つめる。


「それで、あの町はどうだった?」


リゼルは少し考えた。


脳裏に浮かぶのは、あの日に見た市場と、人々の姿だった。


「表面だけを見れば、町は普段どおりに動いておりました。物資が不足しているわけでも、大きな混乱が起きているわけでもありません」


そこで一度言葉を切る。


「ですが、深く調べてみると、物流の経路にいくつかの綻びがございました」


アルドリックが興味深そうに彼女を見る。


「綻び?」


「はい」


リゼルは頷いた。


「町からの報告によれば、いくつかの物資が以前より遅れて到着しているとのことでした。しかし、実際に商人たちへ話を聞いてみると、町の報告とは少し異なる事情が見えてまいりました」


「どう違った?」


「商人によって、抱えている問題が異なっておりました」


リゼルは一つずつ説明していく。


「他の町から商品を仕入れている店主は、検査が厳しくなりすぎているために物資の到着が遅れていると話しておりました」


「別の商人からは、脇道を通った際に盗賊に襲われ、その後は別の経路を使わざるを得なくなったという話も聞いております」


「そして、国境付近を通る行商人は、警備兵から求められる通行料が不自然なほど高くなっていると申しておりました」


アルドリックはわずかに眉を寄せた。


「町は、それについて何と説明している?」


「町の役人は、前線へ兵を送らなければならなくなったことで治安が以前より悪化していることは認めておりました。しかし、不当な通行料については否定しております」


リゼルは少し間を置き、父の目を見る。


「どちらが嘘をついているのか、わたくしはまだ断定しておりません。ただ、情報が食い違っているということは、あの街道のどこかに『隙間』が生まれているということですわ」


「前線で続いている戦争によって、後方の秩序が緩み、その混乱に乗じて何者かが利益を得ている可能性がございます」


アルドリックは黙って彼女を見つめた。


その瞳に、わずかな満足の色が浮かぶ。


やがて、彼は机の上の書類を脇へ寄せた。


「よく分析したな……それで、その問題は町の人々にどのような影響を与えている?」


その問いに、リゼルは町で話を聞いた店主や、そこで暮らす家族の姿を思い出した。


「まだ暴動が起きるほど深刻な状況ではございません。人々はこれまでどおり店を開き、仕事を続けております」


「ですが、人々が背負っているものは、それよりも深いものでした」


リゼルは静かに続ける。


「飲食店は物価の上昇によって仕入れる食材の量を減らさざるを得なくなっておりました。普通の家庭も、食費にいくら使えるのかを以前より慎重に考えなければならなくなっております」


「中にはほとんど影響を感じていない者もおります。ですが、その日暮らしで生活している人々にとっては、物流が数日遅れるだけでも物価が上がり、食事を一食減らさなければならなくなることさえあるのです」


リゼルはしばらく黙った。


そして、少しだけ強い口調で続けた。


「わたくしは、今回の旅で学びました……戦争の影響は、前線や失われた兵士の数だけに現れるものではないのだと」


「物価の上昇や、日々の暮らしに怯える人々の目にも、その影は現れるのです」


アルドリックは長い間、何も言わなかった。


ただ、目の前に座る娘を見つめている。


まるで、王国の重荷をともに背負うことのできる者へ成長した姿を見るように。


「では、お前はこれからどうするべきだと思う?」


リゼルは迷わず答えた。


「物流経路を秘密裏に調査する者を派遣すべきですわ」


「不当な通行料が発生している原因と、盗賊の根源を突き止める必要がございます」


「もし物流の仕組みそのものが内部から妨害されているのなら、前線で戦争に勝ったとしても、後方の町が飢えによって崩壊してしまう可能性がございます」


アルドリックはしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりと、重く頷いた。


「それで十分だ」


彼は書類を閉じた。


「どの情報が食い違っているのかを見抜き、商人たちの問題を民の暮らしへと結びつけて考えることができた」


「よくやった、リゼル」


「お前は報告書の文字だけを見るのではなく、本当の問題を見ることができたのだな」


リゼルは微笑んだ。


胸にあった緊張が、ゆっくりと消えていく。


「ありがとうございます、お父様」


アルドリックが頷く。


「よし。今日はここまでだ。もう休め」


「はい」


リゼルは立ち上がった。


「それでは、失礼いたします。」


一礼し、部屋を出ていく。


――――――――


アルドリックの執務室を出たリゼルは、そのまま自分の部屋へ戻らなかった。


向かったのは、カーレルの部屋だった。


コンコン。


扉を軽く叩く。


「カーレル兄様?」


「入っていいぞ」


中から声が返ってくる。


リゼルが扉を開ける。


そして、目の前の光景を見て、わずかに足を止めた。


カーレルはベッドに腰掛けていた。


顔色はまだ普段より少し青白く、身体のあちこちには包帯が巻かれている。


それでも、その瞳は開いていた。


そして、リゼルを見ている。


「戻ったか」


リゼルはすぐに笑顔になった。


「はい」


彼女は兄の近くまで歩いていく。


「兄様は、いつお目覚めになったのですか?」


「三日前だ」


カーレルは薄く笑った。


「お前は今着いたばかりか?」


「はい。先ほど戻ってまいりました」


カーレルが頷く。


「任務はどうだった?」


「無事に終わりましたわ」


「町はどうだった?」


リゼルはベッドの隣に腰を下ろした。


「いろいろと興味深いことがありました」


それから彼女は、商人たちの話や町の人々のこと、そして自分が実際に目にしたものを兄へ話した。


カーレルは途中で口を挟むことなく、静かに聞いていた。


リゼルが話し終えると、彼は口を開いた。


「ずいぶん多くのものを見てきたようだな」


「はい」


「それはよかった」


リゼルが兄を見る。


「兄様はご存じでしたか? わたくし、最初は今回の任務も、ただ報告を聞いて持ち帰るだけだと思っていたのです」


「それで、今は?」


リゼルは微笑んだ。


「今は、実際に自分の目で見なければ分からないこともあるのだと思っています」


カーレルは小さく笑った。


「ずいぶん真面目になったな」


「それが良いことなのかは、分かりませんけれど」


「良いことだ」


カーレルは即座に答えた。


「いつかお前は、王宮の中だけではなく、もっと広い世界を見なければならないのだからな」


リゼルはしばらく黙った。


「兄様は、いつ前線へ戻られるのですか?」


カーレルは自分の包帯へ目を向けた。


「医師には、もう少し休めば治ると言われている」


「そんなに早く?」


「余は十分に休んだ」


彼は包帯の巻かれた場所へ手を添える。


「まだ完全には治っていない。だが、余は任務を果たせる」


リゼルは眉を寄せた。


「せめて、ご無理だけはなさらないでくださいね」


カーレルが小さく笑う。


「母上みたいなことを言うな」


「それなら、わたくしが正しいということですわね」


「そうだな」


二人は小さく笑った。


それは、何気ない兄妹の会話だった。


けれどリゼルにとっては、兄が再びこうして話し、笑っている。


それだけで十分だった。


――――――――


二日後。


カーレルは、まだ完全には治っていないにもかかわらず、どうしても前線へ戻ると言い張った。


結局、アルドリックもその頑固さには折れ、彼を送り出すことを認めるしかなかった。


出発を前にして、カーレルが向かったのは執務室でも、貴族たちのもとでもなかった。


彼が向かったのは、リゼルがいつも音楽の練習に使っている、古い物置部屋だった。


中から、静かなギターの音が聞こえてくる。


カーレルが扉を開ける。


リゼルが振り返った。


「カーレル兄様?」


「弾いているのか?」


「はい」


カーレルは部屋へ入り、いつもの場所へ腰を下ろした。


リゼルは、なぜ兄がここへ来たのかを尋ねなかった。


ただ、そのまま演奏を続ける。


静かな部屋を、ギターの音色が少しずつ満たしていく。


カーレルは目を閉じた。


ここには、会議の声もない。


兵士たちの声もない。


武器の音もない。


ただ、聞き慣れた音楽だけがある。


曲が終わる。


カーレルが目を開いた。


「……ここは、今も静かだな」


リゼルは微笑んだ。


カーレルはゆっくりと立ち上がる。


「明日、出発する」


リゼルが兄を見る。


「明日、ですか?」


「ああ」


カーレルは頷いた。


「余はもう十分に休んだ」


リゼルはしばらく黙った。


そして、静かに言う。


「それなら……どうか、お気をつけて」


カーレルは妹を見る。


「分かっている」


彼は扉へ向かう。


だが、そこで足を止めた。


「リゼル」


「はい?」


カーレルは振り返る。


「さっきの曲、とても綺麗だった」


リゼルは微笑んだ。


「ありがとうございます」


カーレルはそのまま部屋を出ていった。


リゼルは、扉が閉じるまで兄の背中を見送った。


やがて足音が少しずつ遠ざかっていく。


彼女は追いかけなかった。


ただしばらくその場に立ち、それから手にしていたギターへ目を向ける。


そして、静かにそれを置いた。


――――――――


その夜。


リゼルが練習室から戻る途中、前方の廊下から二人の兵士の声が聞こえてきた。


「もう聞いたか?」


「つい先ほど報告が入ったばかりだ」


リゼルは、思わず足を緩めた。


「国境付近で兵力の増強が確認された。それに伴い、いくつもの物流経路が緊張の影響を受け始めているらしい」


リゼルは足を止めた。


その報告が、頭の中で何度も響いた。


国境は遠い。


今まで自分が視察してきた町と直接関係しているわけでもない。


それでも、『影響』という言葉が、彼女の記憶の中にある光景を鮮明に蘇らせた。


静かな街道。


遅れて届く荷車。


買い物をする前に、慎重に硬貨を数える家族。


戦争の影が少しずつ近づいている中でも、俯いたまま日々を生き続けなければならない人々。


リゼルは静かに廊下を歩き始めた。


けれど、王宮の静けさが、その光景をかえって深く心へ刻み込んでいく。


やがて窓の前で足を止めた。


王都の明かりが、通りに沿ってどこまでも続いている。


安全で、遠く離れた場所にあるように見える。


しかしリゼルの視線は、城壁の向こうに広がる暗闇へ向けられていた。


遠く離れた場所で、不安を抱えている人々。


そして、自分たちの歌を聴いて、ほんの少しでも心を温めてくれた人々。


もし、いつか戦火がその場所へ届いたら――。


安全な王都で奏でているだけの音楽では、彼らを慰めることなどできない。


リゼルは、静寂の中で小さく呟いた。


「もし、絶望がそこまで届くのなら……わたくしたちの歌も、そこまで届けなければなりませんわね」


かつて王宮の中から地図だけを見つめていた王女の瞳に、今は確かな光が宿っていた。


視察の任務は終わった。


けれど、リゼルにとって――


本当の旅は、今始まったばかりだった。


これから彼女たちが進む道は、ただ穏やかな街道を越え、平和な町を訪れるだけのものではない。


この世界が恐れる暗闇の中へ――


彼女たちは、音楽を届けに行くのだ。


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