2.「駅構内での迷惑行為はご遠慮ください」
眼が覚めたのは翌日の早朝の頃である。
メロスは跳ね起き、しまった寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。
きょうはぜひとも、あの店長に、人の信実の存するところを見せてやろう。
そうして笑って事務所に行ってやる。
メロスは、悠々と身仕度をはじめた。
雨も、いくぶん小降りになっている様子である。
身仕度は出来た。
さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
メロスは傘をさすのを忘れていた。
メロスは、あまり賢い男ではなかった。
私は、今宵、法外な料金を支払わさせられる。
金を払うために走るのだ。
身代りの友を救うために走るのだ。
店長の金への執着を打ち破る為に走るのだ。
走らなければならぬ。
そうして、私は金を払わされる。
若い時から名誉を守れ。
さらば、貯金。
若いメロスは、つらかった。
幾度か、立ちどまりそうになった。
えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。
まわりの人たちが、危ないものを見るような目でメロスのことを見た。
家を出て、信号を横切り、陸橋をくぐり抜け、駅に着いた頃には、雨もやみ、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。
メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや貯金への未練は無い。
私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。
金はまたバイトをすればよい。
まっすぐに店に行き着き、金を払えば、それでよいのだ。
そんなに急ぐ必要も無い。
ゆっくり行こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
周囲の人間が、迷惑そうな表情でメロスを見た。
乗車券を買う。
しかし思わぬ災難がメロスに降りかかる。
人身事故である。
ダイヤが混乱し、電車は止まってしまっていた。
メロスは駅構内にうずくまり、男泣きに泣きながら駅員に手を挙げて哀願した。
「ああ、再開したまえ、運転を! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、店に行き着くことが出来なかったら、あの良い友達が、私のために金を払わねばならぬのです」
駅員は、迷惑そうな表情を崩そうともせず、メロスに行った。
「駅構内での迷惑行為はご遠慮ください」
そうして時は、刻一刻と消えて行く。
どうする、タクシーを使うか。
いやしかし、タクシーはちと高い。
メロスは覚悟した。
走るより他に無い。
ああ、神々も御覧あれ!
運行見合わせにも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。
メロスはタクシー代をケチった。
メロスは叫びながら、新宿へと走り出した。
近くの親子連れが、腐ったゴミでも見るような目でメロスを見た。
満身の力を脚にこめて、押し寄せひしめく人の流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、周囲の人間も哀れと思ったか、ついに声をかけてきた。
「あの……、頭のお医者さんを紹介しましょうか」
メロスは無視すると、すぐにまた先を急いだ。
一刻といえども、むだには出来ない。
陽は既に西に傾きかけている。
ぜいぜい荒い呼吸をしながら道を走り、コンビニの前まで来て、ほっとした時、突然、目の前にチンピラが躍り出た。
「待て」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに店へ行かなければならぬ。放せ」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け」
「私には店に払う金の他には何も無い。その、金をこれから店長にくれてやるのだ」
「その、金が欲しいのだ」
「さては、店長の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」
チンピラたちは、ものも言わず一斉に拳を振り挙げた。
メロスはひょいと、からだを折り曲げ、近くの一人に襲いかかり、その身体を押さえつけて、「気の毒だが支払いのためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って横断歩道を渡った。
一気に走り続けたが、さすがに疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。
立ち上る事が出来ぬのだ。
天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、人波を泳ぎ切り、チンピラを三人も撃ち倒し、ここまで突破して来たメロスよ。
真の勇者、メロスよ。
今、ここで、疲れ切って動けなくなるとはなさけ無い。
愛する友は、おまえを信じたばかりに、貯金を失わなければならぬ。
おまえは、稀代の金の亡者、まさしく店長の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身が萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。
路傍の電柱にごろりと寝ころがった。
犬の糞を背中にひいてしまった。
身体疲労すれば、精神も共にやられる。
もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。
私は、これほど努力したのだ。
約束を破る心は、みじんも無かった。
神も見ていた、私は精一杯に努めて来たのだ。
動けなくなるまで走って来たのだ。
私は不信の徒では無い。
ああ、できる事ならATMに立ち寄って、私の貯金をお目に掛けたい。
バイトだけで稼いでいるこの貯金を見せてやりたい。
けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。
私は、よくよく不幸な男だ。
私は、きっと笑われる。
私の妹も笑われる。
私は友を欺いた。
中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。
ああ、もう、どうでもいい。
これが、私の定った運命なのかも知れない。
芹菜定介よ、ゆるしてくれ。
君は、いつでも私を信じた。
私も君を、欺かなかった。
私たちは、本当に良い友と友であったのだ。
一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。
いまだって、君は私を無心に待っているだろう。
ああ、待っているだろう。ありがとう、芹菜定介。
よくも私を信じてくれた。
それを思えば、たまらない。
友と友の間の信実は、この世で一番誇るべき宝なのだからな。
芹菜定介、私は走ったのだ。
君を欺くつもりは、みじんも無かった。
信じてくれ!
私は急ぎに急いでここまで来たのだ。
人波を突破した。
チンピラの囲みからも、するりと抜けて一気にコンビニ前まで来たのだ。
私だから、出来たのだよ。
ああ、この上、私に望み給うな。
放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。
私は負けたのだ。
だらしが無い。
笑ってくれ。
店長は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。
おくれたら、身代りに払わせて、私を助けてくれると約束した。
私は店長のぼったくり商法を憎んだ。
けれども、今になってみると、私は店長の言うままになっている。
私は、おくれて行くだろう。
店長は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。
そうなったら、私は、死ぬよりつらい。
私は、永遠に裏切者だ。
地上で最も、不名誉の人種だ。
芹菜定介、君だけは私を信じてくれるにちがい無い。
いや、それも私の、ひとりよがりか?
ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。
家には私の妹がいる。
バイトもある。
正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。
人を騙して自分が生きる。
それが人間世界の常道ではなかったか。
ああ、何もかも、ばかばかしい。
私は、醜い裏切り者だ。
どうとも、勝手にするがよい。
四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。




