020 宿の夜(泰然視点あり)
宿に行けば翡雲もいるのかと思っていたが、どうやら本当に先に帰ってしまったようだ。
侍衛の話だと、明日また馬車で迎えに来ると言っていたが、いったい何を考えているのやら。
それに、部屋が雪蘭と一緒だとは……。
赤龍橋の迷信を信じている雪蘭が可愛すぎて、感情を抑えきれず、丘の上であんなことを言ってしまった後なのに……。
せめて、秘薬が完成するまでは言わないでおこうと思っていた。今はまだ、心の奥に抑えておきたかったのに。
雪蘭は、「はい」とだけ答えたあと、何も言わなかったけれど、その後、子どもみたいに瞳を輝かせながら夜の町の灯りを楽しんでいた。
喜んでくれていると解釈してもいいのだろうか。
そして食事の後、桂花酒を一杯飲んだだけで、頬を赤く染め、いつもよりにこにこと緩んだ表情をし始めた。
酒は飲まさないようにしよう。
翡雲と似て弱そうな気がする。
少しでも酔いが覚めるように、窓辺で月を一緒に見た。
もうすぐ満月だ。
雪蘭はまたあの舞を踊るのだろうか。
あの美しい舞をもう一度見たいけれど、それは無理だろう。新しい舞姫に気を遣い、きっと舞うことはしないだろうから。
家族の話をすると、雪蘭は嬉しそうに聞いてくれた。
「ふふっ、いいなあ。みんな仲が良さそうですね」
確かに、家族の仲は良かったかもしれない。
両親を尊敬しているし、妹も生意気ではあるが、可愛いと思っている。
「父は周りの反対を無視して、戦場で出会った医者の娘と結婚して……母のことをとても大切にしていた。父と母のような家庭を築くのが、小さい頃の夢だったように思う」
もう母はいないけれど、きっと母もそれを望んでいるだろう。
「小さい頃の? 今の夢は、秘薬を作ることですか?」
「ああ、そうだな」
それと雪蘭とずっと一緒にいたい。
とは口に出さないけれど、誓いを立てるように心の中で呟いた。
雪蘭は酔っているのか、ふわふわと溶けそうな笑みをこぼして口を開いた。
「では、それが叶ったら、次は小さい頃の夢を、一緒に叶えたいですね」
そう言って、雪蘭は俺の肩に頭を委ねた。まるで猫のような可愛い甘え方に、緊張で身体が固くなる。
丘の上での言葉を、ちゃんと受け止めてくれていたのだと思うと、嬉しさがこみ上げてくる。
「一緒に……、そうだな。中秋節では、一緒に月餅を食べよう……雪蘭? ──なんだ、寝てしまったのか」
甘えたと思ったのは勘違いだったようだ。
今日はあちこち連れ回してしまった。
疲れていたのだろう。
雪蘭の脈を診るが、大丈夫そうで安心した。
さて、寝台に寝かせ、俺は長椅子で休もう。
雪蘭を寝かせ掛布をかける。
この油断しきった寝顔は他の者には見せたくないな。
しばらくボーッと寝顔を眺めていたが、このまま寝落ちしてしまいそうだと気付いた。向こうで寝よう。
立ち上がろうとしたら、袖を引かれ体勢を崩した。
「ん? 起きていたのか?」
「え……どこに行かれるのですか?」
寝ぼけているのか、雪蘭は目もあまり開けずにそう尋ねた。
「向こうの長椅子で寝るだけだ。何かあったら声をかけてくれ」
「……長椅子? 駄目ですよ。そんなところじゃ風邪を引いてしまいます。……前にも一緒に、寝たじゃないですか」
「それは……」
前は酔っていたからで、今日は雪蘭に合わせで一杯だけ口にしただけだ。
眠気も飛んでいってしまったし、隣で寝るなど絶対にできない。
「じゃあ、背中合わせで寝ましょう。それならいいですよね」
背中合わせって……なにをどう考えたらそんな可愛いことを思いつくのだ。
「わかった、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
雪蘭が向こうを向いて寝て、俺も背中を向けて寝転んだ。
寝台には暖房機能があって、心地よい暖かさだ。
が、しかし寝るわけにはいかない。
背中の方から寝息が聞こえ、俺はそっと寝台から降りて長椅子へ移動した。
「はあ、眠れる気がしない」
ここからでも寝台で眠る雪蘭の姿が見えた。
なぜあんな無防備に眠れるのだろう。信頼されている、と解釈すればいいのだろうが、翡雲が一緒でも同じことをしそうな気もする。
「はあ……いてっ」
寝返りを打つと長椅子から落ちてしまった。
しかし、ここのほうが雪蘭が見えないから、眠れる気がしてきた。
はあ、早く朝にならないだろうか。
****
朝目が覚めると泰然様の姿がなかった。
確か一緒に月を見ていて……その後の記憶が一切ない。
外は明るい、もしかして、寝過ぎてしまった?
慌てて支度をしようと着替えを取りに行こうとしたら、長椅子の下で寝ている泰然様を見つけた。
「えっ……どうしてこんなところに。もしかして、長椅子から落ちたのでは……」
右腕を枕にしてすやすやと気持ちよさそうに眠っている。
「泰然様、お怪我はないですか?」
声をかけても起きない。
またお酒を飲み過ぎてしまったのだろうか。
お酒の匂いがするかと思って、顔を近づけ匂いを嗅いでみると、至近距離で泰然様の瞳がパッと開いた。
「あ、おはようございます!」
「な……あ、ああ。おはよう」
泰然様はサッと体を起こすと、後ろに下がって長椅子に背中をぶつけていた。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
「大丈夫だ、もう朝か……」
「すみません、私だけ暖かい寝台で寝てしまって」
「いや、よく眠れたか?」
泰然様はまだ眠そうに欠伸をしながら尋ねた。
やっぱりまだ眠そうだ。
「はい、泰然様は、もう少し寝られますか?」
「大丈夫だ。あ、そうか」
「どうしましたか?」
「眠気覚ましに、薬膳茶でも淹れようと思ったんだが、荷物を馬車に置いてきてしまった。まあ大丈夫だ。さて、朝食の準備を宿の者に頼もうか」
私は、立ち上がり、部屋を出ようとした泰然様の手を引き止めた。
「では、朝食の準備が終わるまで寝ていてください。私が宿の方に伝えてきます」
「しかし……」
渋る泰然様の背中を押し寝台まで追いやり、私は部屋を出ると、ちょうど隣の部屋の扉も開き、出てきた方と目が合った。
「えっ、翡雲様!?」




