第28話 私とセックスしたくせに
二学期に入ってから、どうも気分が優れない。
今は四時間目の授業中。
どちらかと言えば得意な英語の授業を、右から左へと聞き流してしまう。
もっと集中したいのに、私の頭が全く別のことに意識を向けてしまっていた。
「はぁ……」
誰にも届かないため息を吐いて、シャーペンの先端で教科書をなぞる。
柔らかな教科書の紙面を抉って、薄っすらと線が浮かんだ。
元に戻そうと紙を撫でても、生まれた線が消えることはない。
だから私は黒板に視線を戻した。
それはそれで、あの子が間接視野に入ってきて気になるのだけれど。
なるべく黒板に焦点を合わせて、視界の隅にいた渋谷さんを追い出した。
渋谷さんの家を出て行ってから、私たちは一言たりとも会話をしていない。
メッセージのやり取りもぱたりと止まったし、学校にいるときも目が合うことがなくなったしで、完全に赤の他人になったような感じがする。
キスマークも三日もしないうちに消えた。
あの日の帰る道中は人と会わなかったから首筋に残ったキスマークは見られなかった。親とご飯を食べるときに見られないようにと思って、跡が残っている間はひとりでご飯を食べたし、誰かと会わないように気を付けた。
そういう生活をしていると、身体に残っていたキスマークは薄れていった。
そうなってようやく、自分の身体が元に戻ったような感覚があった。
「……」
下唇をぎゅっと噛んで、大して面白くない授業に耳を傾ける。
英文は理解できるけど、意味を考えようとまでは思わなかった。
だから、流れるままに授業を受け続ける。
あの子の家を出てから、私は色々考えた。
渋谷さんの部屋にいるとき、私はセックスしたことを別にどうでもいいことだと思っていた。渋谷さんとそういうことをするのは私にとって大したことじゃないって。
でもそれは完全に私の強がりだった。
何も気にしていない自分を演じようという自己欺瞞。
あのとき、私は本気で渋谷さんのことを止めるべきだった。
それくらい、私はあの日のことを後悔している。
居心地のよかった関係が、性行為で薄っぺらくなったことが本当に嫌だった。
私はキスやハグをすることが好きだったし、今でも好き。
でもそういう触れ合いは、境界線を引いていたからためらいなくできた。
私たちが花火大会の夜に境界線を越えてしまったことで、キスやハグといった少し密な触れ合いが、全部セックスと繋がった。
ゴールを与えられたことで、行為に新しい意味付けをされてしまったのだ。
それが本当に不愉快だった。
私はそんなつもりじゃないのに。
「二宮ー、ご飯食べよー」
もやもや考えていると、寺島さんがふらりと近づいてきた。
いつのまにか英語の授業が終わっていたみたいだ。
いったん思考を切り替えて、寺島さんと一緒にご飯を食べることにした。
お弁当箱を開けて、お母さんが作ってくれた料理を無心で頬張る。
ペットボトルを傾けた傍らに対角線上に陣取っている女の子たちグループを見てみると、その中にいる背の低い女の子は購買のパンに口をつけていた。
その表情には、柔らかな笑みが浮かんでいる。
……笑えるんなら、もっと遠慮せずに近づいてきてよ。
そんなじめじめした言葉は、白米とともに飲み込んだ。
熱に浮かされていたからといって、私は誰とでもセックスするわけじゃない。
渋谷さんだったから、私は自分の身体を委ねたのだ。
もし他の誰かに迫られたら、私は躊躇せずに距離をとる。
そして二度とその人の近くにいないように用心するはずだ。
でも私は渋谷さんにそういうことをしなかった。
最初は肩を押して注意したけど、最終的には受け入れた。
そこには信頼関係というか、渋谷さんに対する想いがある。
セックスした後でも、その気持ちは変わらない。
でも、私たちの関係性は変わってしまった。
「……はぁ」
ため息を吐いて、箸を弁当箱の隅に置く。
「なに二宮、体調悪いの?」
「ちょっと悪いかも」
寺島さんに返事すると「水たくさん飲むといいらしい」とアドバイスをしてきた。
真偽は定かではないけど、今は素直に従っておこう。
大して渇いていない喉にミネラルウォーターを流し込む。
勢いよく入って、身体の底にどんどん沈み込んでいく。
「どう、気分よくなった?」
「そんなすぐにわかるものじゃなくない?」
それもそうか、と言って寺島さんは食事を再開した。
綺麗な形をした卵焼きは、彼女の口に飲み込まれていく。
それから私たちは食事を終えて、寺島さんも自分の席に戻ったから、昼休みをひとりで過ごすことになった。
ひとりでいると、意識しなくても話し声が耳に入ってくる。
そこにはもちろん渋谷さんもいて、愛想のいい返事をしているようだ。
……私とセックスしたくせに。
そんなこと考えても仕方ないことはわかっている。
でも遠くにいる渋谷さんのことが妬ましかった。
だって私のそばにいないじゃん。
手の届かないところにいないでよ。
そんな我儘な気持ちは、一度でも芽を出すと止まらなくなる。
私はもう許してるのに、なんで渋谷さんは近づいてこないの。
セックスするの迫ってきたからって、勝手に加害者面しないでよ。
気まずそうに目を逸らすのも嫌い。
私が悪いことしたみたいな気持ちになるから
あんなにキスマークつけたのに、そんな簡単に私のこと捨てないでよ。
渋谷さんにとって私ってそんなどうでもいい人だったの?
「……意味わかんないんだけど」
本当に意味が分からない。
渋谷さんがよそよそしいことも。
私がこんなにイライラしてしまっていることも。
そしてその苛立ちは、思わぬ形で爆発することになった。
声がしたのは、私の席から対角線上にいる前方で廊下側の方向から。
グループの中でも明るいタイプの女の子が口を開く。
「今日さ、久しぶりに遊びに行かないー?」
みんな部活ないでしょ? と言うと、グループの子は頷いた。
帰宅部の渋谷さんも、当たり前のように頷く。
「じゃあ今日、授業が終わったらカラオケに行くってことで良い?」
「いいよー」
私の視線の先にいた女の子は、ためらうことなく頷いた。
その表情にはまだ、柔らかな笑みが浮かんでいる。
……は?
いや、なにそれ。
意味わかんないんだけど。
そっちは友だちと遊びに行かないでほしいって言ってたじゃん。
私に特別扱いされたくって、他の子と一緒にしてほしくないって。
それなのに、自分は他の人と遊びに行くんだ。
そんなの、ナシでしょ。
それは違う。絶対違う。
だって渋谷さんは――
「――ねぇ、渋谷さん」
怒りに駆られたのか、気が付くと席を立って渋谷さんの肩に手を置いていた。




