010 無能な馬鹿ども(春燕視点)
蘇泰然。絶対に許さない。
でも、結局あれは雪燕ではなかったということでいいのだろうか。
あの顔を見るとなぜか胸騒ぎがする。
でも、泰然は酷く怒っていた。
それは許嫁だからだろう。
もし会って間もない雪燕だとしたら、あんなに怒るはずがない。
それに、顔に爛れの傷痕もなく、たった数週間で何年も成長した姿になんてなれるはずがない。
だけどあの二人、私を侮辱して生かしておくなんてあり得ない。
県令に訴えて、今すぐ蘇泰然とあの女を捕縛し罪を償わせてやる。
でも、ただ私を馬鹿にしただけでは大した罪に問われないかもしれない。
私は泥で汚れた身体を清めたあと、服を着替え、服の端々を裂いてボロボロにし、従者に庭の泥をあちこちにこすりつけさせてから布にくるんでもらい、従者に抱えられ、県令に訴えに行った。
私は県令の李峰の前へすぐに通された。
「春燕様、いったい何があったのですか?」
「薬師の蘇泰然をご存じですか?」
「はい。緑淵の誰もが知っているでしょう」
「その彼に……私は……」
私は泣いて従者の胸に顔を埋めた。
この後は従者に話してもらう予定だ。
「春燕様は、蘇泰然に襲われ辱めを受けたのです」
「そ、そんな……なぜ従者が二人もいて、止められなかったのだ!」
李峰が言ったとおりだ。
二人もいたくせに、なぜ泰然一人にやられてしまったのだろう。
この二人こそ、本当は死罪に問われるべきなのだ。
だから従者達は、私に従うしか生きる道はない。
従者はさきほど練習したとおりに話をした。
「う、後ろから襲われ気絶しておりました。その間に蘇泰然は、春燕様の服を裂き……」
「お前は気絶していたのであろう。見てもいないのだから、それ以上話さなくてよい」
「は、はい」
それもそうか。
仕方がないので、私が続きを話すことにした。
私は涙を流し、口元を抑え震えながら懇願した。
「どうか、泰然を捕まえてくださいませっ。女も一緒でした。その女に私も従者も騙され、気を許した隙をつかれて二人はやられたのです。……私は、二人がかりで、お、襲われたのです」
ああ、可哀想な私。皆が私に同情するだろう。
もちろん、傷者になれば翡雲様に嫁ぐことができなくなるかもしれないけれど、私はそこまでされたとは、ひと言も言っていない。
ただ襲われたと言っただけ。
泰然とあの女が死罪になった後、襲われたといっても、ただ服を破られただけだって弁明して、嫉妬で怒った翡雲様に、寝台の上で証明してあげればいいだけだもの。
ああ、みんな思い通りで笑ってしまいそう。
しかし、涙を拭い李峰へと目を向けると、彼の冷たい視線に晒されていたことに気付いた。
なによ、あいつ。
少しも私が可哀想だとか思わないのかしら。
「春燕様、無理に話さずともよいのですよ。きっと、今は恐怖で混乱されているのです。大丈夫です。目撃した町の者が数名おりまして話は聞いております」
目撃した町の者? 従者に目を向けると彼は首を横に振った。こちらで用意した人間ではないということは、ほんとに見ていた者がいたことになる。
「そ、その者は何と言っていましたか?」
「女性の叫び声がして声のする方へ行くと、春燕様がイノシシに追いかけ回されていたと話していました。おそらくその恐怖で混乱されているのです」
「混乱、とはどういう意味かしら? 私は、泰然に襲われて……、そうだわ、その時どこからかイノシシが現れて、泰然と女は私を置いて逃げたのよ」
「なるほど……ところで、お召し物を替えられたのに、なぜ服が破け泥まみれなのですか? 目撃者の証言と服の色が違います」
「そ、そんなの……従者が勝手にやったのよ。もっと、もっと酷い有様だったから」
服の色が違うですって?
本当に使えない従者だわ。
どうして同じ色の服を用意しないのよ。
李峰は、それでも私に冷たい視線を向けて言った。
「わかりますよ。馬糞まみれとなれば、誰もが身体を清めたくなります」
どうしてそこまで知っているの。
身体を清めた時に借りた宿の者が、告げ口でもした?
李峰は全て知っていて初めから私の話を聞いていたの?
「……わ、私は公主よ! 舞姫よ! あなたは私を侮辱するの! もういい、父に話します。緑淵の県令が無能であることも、蘇泰然とその女を罰することも、あなたでは話にならないわっ」
町の馬鹿どもが何を言おうと、泰然が私を襲ったことを否定することはできないはず。イノシシに襲われたのは事実だとしても、その前に何があったかは私の証言次第よ。
「お待ちください。春燕様」
李峰は立ち去ろうとする私を慌てて止めた。
その余裕のない声からは、私が父へ告げ口するのを止めたいのだと、ひしひしと伝わってくる。
それなら初めから私に屈服して、言われた通りの行動をとればいいのに。
本当に無能な県令だわ。
李峰は私が振り返ると、思いがけない言葉を口走った。
「蘇泰然様からの証言も、ある方を通して預かっております。彼の話によると、先に手を出したのは春燕様だと聞いております。泰然様の連れの方が暴行され、取り返す過程で二名の従者を気絶させたと。そして、イノシシに襲われているところを放っておいたのは事実だとも聞いております」
泰然から話を聞いているですって?
じゃあ、もう捕らえているということ?
罪も暴露して、あの男も相当な馬鹿だったのね。
「ほら、私を置いて逃げているじゃない。蘇泰然は今どこにいるの?」
「雲龍国へと戻られました」
李峰は当たり前のように平然と言った。
「はあ!? どうしてそんな証言をした男を捕まえておかないの? 信じられないわ」
「イノシシに襲われている人間を助けられなかっただけで、罪に問うことは難しいのです。春燕様が逆の立場でしたら、助けますか?」
「助けるわけがないでしょう? 私は公主なのよ。守られるべきよ」
「なるほど、では泰然様も守られる立場の方になるでしょう。薬師としての蘇泰然様は、緑淵の救世主ともあろうお方です」
救世主だなんて大袈裟な。
そんな奴と私を同列にするなんて、どうかしている。
「そんなただの薬師なんて、公主であり舞姫の私よりも大切なはずがないでしょう?」
「ただの薬師ではございません。彼は雲龍国の皇帝陛下の弟である慧王のご子息です。比べるのは難しいということです」
「えっ、い、今、誰がなんて?」
「ですから、彼は雲龍国の慧王のご子息なのです。慧王は翡雲様と共に碧砂国に使者として何度もいらしています。ご存知ですよね」
「ええ……」
慧王なら知っている。あの方は文官の格好をした武人で、何も考えていないような朗らかな顔で全てを見透かす怖ろしい方だ。
雪燕の体の成長が止まり、あの娘に罰が当たったのだと浮かれていた頃、慧王に言われた事がある。
「穢れた心は己を滅ぼす。早々に捨て去り精進せよ」
それ以降、慧王のことを避けてきた。
目を合わすだけで心が読まれてしまいそうだったから。
その慧王の息子が、蘇泰然。
「では、父にこの話をすれば、蘇泰然は、私を娶らざるを得なくなるのかしら?」
「春燕様、今、何とおっしゃいましたか?」
「いえ、なんでもないわ。この件はもういいわ。あなたでは話にならない。行くわよ」
「はっ!」
慧王の息子なら、私に相応しいわ。
雲龍国へ嫁ぐ道が、翡雲様以外にもあったなんて、なんて幸運な巡り合わせなのかしら。
お父様に相談しましょう。
でも、お父様で大丈夫かしら。
お父様は、私より国益を優先させる。
慧王には頭が上がらないはずだ。
まずはお兄様ね。お兄様に相談しましょう。




