009 蓮池の真ん中にて
死色の深淵の谷、そう呼ばれて恐れられる谷の毒に侵された、この夜の山道を泰然様と並んで歩く日が来るなんて、思ってもみなかった。
月明かりに照らされた山道は、昨晩とは違い、狼の気配も他の動物の気配もしない。
「狼は、あの茸を狙っていたのだろうか」
「そうみたいですね。リウリーもそう言っていました」
「ん? リウリーはそれを知っていて、雪蘭を行かせたのか?」
泰然様の目つきが一瞬で怖くなった。
これは内緒にしておくべきだったかもしれないと思ったけれど、来月も満月の日に採取に行くのだから、知っておいたほうがよいだろう。
「でも、リウリーも一緒でしたし、お友達も呼んでくれて」
「リウリー自身も怪我をして、雪蘭にも」
「私は怪我していません。泰然様が守ってくれたので」
「…………」
「結果としては良かったのですよ。やらない選択肢はありませんでした。それに、みんな無事でしたから」
「そうだな。この場に囚われることなく、皆、次の場所へと進んでいける。──池が見えてきたな」
夜の蓮池は、昼間よりも静かで、月明かりを水面に受け、キラキラと光って見えた。
だけど、あの光の道はない。
やはり満月の夜しか現れないのだろう。
蓮池の島へ行くと、水は大分引いていて、大きく膨れ上がっていた茸がまだ残っていた。光っていないと、どれが紫に光る茸なのか、判別がつかなかった。
「次の満月で、また茸は光るのだろうか」
「きっと光ります。今度は、一緒に来たいです」
「しかし、満月の夜は狼が出るだろう。俺一人で行く」
「それは駄目です。狼は群れで動いていました。弓だけでは危険です」
すると泰然様は腰の剣に手をかけた。
「剣術も得意だ。囲まれても問題ない」
「でも……そうだ、私、弓を覚えます。後方支援をします!」
「……では、弓の課題を出すから、それを全て達成できたら一緒に行こう。それでいいか?」
「はい! そうだ、翡雲様が作ってくれた包子食べましょうか?」
「そうだな」
池の真ん中の島の枯れ木の大きな根に腰を下ろし、私と泰然様は、ここで夕食を食べることにした。
瑠麗と翡雲様も二人で夕食の時間だろうか。
「美味しい。まだ温かいですね」
「そうだな」
月を見上げながら包子を頬張る泰然様の横顔を見ていたら、私の視線に気付いた泰然様は、少し恥ずかしそうに私を見つめ返した。
「雪蘭……あの日、伝えた言葉は、まだ有効だろうか?」
「あの日?」
「密仙国から戻ったら、一緒に都へ来てほしい」
「……、ほふっ」
口いっぱいに包子を頬張っていることを忘れていて、頷きながら変な声を出してしまった。
恥ずかしくて、口を押さえてうつむいて、急いで包子を飲み込もうとする。
「あ、すまない。食べているときに……」
互いに少し急いで包子を食べ切る。泰然様は、一度深呼吸してから、言葉を発した。
「父に紹介したい。その後は、都の職に就くことになるだろう。ここに秘薬の研究をしに来ることもあるだろうが、拠点は都になると思う。俺と、ずっと一緒にいてくれないか?」
「はい、とても嬉しいです。泰然様の側にずっといられるなんて……ですが、私で……良いのですか?」
「父は隣にいてほしい女性は自分で見つけろと、いつも俺に言っていた。だから、許婚とかも、いないし、俺は、それが雪蘭だと思っている。多分、君の舞を初めて見た時から、ずっと君のことばかり考えていた。共に過ごす日々が心地よく、愛おしくて、それから先もずっと、一緒に空を見上げ風を感じ、季節の移り変わりを共に過ごしたい」
泰然様の優しい瞳に見つめられて、胸の奥が熱くなる。嬉しくて涙が溢れそうになるのを我慢して私は泰然様の言葉に答えた。
「私も同じ気持ちです。ずっとお側にいさせてください」
「ああ。……気持ちが通じ合うとは、こんなにも嬉しいものなのだな」
「はい」
耳を真っ赤にしてはにかむ泰然様が、とても愛おしい。その横顔をじっと見ていたら、泰然様もこちらを見て、私の頬に手を伸ばした。
涼しい夜の空気と、熱い泰然様の指先が対照的で、私の頬にもその熱が移っていく。
「雪蘭」
名前を呼ばれ濃い深緑色の瞳で見つめられる。
泰然様の瞳には池の水で反射した月明かりが、キラキラと揺らめいていて、とても美しくて魅入ってしまう。
ゆっくりと顔が近づいてきて、私はそっと目を閉じた。
そして、唇に一瞬だけ温かいものが触れると、すぐに離れていった。
心臓がドキドキして爆発してしまいそうだ。
そっと瞳を開けると、目の前に泰然様がいて、彼も緊張した様子で顔を赤らめ、そしてもう一度、私に口づけをした。




