第9話 ちょっとだけ目閉じてくれない?
久しぶりに訪れた水族館は、思っていたよりも楽しかった。
子どもの頃に来たときにもあった展示が残っていたら懐かしくなったし、見たことのない珍しい魚が泳いでいたら、つい足を止めてしまった。
「せっかくだから、なんか買って帰ろうよ」
展示コーナーを抜けると、渋谷さんが私の腕に触れてきた。
私たちの目線の先にあったのはお土産コーナーで、大きなジンベエザメのぬいぐるみがゆったりと横になっていた。やっぱり水族館の目玉なだけはある。
渋谷さんに頷いてから、私たちはお土産コーナーへと足を踏み入れた。
子どもの頃はお母さんに一番大きなジンベエザメのぬいぐるみを買ってもらうようにねだったけど、中くらいのものしか買ってもらえなかった。
じゃあ今になって、昔は買えなかった大きなジンベエザメのぬいぐるみを買いたいかと言えば、別にそんなことない。
家まで持って帰るのが大変そうだから、手に収まるサイズくらいのほうがいい。
「なんかいいのあった?」
ジンベエザメのぬいぐるみを眺めていると、渋谷さんに声をかけられた。
「今のところはあんまり」
「そっか。これとかどうかなって思ったんだけど」
そういって見せてきたのは、クラゲのアクリルキーホルダーだった。
淡い水色の胴体をしているけど縁は金色にかたどられていて、お店の照明を受けてキラキラと反射している。
実物とは違って足が短いから、どこか幼くて可愛い印象だ。
「いいじゃん。それにしよう」
「オッケー」
キーホルダーをひとつ受け取り、レジで会計を済ませてから店を出た。
用を済ませて水族館を出ると、すでに日は沈んで薄暗くなっていた。
過ごしやすい気温になっていて、私たちの間をそよ風が吹き抜ける。
そしてバス停に着いて少し待つと、迎えの便がゆっくりと走ってきた。
すぐに乗り込んで私が窓側、渋谷さんが通路側の二人掛けに腰を下ろすと、出発のアナウンスが狭い空間に響いて車が動き出した。
がたごとと車内が揺れるから、たまに渋谷さんと身体がぶつかってしまう。
乗客が私たちだけしかいないなら、もっと広く使ってもよかったかもしれない。
そんなことを考えていると、渋谷さんが「そういえばさ」と口を開いた。
「今日はなんで水族館に誘ってくれたの?」
聞いてなかったけど、と呟いてこちらに顔を向ける。
渋谷さんは少し真面目そうな表情をしていた。
窓の外を見てから視線を元に戻す。
「ほら、渋谷さんって私の好きなところに行こうって言ってたじゃん」
「うん。言ったね」
「それで色々考えたんだけどさ、自分から行きたいって思えるほど好きな場所って思い浮かばなかったんだよね」
そこで言葉を切る。
渋谷さんは何も反応せずに続きを促してきた。
「ひとりで行きたいってほどではないけど、渋谷さんと一緒になら行きたいなって思ったのが水族館だったから、誘った感じ」
「……一緒なら、ね」
「そっかぁ」と小さく呟いて、渋谷さんは唇をきゅっと内に巻き込んだ。
暗くなった窓の外を眺めて、反射する彼女の横顔を覗き見る。
唇を丸めているけれど、渋谷さんの口角が柔らかく上がっているのがわかった。
すっと差し込まれた穏やかな沈黙は、バスの揺れる音で少し和ぐ。
「……いつものやっていい?」
少し経ってから、私の服をくいくい引っ張ってきた。
今日は家に来る予定がないから、乗客のいないバスでしようということだろう。
家以外でするのは身構えてしまうけど、誰にも見られないのであれば問題ない。
そう思って、いいよ、と頷いた。
「……ちょっとだけ、目閉じてくれない?」
「なんで?」
「……なんとなく」
「まあ、いいけど」
そう呟いてから、私は目を閉じた。
一瞬だけ真っ暗になったものの、照明が瞼に透けて少し眩しい。
視覚がなくなった分、バスの揺れる音がやけに耳に届くようになった。
思い出したかのように、キーホルダーが鞄の中で転がる。
「目、つぶってくれた……?」
「うん」
不安そうに聞いてくる渋谷さんに頷くと、深呼吸をする音が耳に入った。
いつまで経っても、抱きしめられるような感覚は生まれない。
その代わり、小さな呼吸音は聞こえた。
太ももを擦るような衣擦れの音もする。
何をしてるんだろう。
それでもずっと目を閉じていると、何かが唇にそっと触れた。
音で表現するなら――ふにっ。
今まで感じたことのない、やけに柔らかなものだった。
何に似ているのか考えてみても、すぐには思い浮かばない。
答え合わせをするように目を開くと、至近距離に渋谷さんがいた。
わずかに揺れる瞳。
ほんのり赤く染めた頬。
そして、唇に残っている柔らかさ。
それらがひとつにつながって、ようやく理解した。
――どうやら私は、渋谷さんにキスされたらしい。




