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3.「いまごろは、あの男も、ケツの毛まで毟られてるよ」


 ふと耳に、ちょろちょろと水の流れる音が聞えた。

 そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。

 すぐ足もとで、水が流れているらしい。

 よろよろ起き上って、その音に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。

 水を両手ですくって、一口飲んだ。

 ウゲッと大きな声を出して、夢から覚めたような気がした。

 水は犬の小便であった。

 すぐ近くで飼い主が、目を丸くしていた。

 犬はかまわず放尿し続けている。

 飼い主は見てはならないものを見たと言った感じで、犬を引きずって逃げるようにその場を離れた。

 メロスはひとしきり嘔吐した。

 歩ける。

 行こう。

 肉体の疲労回復と共に、わずかながら希望が生れた。

 義務遂行の希望である。

 わが貯金を崩して、名誉を守る希望である。

 斜陽は赤い光を、ビルの窓に反射し、燃えるばかりに輝いている。

 日没までには、まだ間がある。

 私を、待っている人があるのだ。

 少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。

 私は、信じられている。

 私の貯金なぞは、問題ではない。

 私は、信頼に報いなければならぬ。

 いまはただその一事だ。

 走れ! メロス。

 私は信頼されている。

 先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。

 悪い夢だ。

 忘れてしまえ。

 五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。

 メロス、おまえの恥ではない。

 やはり、おまえは真の勇者だ。

 再び立って走れるようになったではないか。

 ありがたい!

 私は、正義の士として支払いが出来るぞ。

 ああ、陽が沈む。

 ずんずん沈む。

 待ってくれ、太陽よ。

 私は生れた時から正直な男であった。

 正直な男のままにして下さい。

 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。

 屋台での気の早い酔っ払いの、その飲み会のわきを駈け抜け、酔っ払いの人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、信号を無視し、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。

 水商売と思わしき女の一団とすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。

「いまごろは、あの男も、ケツの毛まで毟られてるよ」

 ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。

 その男を死なせてはならない。

 急げ、メロス。

 おくれてはならぬ。

 愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。

 風態なんかは、どうでもいい。

 メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。

 周囲の人間が、ざわついているのがわかった。

 メロスを呼び止める声も聞こえる。

 呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。

 見える。

 はるか向うに小さく、店の看板が見える。

 看板は、電光を放ちきらきら光っている。

「ああ、メロス君」

 うめくような声が、風と共に聞えた。

「誰だ」

 メロスは走りながら尋ねた。

吹田虎郎ふきたとらろうでございます。貴方のお友達芹菜定介のフリーター仲間でございます」

 その若いフリーターも、メロスの後について走りながら叫んだ。

「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません」

「いや、まだ陽は沈まぬ」

「ちょうど今、あの方が支払いをさせられるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「いや、まだ陽は沈まぬ」

 メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。

 走るより他は無い。

「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分の預貯金が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。事務所に連れていかれても、平気でいました。店長が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました」

「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。金も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! 吹田虎郎」

「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい」

 言うにや及ぶ。

 まだ陽は沈まぬ。

 最後の死力を尽して、メロスは走った。

 メロスの頭は、からっぽだ。

 何一つ考えていない。

 ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。

 陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く事務所に突入した。

 間に合った。

「待て。その人から金をとってはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」と大声で事務所の人間にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、黒服の怖い人たちは、ひとりとして彼の到着に気がつかない。

 すでに財布は店長の手にあり、金が抜き出されようとしていた。

 メロスはそれを目撃して、先刻、人波を泳いだように黒服たちをはねのけ、「私だ、店長! 支払うのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一杯に叫びながら、ついに店長の目の前に行き、芹菜定介の財布にかじりついた。

 黒服たちは、どよめいた。

 あっぱれ。

 ゆるせ、と口々にわめいた。

 芹菜定介の財布は、返されたのである。

「芹菜定介」

 メロスは眼に涙を浮べて言った。

「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」

 芹菜定介は、すべてを察した様子でうなずき、事務所一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。

 殴ってから優しくほほえみ、「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない」

 メロスは腕にうなりをつけて芹菜定介の頬を殴った。

「ありがとう、友よ」

 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 店長手尾は、黒服の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。仲間にしてくれたら、サービス券をつけてやろう」

 メロスと芹菜定介は、歓声を上げた。

「万歳、店長万歳」

 事務所に一人の娘が入ってきて、青いジャケットをメロスにかけた。

 その娘は、ついでに手錠をメロスにかけた。

 メロスは、まごついた。

 良き友は、教えてやった。

「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。そりゃ捕まるよ。この可愛い婦警さんは、裸体の男が街を走り回っているとの通報を受けて、わざわざ出動してきたのだ」

 勇者は、警察に連れていかれた。


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