009 皇帝陛下(仁峰視点)
玉座に座る父は、酷くやつれていた。
療養から、父と共に戻って来た宰相の話だと、都から逃げたと民から噂され、屋敷に籠りきりで、食欲も落ちているのだという。
「仁峰、この国の一大事に都を離れ何をしているのかと思えば、密仙国の姫を連れ帰るとは大したものだ」
「いえ、運が良かっただけです」
こんな言葉、初めて言った。瑠麗の言葉だと思うと不思議な感覚がした。
「そうか……仁峰。私はお前に譲位することを決めた。皇后が逝った。私も疲れた、休みたいのだ」
「父上……」
もしやと思っていたが、まさかこんなに早く王位を継ぐ日が来るとは。
「その密仙国の姫とは、お前のところに嫁ぎにきたのか?」
「いえ、そのようなことではありません」
「そうなのか? 皇后は亡くなったのだ。密仙国の姫を碧砂国に迎えることが出来るはずだ。その使節の方に橋渡しを頼もう」
「はい」
「おそらく密仙国へ招待され、お前自身が姫を選ぶことになるだろう」
「そうなのですか?」
確か、瑠麗がそんなことを言っていた。
「ああ、もう昔のことで忘れていたが、一人で屋敷に籠もっていると、お前の母である麓妃のことばかり思い出してしまったのだ。彼女の舞を見て、一目惚れしたあの日のことを」
懐かしい過去を思い浮かべ、父は虚空を見つめながら微笑んだ。
「思えば、舞姫に翻弄された人生だったように思う。舞姫と出会い、国が栄え、それを私は自分の力のように錯覚していた。その奢りのせいだろうか。雪燕が呪われたのは」
そうですね。と頷きそうになり、口を閉じた。
皇后にそうさせたのは父の奢りが原因だと思うから。
「雪燕がもし呪われていなければ、今頃どうしていたでしょうか。母と、そっくりだったかもしれませんね」
「そうだな。きっと雪燕は麓妃と瓜二つに成長していただろう。そして今宵も舞を披露していただろうな」
父の想像通りだろう。そろそろ、月が出てきた頃か。
雪燕は龍神の池で舞を踊っているだろうか。
「仁峰、舞姫に頼るでないぞ。本来、数百年に一人の存在といわれている。その存在なくとも、碧砂国には龍神様がついておられたのだ。そうだ。御神木は燃えてしまったが、祈りに行こう」
「い、今ですか?」
「ああ。今夜は満月だからな。春燕は禁足中で、また馬鹿なことをしてはいないと思うが、皇后に代わって、この目で見ておこう」
父は玉座からゆっくりと立ち上がった。
しかし今、龍神の池に向かわせてはならない。
「父上、その前に是非、密仙国の使者の方とお会いいただけませんか? 父上の帰還を知り、ご挨拶をと申し出ております」
「そうか、そうであったな。では呼んでまいれ」
侍衛に目配せすると、廊下で舞っていた珊麗様と剛様が御前へと呼ばれた。
珊麗様を目にすると、父は食い入るように彼女を見つめた。
敢えて、母がよく着ていた芥子色の衣を珊麗様に着ていただいた。銀色の髪を長く垂らし、簪も母が好きだった菊の花の物を挿してもらった。
「皇帝陛下、黎珊麗と申します。密仙国の代表として参りました。碧砂国の天災に私達も心を痛めております。どうか、鎮魂の舞を披露させてくださいませ」
父上が首を縦に振ると、珊麗様は美しく礼をし、手に持った白い扇を翻した。その舞は、雨ごいの舞ではないが、幼き日に見た母の舞を彷彿させるほど、優雅で大胆で、美しかった。
父も同じよに思ったのか、宰相に目で何か合図を送ると、珊麗様へと歩み寄り、彼女を見つめ口を開いた。
「黎珊麗を珊妃に封ずる」
ピタリと珊麗様の動きが止まった。
恐れていたことが起きてしまった。
父は珊麗様が気に入り、妃にしようと言うのだ。
珊麗様は、父と目を合わすと微笑み口を開いた。
「でしたら、密仙国へいらっしゃいませ。私よりも有能な姫もおります故、お選びくださいませ」
「そうだったな。そのようなしきたりであったな。しかし珊妃はこの碧砂の宮殿から二度と出さぬ」
「まあ、それは困りましたわ。私を捕らえるのですか?」
側で控えていた剛様が、父に存在を知らしめるかのように、珊麗様へと数歩近づくと、父は一歩後退った。
「私は、国へ帰ります。密仙国は、本来、他国に使者は送りません。ですが、碧砂国の窮地と思い、ここまで足を運んだのです。陛下は、我々の信頼を裏切る。ということでしょうか?」
「いや、君の意思で残ってもらおう」
「そうですか」
要するに、無理やりここに残ることを承諾させようというつもりのようだ。舞姫に翻弄されたことを悔やんでいたはずなのに、どうしようもないお方だ。
珊麗様がニコリと微笑むと、父は慌てた様子で戻って来た宰相に、珊麗様を捕らえるようにと目配せし、宰相が首を横に振るう姿を見て首を傾げた。
「どうした?」
「陛下、兵が皆、眠らされております」
「何だと……」
珊麗様はクスクスと扇で口元を隠しながら笑って言った。
「陛下、申し訳ございません。お疲れの兵士の方々に、心を癒やす香を焚いたのですが、侍女が香を間違えてしまいました。私、最近眠りが浅くて、妹に眠りの香を作ってもらっていたのですが、それを焚いてしまったみたいで」
睡眠の香で宮殿中の者を眠らすことが、珊麗様が用意しておいた奥の手だと、泰然様から教えてもらっていた。
父が密仙国への帰還を妨げた場合、奥の手を使うと聞いていたが、本当に実行することになるとは、残念だ。
「仁峰、これは、何のつもりだ?」
「珊麗様の侍女の不手際でございます。寛大な父上でしたら、笑って許されることでしょう」
「許すだと?……こんなことをされ──ん?」
父は、懐に手を入れ、光る小瓶を取り出した。
あれは、龍神の池の水だ。
幼い頃、母がくれたお守りで、どこにいても、龍神の加護があるようにともらった記憶がある。
父は、まだ持っていたのか。
でも、あれが光っているということは……。
外から雨音が聞こえた。いつぶりの雨だろうか。
父はゆっくりと玉座まで戻ると、そこに座らず、玉座の裏へとフラフラと歩いて消えていった。
珊麗様はクルリとこちらへ振り向くと、玉座を指差して言った。
「今、光っていたのは龍神の池の水では?」
「ああ、そうだ。そうか、もしや……」
父は誰かが舞っていると思ったはずだ。
池へ続く回廊の方角への扉とは反対側だからと油断した。
玉座の裏へ周ると父の姿はなく、地下へと続く階段があった。
「こんなところに抜け道か」
私もすぐ後を追おうとすると、後ろから腕を掴まれた。
振り向くと珊麗様いて、腕を掴んでいるのは彼女だった。
「仁峰様。こちらの抜け道をご存知で?」
「いや」
「でしたら、たとえ遠回りでも、知っている道で行きましょう。地下道は迷路のように入り組み、罠もあるでしょうから」
彼女の言う通りだ。冷静さを欠いていた。
「そうですね。珊麗様は聡明であらせられるのですね」
「あら、褒めてくださるのですね。でしたら、もうお気付きかもしれませんが、急ぐ必要はございません、よね?」
「そうですね。おそらくもう──」




