003 まるで私のことを(春燕視点)
「皇后陛下っ」
宮女が母に跪くと、母も膝を折り、彼女に手を添えた。
「倒れたのではないかと心配したぞ」
「歩かれてはなりません。私のためにこんなところまで……」
「大丈夫だ。……春燕、なぜここに?」
これがお母様?
やせ細ったお母様と目が合った。
頬や腕に赤く爛れた跡があり、本当に疫病にかかったのだと一目で分かった。
でも、よく見ると、やつれたというより、数十歳年をとってしまったかのような姿に私は驚いて声をなくしてしまった。
「春燕様は皇后を心配し、疫病にかかったと門兵に嘘をつき、宮殿内に入られたのです」
「なんと無茶を。今すぐ門兵に真実を告げ、自分の宮へ戻りなさい」
朗らかに微笑んだお母様。こんな笑顔を見せるのはいつぶりだろう。多分、雪燕が奇病にかかる前だ。
「お母様……その、私、お母様が心配で」
「そうか、ありがとう。もう行きなさい。私はもう長くない。春燕、お前の顔が見れてよかった」
「えっ……」
「これからは仁峰を頼りなさい。あの子は、優しくお前を大切に想ってくれている。春燕のこれからの道を、共に考えてくれるだろう」
お兄様を頼れ?
お父様が逃げたから、こんなことを言っているの?
「ねぇ、お父様は?」
「……さあ? 舞姫を失い天災が続き、病んでおられるようだ。後のことは仁峰に任すと言って、今は皇宮を留守にしている」
「でも、舞姫が現れれば、きっとお父様はお戻りになる。だから私が……。今度は池になんて落ちないわ。そうすれば──」
「やめなさい。春燕は龍神様を怒らせてしまった」
「そんなことしてないわ。私のせいじゃないの! 全部雪燕のせいよ。あの子は今も生きているのよ。それで私の邪魔をしているのよ!」
母が悲しげに目を伏せた。
今にも死んでしまいそうな顔で、そんなに悲しい顔をしないでほしい。
「そうか、そうなのかもしれないな」
「お母様?」
お母様は、口では私の言葉を肯定したけれど、そうじゃないことは顔を見ればわかる。
もう、私を怒ることすら嫌になってしまったのかな。
「春燕、もう舞姫などに拘るな。仁峰と共に、よい嫁ぎ先を見つけ、この国を出なさい」
「私のせいだから? この天災が私のせいだから、さっさと国を出ろって言いたいのでしょう」
「不安であろう。しかし、仁峰に任せればきっと大丈夫だ。お前は慎ましく勤勉であり続け、民から愛されていた。他国へ行っても、重宝されるだろう」
「何よ、それ……」
私のことを心配しているみたいに、優しく諭すようにお母様は言った。
まるで私のことを愛しているみたいに。
本当にそうなの? 私のことも、雪燕みたいに抱きしめてくれるの?
気がついたら、お母様の方へと歩き出していた。
今なら、話せる気がした。ずっと我慢してきた気持ちを、お母様が受け止めてくれる気がして。
だけど、お母様は、私と目が合うと隣にあった蝋燭の台を手で払い倒した。蝋燭の炎は、先ほど宮女か運んできた敷布に燃え移り、みるみる炎は大きくなっていく。
「来ては駄目よ、春燕。門兵に本当のことを言って、早く逃げなさい」
炎が宮殿の外壁へと飛び火すると、壁を伝って、あっという間に炎が渦を巻く。外壁には油が撒いてあるのかもしれない。
「すまない。こう見えて、痛いことが嫌いなのだ。もう、逝かせてもらう。最後に春燕の顔が見れて良かった。貴女だけの母親になれなくて、ごめんね」
そう言って扉が閉められた。
なにそれ、なんで謝るの?
今更そんなこと言われたって、信じられない。
「嘘つき、嘘つきっ。お母様が最後に見たいのは、雪燕の顔でしょ? 私じゃないでしょ」
雪燕は生きているかもしれないのに。
それに、お母様は、まだ生きているのに、炎でなんて死なせたくない。
痛いことが嫌なのに、なんて馬鹿なことを。
「こんなところで……私は嫌っ!」
組み上げられていた井戸水の桶を手に取り頭から被る。そして私は、燃えゆく宮殿に向かって走り出した。
****
あれから数日が過ぎだ。皇后の宮殿は全焼。
元々、患者がいなくなったあとの宮殿は燃やす予定で、宮殿の周りには油が撒かれていたそうだ。
だからあんなに火の回りが早かったのだ。
皇后の死を知り、明日には皇帝であるお父様も宮殿に戻られると聞いた。
「春燕様、仁峰様がお戻りになられました」
「お兄様が?」
「はい。それが、密仙国の使者の方を連れて、お帰りになったそうです」
「密仙国の使者ですって?」
「はい。銀色の髪の美しい方です。皇后の親族に当たり、昨今の碧砂国内の天災を案じ、また、身内である皇后の身を案じ、こちらへ向かっていたところ、仁峰様とお会いになり、ご一緒したとのことです」
銀色の髪、皇后の身を案じて……。
「雪燕なの?」
「いえ、別人かと。お会いになれば分かると思います」
違うのか。兄が連れていてくれたのかと思ったのに。
でも、そうよね。お母様は、ここに雪燕が戻ることを望んでいないのだから。
「今から仁峰様がお見えになります。お会いになりますか?」
「……ええ。もちろんよ。話したいことがたくさんあるもの」
「では、お通しいたします」
宮女が部屋を出ていく。
そうだ、兄に会うのなら身なりを整えないと。
ずっと寝着のままだ。ふと、舞姫の衣が目に入る。
もうあの服に袖に通すことはないだろう。
そうだ、今日は満月だ。
天災が起きてから、一月が過ぎたのだ。まだ月の見えない昼の空に目をやり呆然としていると、兄が現れた。
私の姿を見ると、目を丸くして驚いていた。
「春燕? 何があった」
「お兄様、密仙国の使節団と戻られたのですよね? 雪燕は、ご一緒ですか?」
「……雪燕は、亡くなっただろ。それより──」
「そうでした。では、蘇泰然の元にいる雪蘭には会えましたか?」
私は兄の言葉を遮って質問を返した。
どうせ兄は、はぐらかすだろうけれど。
「何の話だ?」
ほら、やっぱり。
でも、誤魔化そうとしているのが顔に出てしまっている。
「私は知っています。お兄様が雪燕に、いえ、雪蘭に会いに行ったことを」
「誰が、そんな虚言を?」
「お母様ですわ。私は、お兄様が知らないことも知っています。お母様は死期を悟り、すべて話してくれたのです。お母様はお兄様に、雪燕と会えても、決して碧砂国に連れ帰るなとお願いしたのですよね。その理由をご存知ですか?」
「……知らない」
「もう、お母様の口から語ることは出来ないと思いますので、私からお兄様にお伝えします。それが、お兄様にとって有益な話だったらとしたら……」
「だとしたら、なんだ?」
「私のお願いを、一つ聞いていただけませんか?」




