010 救いの雨をもたらしたのは(春燕視点)
「お母様、雨が振りましたよ」
空には大きな満月が輝いているのに、大粒の雨が振り注いでいる。
満月の光を吸い込んだように池は光り、舞い踊る雪燕も、光り輝いて見えた。
お母様はその姿を目にすると、瞳から涙を溢れさせ、私にもたれかかるようにして静かに眠りについた。
鼻の前に手を当てると、呼吸を感じられた。
良かった、生きている。
ふと、お母様の胸元から光が見えた。
小瓶の水が光っている。
確かこれは、麓妃がくれたお守りだ。
でもお母様がこれを持っているということは、父も同じではないかと思った。
だとしたら……。
私はお母様の懐から小瓶を拝借し、それを掲げて叫んだ。
「雪燕」
その声は雨粒の音にかき消され雪燕には届かなかったけれど、泰然がすぐに気づいて、雪燕の舞を止めた。
あの人、この小瓶のことも知っているんだ。
雪燕がこちらを見て、私の膝を枕にして眠るお母様に気付き、こちらへとかけてきた。
「春燕、お義母様は?」
「寝ているだけよ」
「雨ごいの舞は龍神へ届いた。雪蘭、ここを離れよう」
「お父様も、きっとこの小瓶を持っているでしょ? 泰然の言う通りにすべきよ」
「分かったわ。春燕、お母様をお願いします」
「ええ、じゃあ、私からも。泰然、雪燕をお願いします」
そう言ったら、雪燕は驚いた顔をしていた。
「変な顔してないで、早く行きなさいよ」
「ありがとう、春燕」
雪燕と泰然は、私とお母様に礼をすると、泰然が雪燕を抱き上げ、宮殿へと走り去っていった。
さて、私はお父様になんて言おうかしら。
「春燕」
「あら、まだいたの? えっと、私の親族だったかしら?」
お父様への対処法を考えていたら、瑠麗が、私の前に立っていた。
どうしてこの場にのこったのだろう。
「そうよ。あの時はごめんね。ちょっとやり過ぎたかも」
「何の話?」
「緑淵で猪に襲われたでしょ。私、あの時の猪なのよ」
「はあ?」
この子が猪だった? 何を言い出すかと思ったら、こんな時に訳の分からないことを言わないでよ。
でも、瑠麗は、嘘をついている様子もなく、平然と言葉を続けた。
「密仙国って本当に不思議な国でさ。色々事情があって猪に変えられていたのよ」
「なにそれ? 信じられないけど……でも、仙女の住まう国ですものね。なんでもアリなのかしら。──まあ、私には何の力もないけど」
そう、私には何もない。何か誇れる力があったのなら、こんなに惨めな思いをしなくてよかっただろうに。
「私もそうよ。姉達のように、舞が得意でもなければ、秘薬が作れるわけでもない」
「そう。優秀な姉を持つと大変ね」
まるで自分に言っているみたいだ。
姉を蹴落とそうとして、身体を傷つけても、結局傷が残ったのは私。私だけ……。
「別に大変じゃないわ。私は私だし、姉のようにはなれないって分かっているし、姉も私にはなれないもの。それに、私は姉のことが大好きだから」
「そうなんだ。私は嫌い。雪燕が嫌い」
瑠麗のように、姉が好きだと言えたら、私も、自分を好きでいられたのだろうか。
私は、自分のことも、嫌い。
──だから。
「この雨は、雪燕が降らせた雨じゃない」
「あら、じゃあ誰がやったのかしら?」
「そうね。それは──。もう行って、お父様よ」
廊下の下にあった小さな扉が開き、父が顔を出した。
おそらく地下通路を使いここまで来たのだろう。
こちらに気付くことなく、父は龍神の池を見据えて立ち尽くしていた。
そこに舞姫の姿はないのに。
間に合ってよかったと、ホッとしている自分がいた。
まだ一人残っているけれど、この子なら宮女だと言っても父は何も思わないだろう。
「ねぇ。これ、使って。姉が作った変な傷薬。火傷の跡も消えると思う」
「えっ?」
「見た目まで醜くなるのは可哀想だと思って」
「嫌な性格ね。父に気付かれるわ。端に控えていて」
話し声に気付いたのか、父はこちらに振り返った。
瑠麗は跪き、横に控えた。
まだ居座るつもりなのね。
私がどうするのか、見届けようとしているのだろうか。
「麓妃? 麓妃なのかっ」
白髪になったお母様が、お父様には麓妃に見えたようだ。
「違うわ。しっかり見てくださいませ、お父様」
父は不安な眼差しのまま駆け寄り、深い皺が刻まれた老婆の姿になったお母様を凝視した。
「だ、誰だ。この老婆はっ」
「誰なのか、分かりませんか?」
「こんな者など……まさか、皇后なのか? え、疫病で亡くなったのではないのか!?」
「いいえ、患者の方々を見送った後、これ以上疫病が広がらないようにと、患者が過ごした宮殿を燃やしただけです。宮殿が燃えたため、皇后も亡くなったと噂が立っただけでございます」
「春燕、皇后はなぜ老婆の姿に?」
私はゆっくりと龍神の池へ視線を向けた。
「お母様は先程まで、ここで舞を踊っていらっしゃいました」
「まさか、命を賭して龍神へと舞を踊り、碧砂国に救いの雨をもたらしたのか?」
「はい。密仙国に伝わる秘薬を飲み、龍神へ命を捧げたのです。ですが、龍神様は寛大であらせられたのでしょう。お母様はまだ生きておられます」
父は跪き、お母様の手を両手で握りしめた。
「皇后よ……。私は仁峰に譲位する。ともに都を離れ、静かに過ごそう」
「ち、父上っ」
雨で濡れた兄は、ここまで走ってきたのだろう。
息を切らし、肩で大きく呼吸している。
「仁峰。見よ、皇后のお陰で雨が降ったのだ」
「皇后の……」
「お兄様、実はお母様は生きていらしたの。密仙国の秘薬を飲み、命を捧げる覚悟で舞を踊り、このような老婆になってしまったのです」
「春燕? ああ、それで雨が振ったのだな」
「ええ、お兄様」
兄は状況を察して話を合わせてくれた。
父は気づいていないようだ。
兄の周りに誰もいないことを確認すると、父は気まずそうに言った。
「仁峰、珊麗様はお帰りになったか? 夜も更けてきた。このまま宮殿に泊まるように伝えたいところだが……」
「支度が済み次第、宮殿を出られるでしょう」
「そうだな。私の気が変わらぬ内に……。仁峰、門の前まで見送って差し上げろ」
「はい、父上」
父は母を背負うと、寝殿の方へと廊下を進んでいった。
兄は私に顔を向けると微笑んで言った。
「春燕、ありがとう」
「お兄様、部屋まで運んでくださる?」
「一緒に珊麗様を見送ろう。泰然様も宮殿を出るだろうから」
父は珊麗様に手を出そうとしたのだろう。さっきの様子だと、諦めたみたいだけれど。
私はホッとした顔で側に控える瑠麗に声をかけた。
「貴女も行くのでしょう?」
「ん? あ、瑠麗ではないか?」
「ふふっ、気づきませんでしたか?」
兄がやっと瑠麗の存在に気づくと、彼女は笑って兄を茶化していた。
「ああ、雪蘭は?」
「部屋に戻りました。春燕が皇帝が来ることを教えてくれたので」
「そうだったのか?」
「私は別に……全部、雪燕の手柄にされるのが、気に食わなかっただけよ」
雪燕が嫌いだから。
ただそれだけの気持ちでしたこと。
そのはずだったのに、瑠麗は私の気持ちを否定するように瞳を覗き込んできた。
「本当にそれだけ? 自分の手柄にすることも、出来なくはなかったんじゃない? でもしなかった。貴女はそうしなかったんだよ」
前の私なら、きっと私の手柄にしていた。
お母様に認められたくて。
「自分の良いところを、ちゃんと自分が認めてあげた方がいいよ。嘘で自分を取り繕うことは、自分の首を絞めているのと同じ。自分で自分を否定しているようなものでしょ。春燕も、雪蘭みたいに、昔の自分と、醜かった自分と、サヨナラできるといいわね」
醜かった自分?
私はそうかもしれない。
心が醜い。雪燕にも、そう言われた。
でも……。
「何言ってるのよ。雪燕は、いつも美しかったわ。眩しくて、目に映すのが痛いくらいに。だから、やっぱり嫌い。お兄様、私は見送りには行かない。部屋に送り届けて」
兄は困った笑顔を私に向けて、そして頷いてくれた。
「分かった。そうしよう」




