012 私は雪燕でした
「私は、碧砂国の公主、雪燕でした」
「……でした?」
「はい、私は疫病のため、皇后が見つけ出した医師の元へ馬車で行く途中事故に遭い、谷底へ落ち、そして泰然様に助けていただき、命を救っていただきました」
「ほ、本当に雪燕なのか?」
「はい」
翡雲様は、地面に着いた私の手を取り、両手で握りしめた。
そして、私の腕や頬に触れ、瞳に涙を滲ませて言った。
「よ、よかった。雪燕が……生きて、いて……」
「隠していて申し訳ありませんでした。怖かったんです。何もかもわからなくて、誰も信じることもできなくて、苦しくて……私は、雪燕と呼ばれることが怖かったんです」
「死の淵を彷徨い、辛かったのだな」
そうだろうか。死にかけた記憶はほとんどない。
「いえ、死んだ方が楽になれたのではないかと、思ってはいました。私は、自分のことを何も知りませんでした。醜悪な公主と呼ばれ、民に疎まれていたことも」
「それは違う。全て春燕の策略だ」
「いえ、私が民を苦しめていたことは事実なんです。私のせいで、余計に税の負担を強いられていたのですから。だから、私はもう雪燕に戻らないことを決めました。そして、翡雲様にも、嘘をつきました」
「いいのだ。こうして本当のことを打ち明けてくれたのだから。大丈夫、私がついていれば雪燕を必ず守る。私の妃に……ああ、そうか、だから私に言えなかったのだな」
翡雲様は言葉にして気付いたのだろう。
私はもう翡雲様の妃になる資格も、その気持ちもないということに。
「私は、もう翡雲様が知る雪燕には戻れません。どうか、私のことは忘れてください」
「嫌だ」
「えっ……」
了承してくれるのかと思ったけれど、翡雲様は即座に否定した。
「ああ、わかった。とでも言うと思ったか?」
「……」
「そんな悲しい顔をするな。私が意地悪をしているみたいではないか」
意地悪なんかではない。私は首を横に振った。
「多分、一生、雪燕を忘れることはできない。それほど大切な人だったんだ」
優しい目をして私を見て、彼はそう言った。
翡雲様の心に映る雪燕とは、どんな娘だったのだろう。
「でも……あの日、雪燕と私の縁は切れてしまったのだろう」
「…………」
「私が雪燕を拒絶してしまった日だ。私は君に酷いことを言った。あれは、病床の母に言われた言葉だったんだ。私は皇子だから、病がうつってはいけない。決して近づいてはいけないと。だから……こんな言い訳、忘れてくれ」
お母様と重ねてしまうのは仕方のないことだ。
身近な人が。また同じ病気になってしまったら、とても辛いだろう。
「翡雲様の言葉は、言われて当たり前の言葉です。だから……」
「理解していても、受け入れられないことはある。君の心を傷つけ、互いの関係を壊してしまったのは私だ」
「……」
「もしあの日、私が君を抱きしてめていたら、どうなっていただろう。君と離れず、馬車も一緒に乗っていれば雪燕は事故に遭わずに済んだだろうか? 今も二人で、共にいられただろうか」
もしそうだったら、どうなっていただろう。
考えたこともなかった。
「それは……できなかったかもしれません」
「疫病がうつってしまうからか?」
「いえ、私は疫病ではありませんでした。だから、そう翡雲様に悟られる前に、雲龍国の皇子を危険にさらす公主として、早々に殺されていたのではないでしょうか」
多分、そうなる。
春燕なら、きっとそうしただろう。
「殺されていた……だと? それに、疫病ではなかった、だと?」
「はい、私は春燕に毒を盛られ、肌が爛れていただけだったんです。年を取らなかったのは、また別の呪いの効果だったそうですが、そちらはどうしてなのかまだわかっていません」
「……あの女、よくも騙してくれたな。私だけでなく、雪燕にまで毒を盛っていたとは……。しかも、呪いだと? 碧砂国には二度と行くまいと思っていたが、これは黙ってはおれぬ」
翡雲様は怒りに任せて勢いよく立ち上がったけれど、私は彼の袖を掴み、それを止めた。
「お待ちください。呪いのことは、よくわからないままですし、碧砂国には舞姫が必要なのです。どうか、どうか春燕を許していただけませんか。私のせいで春燕は心が歪んでしまったのです。私が──」
「違う、雪燕のせいではない」
溜め息とともに、翡雲様は私の隣に腰を下ろすと、私の肩に手を置いた。
「雪燕の気持ちはわかった。最後に一度、抱きしめてもいいか?」
「えっ、は、はい」
同意すると、翡雲様は嬉しそうに微笑んで、私のことを抱きしめた。そして耳元で囁くように言った。
「雪燕のことは忘れない。でも、雪燕との縁が切れてしまったことは受け入れることにする」
翡雲様は凄い人だ。
私は翡雲様を受け入れられなかったのに。
彼には絶対、幸せになってほしいと心から願う。
「ありがとうございます。密仙国の姫様が、どうかお優しい方であることをお祈り申し上げます」
翡雲様は少し寂しそうに微笑むと、私の顔を覗き込んで尋ねた。
「……雪燕、これからは何と呼べばよいのだ? 碧砂国へはもう行かぬのだろう。ならば雪燕と名乗ってもよいのではないか?」
「そうですね。でも、翡雲様に雪燕と呼ばれるのは……」
「あ、嫌なのか。では雪蘭と呼ぼう」
あからさまに肩を落として寂しそうに振る舞う翡雲様は、なんだか子供みたいだ。
「いえ、そういうつもりで言ったわけでは」
「気にするな。雪蘭、私は雪燕は諦めたが、雪蘭のことは諦めなくてもよいだろう?」
「よ、よくありません。私は、もう公主ではありません。皇子の妃なんて無理ですよ」
「そうか? 妃としての教育は受けてきたはずだ。大丈夫なのでは?」
「だ、大丈夫ではありません!」
次の婚約の話も出ているのに、冗談にもほどがある。
しかし、翡雲様は本気みたいだった。
「……そんなに全力で否定されると、さすがに傷つく。──あ、そういえば、私が初めて婚約を申し込んだ時、雪燕はは酷いことを言っていたな。覚えているか?」
「いえ、何のことでしょうか?」
酷いだなんて、どんなことを言ってしまったのだろう。
小さい頃の私は、とてもお転婆だったということしか覚えていない。
「私より、叔父上が相手のほうがよかった、と叔父上に泣きついていたじゃないか。やっぱりそういうことか……」
「やっぱりってどういう意味ですか? あ、でも言われてみると、私は慧王殿下が大好きでした。優しくて、背が高くて、手もすごく大きくて。私が木登りをしていると、ずっと心配して見ていてくれるんです。落ちてしまったときも、しっかり受け止めてくれて……。でも、私と同じくらいの息子がいて、生まれたばかりの娘もいるという話を聞いて、すごく悲しくて、何日間か寝込んだ記憶があります」
あれは確か、翡雲様と許婚になる少し前の話だったような。
「そうそう、結局、渋々私の婚約を受け入れてくれたような気がするな。雪燕にとって、私はずっと優しいお兄さん止まりだったのかもな」
「そんなことありません。お慕いしておりました」
あの頃、私を私として見てくれていた信頼できる人はほとんどいなかったけれど、その中の一人が、翡雲様だった。
「そうか? まあ、叔父上の次に、かな?」
「それは昔の話ですから。なぜ今になって慧王殿下の話になるのですか?」
「それは……慧王殿下の血筋には勝てないのか、という意味だ。なんだか虚しいから言わせるな」
「血筋ですか?」
「……ん? 知らないのか?」
「だから、何をですか?」
何の話か分からないのに、翡雲様は私が知っていて当たり前のように言葉を返す。
一体何のことだろうか。
「沈家で、泰然は父親の名を出したのではないのか?」
「いえ、父の配下が町にいるとしか……え?」
ここで泰然様の父親の話が出るということは……。
翡雲様は私と目が合うと首を傾げた。
「え?」
「ご、誤魔化さないでください! もしかして、泰然様のお父様って……慧王殿下なのですか?」
「……さあ? どうだったかな。ああ、そろそろ小腹がすいてきたな」
私の質問には答えず話をそらされた。
でも、あまり人に言ってはいけない話なのかもしれない。
私も聞かなかったことにしよう。
「そうだ梨の氷砂糖煮は好きか?」
「大好きです」
「……もう一回言ってくれ」
翡雲様は一瞬固まったあと、真面目な顔で言った。
なんだか違う意味で捉えられそうな気がしてしまう。
「嫌です」
「はははっ、からかってすまなかった。よし、これから雪蘭にもっと好かれるように努力する。だから、覚悟しておけよ」
覚悟するも何も、私は翡雲様のことを変わらず尊敬しているのに。




