009 幸せな未来?
沈家から出ると、急いでこの町から立つと言って、泰然様は馬車を走らせた。
馬車に揺られながら、私はリウリーに尋ねた。
「泰然様のお父様って、偉い方なのかしら?」
『ん? 知らないわ』
「そう……私のせいで泰然様が碧砂国から罪人として追われてしまうかもしれない」
『あー、そういうこと? でも、死の谷にいれば大丈夫よ。碧砂国の人で解毒薬を持っている人はいないから、無法地帯よ』
確かに、あの谷に近づける者は居ないだろう。
私を谷へ捨てた御者の男の反応から見ても、それは確かだ。
「雲龍国での立場が悪くなるとか……そういうことはないのかしら」
『さあ? あ、馬車が止まった。屋敷はまだだけど死の谷に入ったから、もう誰も追いかけられないし……心配なことは本人に聞いたら?』
リウリーの言葉通り、泰然様は心配そうな顔で簾をめくると、馬車の後ろから中へと入ってきた。
「泰然様……」
「馬車の中の声は、よく聞こえているんだ。俺の立場が悪くなるとか、雲龍国で、君が心配するようなことは一切ない」
「本当ですか? でも、碧砂国では違いますよね。私のせいで」
「別に構わない。君が無事なら、俺は罪人にでも何にでもなっていい」
「えっ……」
私の膝の上で休んでいたリウリーは腕をすり抜け馬車を降りていった。
泰然様はさらに言葉を続けた。
「雪燕の悪評を聞く度に、それは違うと叫んでしまいたくなる。君が辛ければ俺も辛い。傷つく姿は見たくないし、君を傷つける奴を見ると、我を忘れてしまうほど、怒りでおかしくなる」
奥歯を噛み締め、拳を震わせ、泰然様は悔しそうにそう言った。泰然様には、いつも笑っていてほしいのに。
「私のことで、心を痛めないでください。私は大丈夫です。泰然様が、そう思ってくださるだけで、十分なんです」
「本当に俺だけでいいのか?」
「えっ?」
泰然様以外、とは誰のことだろう。
リウリー、それとも……。
「君が雪燕に戻らないことはわかっている。君が戻れば、新しい舞姫の立場を奪いかねない。君は優しいから、あの女に申し訳ないとも思ってしまうのだろう?」
「それは……はい」
やはり泰然様には見透かされている。
どうして心の内を分かってくれるのだろう。
「ただ似ているということだけで、今日のようなことになったのだ。君の命が危険にさらされることは間違いない。だから、公主であることを捨て、碧砂国と縁を切るべきではあると思う。だが……翡雲とは、本当にこのままでいいのか? 昨日のあいつの言葉を君も聞いただろう?」
「はい、私も、心苦しいときがあります」
泰然様の言う通りだ。
翡雲様には打ち明けたほうがいい。
春燕のように、彼も雪燕の影に縛られ続けている。
今まで嘘をついていた分も、全て謝って、そして、雪燕を忘れてほしい。
そして、幸せになってほしいから。
「あいつなら、君に新しい戸籍を作ることもできる。密仙国との婚姻は避けられないだろうが、側室として翡雲の側にいることもできるはずだ」
泰然様は、今なんと言ったのか、一瞬で頭の中が真っ白になった。
側室? 翡雲様の側に?
そんなこと、私は望んでいない。
公主という立場を捨てたのに、そこに居座ることはするべきではないし、私には翡雲様との未来は見えないのだから。
これは、泰然様がそうしてほしい、ということだろうか。
「それは…………これ以上、泰然様のそばに、いないほうがいいということですか?」
「それは違う。君の笑った顔を見れば心が安まるし、舞う姿は美しくて魅入ってしまう。それに、君の発言にはいつも助けられている。そんな、ただ普通の毎日を君とずっと一緒に過ごしていきたい」
泰然様は私を見つめて早口でそう言ったあと、瞳を泳がし、徐々に顔を赤らめていった。
「ずっと?」
「ち、違う。違くはないのだが、俺が言いたがったのは、君は翡雲と……幸せになる未来があると伝えたかった。ただ、それだけだ。──今日は辛いことがあったのに、困らせてばかりで申し訳ない。気持ちが落ち着いてから、ゆっくり考えてくれ」
泰然様は、礼をするといそいそと御者の席に戻っていった。
幸せになる未来。私のためを思って考えてくれたんだ。
よかった、嫌われたんじゃない。
そうか、私は泰然様に嫌われたくない。
でも、嫌われたくないだけじゃない。
ずっと一緒に過ごしていきたい。
その言葉が何度も頭の中をぐるぐるしている。
嬉しかった。私もそうしたいと、心の中から言葉が溢れてしまいそうになった。
でも、今はその言葉を口にしてはいけない。
泰然様が言ってくれたように、ゆっくりと考えなければならない。
馬車が走り出すと同時に、リウリーが乗り込んできた。
『なになに? 告白でもされた~?』
「違うわ。もう、どうせ聞いていたのでしょう?」
『え? 何も知らないわよ~。ただ、泰然がスモモみたいな真っ赤な顔をしていたのは見たわよ~。雪燕も、だけどね!』
「もう、からかわないで」
上機嫌のリウリーの言葉を流しつつ、屋敷に戻るまでに火照った顔を冷ますことに専念した。




