013 もう失敗しない(翡雲/泰然視点)
雪蘭が食堂で梨の氷砂糖煮を食べている姿を見守ってから、私は泰然の部屋へ急いだ。
部屋に駆け込むと、泰然は調合中で、難しい顔をしながら煮込んだ薬を混ぜていた。
私に気付くと、視線は手元を見つめたまま平然と尋ねた。
「終わったか?」
「終わったかじゃないだろ? 泰然、今日雪蘭が雪燕だって私に伝えると、知っていたんだろ?」
「うん」
泰然はどこか上の空で、心をどこかに置いて来てしまったようだった。
「うんじゃなくてだな。何を作っているんだ?」
「……」
「匂い、変だぞ」
私に指摘されると、泰然は無言で火を消し、煮込んでいる最中の鍋の蓋を閉じた。
どうせ、雪蘭のことが気になって失敗したのだろう。
泰然は、鍋の隣においてあったすり鉢で、既に擦り終えている薬草をゴリゴリと擦り始めた。
「泰然、私は雪燕のことはもう諦めたぞ。公主としての、舞姫としての彼女はもう戻ってこない。ちゃんと理解した」
「そうか……翡雲はすごいな。それで、これからどうするんだ?」
「泰然はどうしてほしい?」
「は? なんで俺に聞くのだ。元々、二人の問題だ。俺は関係ない」
まるで他人事のように、そしてこちらを見ようともせずに泰然は言った。雪蘭に告白のようなことをしてしまったと言っていたのに、関係なくはないだろう。
「関係ない……か。まあ、そうか。私が雪蘭を娶ることにしても、それは私たち二人の問題だ」
「ん? なぜ、雪蘭と呼ぶのだ?」
「雪燕とは呼ばれたくないみたいだ。しかし、それでいいと思っている。私は新たに、雪蘭としての彼女との絆を深めていくことにした」
「うん、それがいい」
そう言って口元を緩めた泰然だが、目は全く笑っていない。私にぐらい、本心を言ってくれたらいいのに。
「泰然、お前はいつも、私に気を遣いすぎだ」
「そんなことはない」
「私は幼い頃からずっと兄に勝てなかった。たった二つしか歳が違わないのに、文武どちらとも、全く歯が立たなかった。しかしお前は違っただろう? 一度見たものはすぐに覚え、剣でも弓でも兄を打ち負かすほどで、神童と呼ばれていた」
同い年の泰然が、兄を打ち負かす姿が大好きだった。恐らくあの頃の泰然は、叔父上を目標に日々鍛錬を積んでいたのだろう。
目標が高すぎるから、兄に勝っても偉ぶる訳でもなく、淡々と難しいことをこなしていく姿に憧れていた。
「それは本当に小さい頃の話だろ」
「そうだ、本当に小さい頃の話だ。お前はすぐに兄にも、私にすら勝てなくなった。だかそれは、私たち兄弟に気を遣ってのことだったのだろう? 現皇帝陛下の息子だから」
「別に、そんなことはない。俺は薬作りの方が好きだったんだ。だからどちらも疎かになってしまっただけだ」
疎かになんてしていなかったことを、私は知っている。
今でも朝は剣の稽古をしているし、弓だって得意なくせに。私が泰然に勝てるものといえば、料理くらいではないだろうか。
「……今回は、そういうの、無しだからな」
「今回って?」
「だから、雪蘭のことは、私に気を遣うなと言っているんだ」
泰然がやっと私のことを見た。
一瞬だけ目が合うが、すぐ逸らされる。
「じゃあ聞くが……密仙国の姫との縁談は覆らないだろう? 雪蘭は側室に迎えるつもりか?」
「そうだな。もし雪蘭が私を選んでくれるなら、そういう形になるだろうな」
「選んでくれるなら?」
薬草を擦る手が止まり、泰然はどこかを見つめてボーッと考え事をしているようだ。
「ああ、私との縁談は、今の雪蘭の未来の選択肢の中のひとつでしかない。泰然が繋いでくれた命、それは彼女のものだから」
公主でない彼女の未来はもう彼女のもので、誰が決めていいものでもない。
「他には……どんな選択肢があるのだろうな」
「さあ? ここで過ごす雪蘭は、碧砂国にいた頃よりも生き生きとしているように見える」
「そうか、それなら良いのだが」
少しだけ瞳に光が宿る。泰然も、雪蘭がいる自分の未来を想像したのだろうか。
「ははっ、そうそう、私達の最大の敵は叔父上かもしれないぞ」
「どういう意味だ?」
「雪燕の初恋が叔父上だからだ」
「はあ? な、なぜ父上が……あ、そうか。雪燕と父上は面識があるのか」
やっと泰然が仏頂面から脱却した。
あんな調子でいられたら、ここに居づらくなってしまう。
「さて、雪燕が好きだったんだ料理でも作るか。剣舞もできて料理もできるなんて、惚れ直されてしまうかもな」
「雪蘭は、翡雲が料理ができることをもう知っている。今さら惚れ直したりしないだろ」
「おお、急に憎まれ口まで叩くようになったか。私とやる気だな」
「やる気? 別に俺は……俺の心はもう変えられない。翡雲が誰をどう想おうと、変わらない」
真っ直ぐに私の目を見て、だけど少し気まずそうに泰然は言った。
「それならよかった。今度は薬、失敗するなよ」
「大丈夫だ、もう失敗しない」
****
何の薬を作ろうとしていたのだろう。
そんな大事なことを忘れてしまうのは初めてだった。
雪蘭と翡雲は、結局どんな話をして、どう落ち着いたのか。
そのことで頭がいっぱいで、雪蘭がどこかへ行ってしまうのが嫌で、彼女を失いたくないと、そればかり考えてしまう。
俺は雪蘭が好きなんだ。
彼女の相手が翡雲だろうと、俺の気持ちは変わらない。
翡雲と話して、そう確信した。
だが今はまだこのままの関係でいたい。
国を追われ一人になった雪蘭は、心の整理がついていないだろう。そんな時に、気持ちを押し付けるようなことはしたくない。
と思ってはいるが、つい昨日、気持ちを吐露してしまったばかりだけれど。
俺が、優先すべきは秘薬作りだ。
そう自分に言い聞かせて、雪蘭への気持ちを抑え込む。
でも、気付いてしまったこの気持ちをどうやったら抑えられるのだろう。
今は三人で朝食を囲んでいる。翡雲が昨夜から張り切って作っていたクコの実やナツメが入った薬膳湯だ。生姜が効いていて身体が温まる。
「雪蘭、昔から生姜が好きだっただろう? どうだ?」
「おいしいです。まさか、翡雲様が料理が得意なんて、驚きました」
「見直したか?」
「はい、私も作ってみたいので、教えてほしいです」
「わかった。これからは剣舞の練習の後に、朝食を一緒に作ろう」
「はい、よろしくお願いします」
こんな調子で昔のことを話すことはあるが、どこか他人行儀な雪蘭を、翡雲は面白がっているような、寂しがっているような、二人の間にはなんとも入り難い不思議な空気が漂っている。
まあ、しばらく様子を見よう。
「あっ、そうだ、泰然様」
「ん?」
「今日の探索ですが、行ってみたいところがあるんです。地図のこの場所で」
雪蘭は今朝、俺が貸した地図を机の上におき、バツ印のない場所を指し示して言った。
「そこは蓮の大池だな」
「はい。池の真ん中に小さな島があって、枯れて朽ち果てた大木がありますよね。その島にも茸があればと思って」
「なるほど、確かに行ったことはない。しかし、池は深いぞ」
「それが、リウリーの話によると東側は池の水が浅いらしくて、そこを通れば島に行けるそうなんです」
「ほぉ、リウリーの……話?」
「雪蘭はリウリーと話せっ──」
脛の辺りに痛みが走り、下を見ると、リウリーと目が合った。どうやら脛に突進してきたようだ。翡雲に自分が話せることを知られたくないのだろうか。
「その……ウリ坊と人ではあるが、同じ女性同士、伝わるものがあるようだ」
「そうなのか? しかしあの蓮の大池か。時期が良ければ池一面に蓮の花が咲くのだが、もう過ぎてしまったな。来年は一緒に見よう」
雪蘭は小さく頷いた。
来年の今頃はどうしているだろうか。
翡雲は妻を娶るし、頻繁に来れなくなるだろうと思う。
「さて、食べ終わったことだし、さっそく池に行ってみよう」
俺が立ち上がると、翡雲も意気揚々と立ち上がった。
「では私も行こう!」
「翡雲様はお留守番です。侍衛の方とお約束でしたよね」
雪蘭に指摘されると、翡雲はつまらなそうに笑顔を取り繕う。
「はいはい。二人でごゆっくりどうぞ」




