第74話『光の創め17---正答者たち---』
“――――――”
「ねえルーツ。世界が平和になったらしたいことある?」
砂の世界。
複数人の男女が、砂風に煽られる焚火を囲っている。
男が、焚火に枯れ木を優しく投げ込んだ。
焚火は揺らぎもせず、枯れ木はすっぽりとはまるように火の中に溶け込んだ。
「急だな。どうしたよ、こんなときに」
「こんなときだからよ。ほら、もう旅が終わる」
大人びた女性は、砂塵の向こうに聳える、巨大な城の影を、目を細めて見据えていた。
長い旅の、終着地だ。
「私はねえ、今はお洋服屋さんになりたい気分かなあ。ほら、私ってセンスいいし。流行ると思うんだ」
「あんたに訊いてないわよ。それにあんたが経営なんかしたら3日で潰れるわ」
「なんだとこのへたれ女!」
「誰がへたれですって!? 人生舐めてるあんたが店なんか経営できるはずないでしょ!」
「い、いざとなったらみんなが助けてくれるし! は、……はず」
落ち着きのない女性はいきり立つも、不安そうに周囲に周囲の顔を伺っていた。
「ふ、ふたりとも落ち着いてよ。そ、そうだ。こんなときは、将来のこと、私が占ってあげるね?」
「当たった試しがないでしょうが」
「つ、次は当たる。……そう占いで出たよ?」
「……それよりドラクラスは? 中の方が安全でしょう」
「今日は出さぬが吉、だって」
「…………」
大人びた女性は、おどおどした女性に呆れた表情を浮かべ、面々を見渡した。
「……改めて見てもどうなってんのよこいつら。馬鹿に詐欺師。極めつけはイカれた犯罪者って、3徹の運命の神様が居酒屋で考えたのかしら?」
「馬鹿!?」
「詐欺師……」
ひとりがいきり立ち、ひとりが落ち込んでいると、じっと男の顔を見つめていた、無表情の女性が、ゆっくりと顔を向けた。
「イカれた犯罪者……、私のことを言っているのですか?」
「ひっ、…………ス、スキンシップですよスキンシップ! いやあ、こういう軽口が叩けるほど仲良くなれて私幸せです!」
無表情の女性は、僅か首を傾げ、また男の顔をじっと見つめ始めた。
「ルーツ、ルーツ。その女にちゃんと首輪付けてんでしょうね?」
「はは、怖いなら噛みつかなきゃいいのに」
こっそり耳打ちしても、適当に流された大人びた女性は、びくびくと、また男の顔をじっと見る無表情の女性を盗み見ていた。
「……でもいいな、こういうの。将来、か。……皆はやりたいことかあるのか?」
男が微笑み、何気なく、ぼんやりとした女性に視線を向けた。
彼女はじっと考え込み、考え込み、考え込み続け、最後に両手で頬を挟んで、照れ臭そうに笑った。
「へえ、いいじゃないか」
「うん、私も手伝うよ。無計画なお洋服屋さんよりずっといいと思う」
「ルーツとそこの詐欺師はどうしてあの娘の考えていることが分かるのかしら……」
「待って今何か聞こえた!」
愉快そうに笑う男を見て、大人びた女性がまた呆れた表情を浮かべ、暖かな息を吐いた。
このルーツという、傍からはただの一般人に見える男が、自分たちの中心。
彼女は、この旅の中、幾度も感じてきたことを、また感じていた。
「……ところで、あんたはどうなの? ずっと黙っているけど」
ルーツの言葉で、ふとした思い付きから全員に聞くようになってしまったようだ。
大人びた女性が、輪から離れ、じっとしているマスクの女性に視線を投げた。
「話は聞いてたよ。こんな場所で話して喉痛めたくなかっただけ。……やりたいこと、ね。あんまりないかな。……そうだ。強いて言えば、だけど」
マスクの女性は考えながら、両手を胸の前で向かい合わせた。
「まず、村ひとつ分くらいの大きさでいいから、コンサートホールを建てます」
「まずの強欲さよ」
「そこで思いのまま歌いたいかな。……あ、ごめん、そういうつもりじゃ」
「……」
「気にしないでって、って言ってるよ。ぜひ聞かせて欲しいって。私も聞かせて欲しいな、お客さん、いっぱい入るといいね?」
「お客さんなんて要らないよ。私は歌えるだけで幸せだから」
「私たちは聞いてあげるわ。それで、どこに建てるとかも考えてるの? 故郷?」
「恥ずかしいけど前に商業都市の近くでいい土地見つけてたの。近くに富裕層が多くて、税金も安い」
「尻尾出しやがったな」
大人びた女性は呆れ果て、視線を泳がすと、たまたま無表情の女性と目が合ってしまった。
「私、ですか。……私は静かな村で暮らしたいです。大勢の子供たちに囲まれて、のんびりと」
「あーら、あんたのことだからそんなつまらない感じじゃなくて、もっと派手なこと考えてるのかと思った」
「今、私とルーツ様の夢をつまらないと……?」
「…………わ、私も聞こえました今! 誰!? ふざけやがって! 安心してください、私が見つけ出して締め上げておきますから!」
焚火が、ぱちりと音を立てた。
枯れ木も少ない。
間もなく、向かうことになる。
「てか、あんたはどうなんだし。大層な夢があるってこと?」
「……う」
落ち着きのない女性に聞かれ、大人びた女性は、最後の枯れ木を焚火に静かに入れる。
視線を外し、口元を歪め、か細い声を出した。
「……子供欲しい」
「へ? ……って、あんたも、同じじゃな、い。てか。か、かわい。どしたん急に」
「う、うるさいわね、いいじゃない! そ、それも完璧な子。あんたと違って賢くて、誰よりも強い、立派な子供に育ててみせるわ!」
「何だと!」
喧噪の中、焚火が徐々に収まり、次第にくすぶる。
男が、風向きを気にしながら炭を優しく踏み潰した。
「……よし。じゃあそろそろだな」
「分かった、けど。ルーツ。あんたのやりたいことは? 最初はあんたに聞いたのに。馬鹿の横槍で全員に聞く羽目になっちゃったじゃない」
「このっ、」
「立てる? うん、行こう。ふたりの下らない小競り合いももうすぐ見納めかと思うと寂しいよね」
「私怒るつもりだったんだけど、なんか聞こえて掻き消えた」
「……って、言ってるよ?」
「ぶんぶん首を振っているけど!?」
いつもの調子の騒ぎの中、男は、大人びた女性を見据え、そして面々を見渡した。
今からこの旅は、終わる。終わらせる。
男は、ゆっくりと、口を開いた。
「俺、か。……そうだな。俺は―――」
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
“―――***―――”
「……。…………」
ヒダマリ=アキラが目を覚ますと、酷い雨音に出迎えられた。
身体中がぐっしょりと汗をかいている。
しかし不快感はあまり覚えなかった。頭が妙に軽い。
ここはアキラがこの数日過ごしている、ネーシス大運河の近辺に建てられた“村”である。
あてがわれた宿泊用の建物は、横になっただけでもいっぱいになるほど窮屈な小屋だ。
あれから身体を休めることになって、それでもひとりでいると落ち着かず、遠視をしようと色々試していたが、結局眠ってしまったらしい。
また妙な夢を見ていたような気がするが、やはり、不快ではなかった。
「“いや、大丈夫だイスカ。今着替えてて。すぐ行くよ”」
アキラはぼんやりとしたまま、小屋の隅に置いたカバンを引き寄せる。
物に触れ、アキラは、ようやく自分が存在していることを思い出したような感覚を覚えた。
ここにいて、ここではないどこかにいるような、足元がおぼつかない感覚が、ほんの少しだけ薄れる。
見慣れつつある小屋の中の光景も、はっきりしてきた。
ほんの少しの覚醒と共に、改めて、この小屋が潰れかねないほどの豪雨の音が耳に届く。
着替えが無駄になるかもしれない。
だが、防具はしっかりと仕込んでおかなければ。
なにしろ今から。
「っ……」
眩暈がして、アキラは取り出した衣服ごと床に手を付いた。
ふと、手の感触に違和感を覚える。
着替えのズボンのポケットに、何かある。
「……ああ、そういやこれ」
昔、洗濯のときはポケットの中を取り出しなさいと叱られたことがある。
どうにも横着して、洗濯してもたまたまポケットが裏返らず、いつ入れたか忘れた十円玉が見つかったこともあった。
そんな追憶と共に、ポケットの中から出てきたのは小さな銀の指輪だった。
そういえばあのときはいていたのはこのズボンだったか。
以前ドラクラスで、犯罪者が祭りで騒ぎを起こしたことがあった。
その際何気なく拾ったのだが、色々あってポケットに入れたまま忘れていたようだ。
そういえば、あの頃からかもしれない。
妙な頭痛がするようになったのは。
「旦那様? 旦那様? 起きてます?」
そこで、小屋の扉がノックされた。
アキラは手の平に乗せた指輪をじっと見続ける。
もしこの感覚が嫌ならば、これを棄てればいいだけだ。
指輪自体、さほど特殊なものではない。だがそもそも、棄てるという行為に意味がある。
だが、今じゃない。
アキラは指輪を仕舞い、ゆっくりと立ち上がった。
直前まで自分が考えていたことが分からなくなる。消えたというより、“どこか”へ溶けて見えなくなったような奇妙な感覚だった。
「お休みのところすみませんが、カルド様が旦那様に御用があるとか。まだ具合悪いようなら、そう言っておきますけど」
汗ばんだ身体が、湿気も相まって鬱陶しい。
もっと身体を拭いてから着替えるべきだったかもしれない。
「……あの? 眠り込んでいるのかしら……。入りますよ?」
立て付けの悪い扉が音を立てる。
剣を背負ったアキラは、入ってきたイスカ=ウェリッドと正面から向かい合った。
「わ、びっくりした。起きてたなら返事くらいしてくださいよ」
「あれ、しなかったっけ」
「? 雨音で聞き逃したのかしら。……それで、具合は?」
「だから大して悪くないって。つい寝ちまってたみたいだけど」
「ふうん?」
青い瞳が訝しそうにアキラを探ってきた。
彼女のこういう表情は珍しい。
アキラは靄を払うように軽く頭を振った。
人と話して、より一層、意識がはっきりとしてくる。
「やっぱり私、断ってくるわ。寝てましたって言うだけだし。依頼もとっくに終わっているもの」
「大丈夫だって言ってるだろ。それで、何か起きたのか?」
「まあ、旦那様がそう言うならいいですけど。……この雨です」
酷い雨音が小屋を揺らす。
アキラはイスカと共に小屋の中から、空を見上げた。
一昨日から降るぞ降るぞと言われていた雨が、今日になってようやく降り出しているようだ。
「暗……、今何時だ?」
「まだ昼過ぎですよ。なんか急に降り出して、川が一気に増水しているらしいです」
「大事じゃないか」
「らしいですけど、私たちが事前に見回ったお陰で何とか持ち堪えているとか。ふふ、お給金が楽しみだわ……」
不謹慎な笑みを浮かべるイスカに呆れながらアキラが村を見渡すと、豪雨の中、木の蔦や葉で作られた雨合羽を纏う男たちが駆け回っていた。この村の管理を行うカトールの民だろう。
この村はネーシス大運河から引いた川が至る所に流れている。
増水しようものなら村ごと水没しかねない。
この辺りは雨量が少ないと聞いた覚えがあるが、天候は運否天賦だ。
「俺らも手伝えってことか。……つっても、何をすりゃいいんだろうな?」
「あ。私としたことが。この雨と関係あるか知らないですけど、おかしなことが起こっていて、多分そっちの方だと思います」
「?」
首を傾げようとしたところで、雨の向こう、こちらに走ってくる人影が見えた。
この村の依頼で世話になった、カトールの民の族長カルドと、『智の賢帝』シャロッテ=ヴィンテージだ。
「ゆ、勇者様! お休みのところすみません」
「だからカルド氏。アキラ氏は具合が……、……お目覚めのようですね。休めましたか?」
ずぶ濡れで駆け寄ってきたカルドが息を切らせる隣、シャロッテが申し訳なさそうに顔を伏せた。
嫌な予感がする。
「ああ、こんなときにのんびりしてて悪かった……。で、どうしたんだ? 俺らに手伝えることがあればいいんだけど」
「いや、村の方は事前に手を回していたから何とか堪えてますが……、あちらです。見えますよね?」
雨天を差すカルドの指の先には、猛々しい山脈が見えた。
ネーシス大運河は、あの岩山から落ちる滝によって生み出されている。
この辺りの雨量が少ないというのも、あの岩山の上空に雨雲が集中していたからなのかもしれない。
だが、その岩山の頂を見上げるアキラの目には、はっきりと、“空”が映っていた。
「……は? 何であそこだけ晴れてんだ?」
ここを訪れてから、あの岩山は、常に分厚い雨雲を纏っていた。
だが今、これだけの豪雨の中、あの場所だけが“晴れている”。
自然現象ではあり得ない。
いや、“今までがあり得なかった”と言うのがむしろ正しいのだろうか。
この豪雨は、あの分厚い雨雲が周囲に流れたから起こったように思えた。
「私もあの山のことは知っていますが、晴れたところを初めて見ました。……その、お疲れのところ申し訳ないのですが、あの滝の下にも重要な設備がありまして。警護強化をしたくてですね。その、異常気象なので」
「……カルド氏」
シャロッテがたしなめるような声色で言った。
流石にアキラでも分かる。
あの岩山で、今“何か”が起きている。それも人知を超えたものだ。
異常気象のせいで重要設備の点検の護衛、というなら普通の話だが、カルドは口を滑らせて、警護強化と言った。
その“何か”からその設備を守るというのが、アキラに頼みたいことなのだろう。
「分かった、行ってくる」
「ちょ、アキラ氏。……その、……ぐ」
ふたつ返事で答えたアキラに、今度はカルドが申し訳なさそうな顔を浮かべ、シャロッテが押し黙った。
カルドの立場も分かる。恐らく魔導士隊から言われたのだろう。
魔導士隊は触れにくい“勇者様”に、間接的にあの場所へ向かうように指示を出したかったのかもしれない。
シャロッテの考えたことも分かった。
こんな異常はあり得ない。
だが、事件の種を芽吹かせるアキラがこの場所に来て数日で起こったことだ。
そのふたつを結び付けるのは、賢人でなくとも出来るだろう。
そしてアキラは、それに立ち向かうと彼女に言っている。
そう、すべて分かる。
「……。…………。ぐ、う。勇者様。やっぱり、いえ。お、お願いします」
「旦那様、私も行きましょうか? なにか、変な感じしますし」
「何かどころじゃないでしょう。……こ、こうなったら私も同行します。何がいるか分かったものじゃないですが」
三者が、それぞれの言葉を発する中、アキラは大きく息を吐き出した。
自覚して、ポケットの中の指輪の感触が、妙に強まった気がした。
「いるからじゃない。“いなくなったから”こうなったんだ」
「……は?」
「でも、“いる”」
「……。…………こほん。カルド様。お聞きの通り旦那様は絶不調です。お引き取りを」
イスカが哀れみを帯びた視線を投げ、カルドから庇うようにアキラの前に出た。
そんなイスカの肩に手を置き、アキラは一歩前に出た。
「イスカ。シャロッテの護衛を頼む。シャロッテたちは、すぐに避難誘導だ。ここだけじゃない。全拠点の全員だ。今すぐ離れろ」
ああ、時間が惜しい。
「だん、な、様? ……え、ええと、ふ、ふふ。はい、申し付かりました」
イスカが青い瞳を輝かせ、背筋をピンと伸ばしてシャロッテに近づいた。
しかしシャロッテは当然、怪訝な瞳をアキラに向けていた。
「シャロッテ、頼む。すぐにだ。他の拠点は特に動きが鈍いだろ?」
「お、お言葉ですが勇者様、これくらいの雨であればまだ、」
「アキラ氏、なにを考えているんですか?」
カルドの言葉を遮ったシャロッテに、アキラは目を瞑った。
「時間が無い。魔導士隊にも言ってくれ。“勇者様の命令だ”―――全員死ぬな」
アキラはぎろりと岩山を睨みつけた。
今自分が口走った言葉すら、すでに記憶から抜け落ちるほどの激情を感じる。
いや、抜け落ちるというよりは、やはり、膨大な量の“何か”に溶けて消えていくような感覚だった。
しんと静まり返った面々の答えを待たず、アキラは雨の中歩き出した。
他者を気遣う余裕が無い。自分を戒めようと思うも、アキラのちっぽけな意思など“何か”に飲み込まれていく。
山までは距離がある。
カルドが手配した馬車で向かうことになる。
「ゆ、勇者様、その、伝え、ます。で、では、まずは馬車の方へお連れします。すでに準備は、」
「……あ、れ」
話の時系列が頭の中でぐちゃぐちゃになる。
その“何か”に押し流されかけたアキラは、辛うじて踏み留まり、固まったシャロッテとイスカに視線を投げた。
彼女たちが今考えていること。
意識を向けようとした途端、アキラが理解不可能な膨大な情報が頭を埋め尽くす。
ああ。
“スライク=キース=ガイロードが鬱陶しがるわけだ”。
「……シャロッテ、イスカ」
アキラはふたりに視線を向けながらも、“ここではないどこか”を見続けた。
最早何かを見ることすら苦痛になるが、この感覚は今手放せない。
これからこれを、“使う”ことになる。
「ここは任せた」
「は……、はい」
カルドに先導されながら、アキラは馬車へ向かう。
目指す先は、あの“晴れた”岩山の、巨大な滝が落ちる頂上付近。
いや、この行為の結末を目指すことになる。
やらなきゃいけない。“間に合わせなければならない”。
それでもこれは、些細なことだ。
自分が出来るのは、こんな小さな“貢献”くらいなのだ。
まったくもっていつも通りだと、ヒダマリ=アキラは雨の中、薄く笑った。
―――***―――
考えても分からないことを考えるほど無駄なことはない。
マルド=サダル=ソーグはそう考える。
分からないことから考えるのは、考えている“ふり”をしているだけだ。
そんなことをしているくらいなら、自分の分かる範囲に誠心誠意向き合い、今自分が出来ることを死に物狂いで考えるべきである。
そしてそうすることで初めて、次の道が見えてくる。
目の前のこと、そして自分自身に、真摯に向き合った者は、それを足掛かりに、理外にすら向き合えるように、自然となるのだ。
未知の領域に踏み込む手順を誤ってはならない。
理解できる範囲を完全に潰し切ることから始まるものを思考と言い、それこそが、理外の領域に踏み込む堅牢な足場となるのだ。
世界には難題が溢れており、人知の及ばぬ現象ももちろんある。
しかし数多の賢人たちは、その人知の及ばぬ領域を縮小するために、まず自分の分かる範囲の答えを固めた上で、未知の世界を開拓しようと日々奔走しているのだ。
しかし、マルド=サダル=ソーグの思考は、目の前の理外に引きずり込まれた。
「フリオール!!」
マリサス=アーティが、大きな“杖”を、振るう。
『数千年のひとりの天才』が、特別な意識も持たぬまま、超常現象を現出させていた。
突如出現した巨龍、『明日の影』が“環境”を支配する天空の世界。
拠点周囲の環境が暴れ、気圧や気温がめぐるましく変化していた。
いや、マルドが推測できるのは、“しているはず”、という程度である。
『明日の影』の“環境変化”のアップデートがあるたび、マリスは拠点を覆い尽くす銀の魔法を再展開していた。
このフリオールという月輪属性の魔法は、マルドの理解では“選択遮断”だ。
可能不可能の定義など勿論無いが、術者の指定した事象を拒絶できる。
マリスは『明日の影』の生み出す悪しき“環境変化”という事象の遮断を、拠点規模で行っていた。
結果、“未だ常識的”な豪雨などは地上に被害をもたらしているが、より致命的な急激な気温気圧の変化や空気の変質などは地上に影響していない。
マリスと『明日の影』は、環境の支配権を奪い合うが如く互いの魔法の打ち消し合いを続けていた。
環境の支配権という概念自体や、魔法の精度、そしてそもそも完全な飛行と、どれひとつとってもマルドの理外である。
彼女が行っていることは、“不可能”だ。
同じ月輪属性だからこそ、他の者よりも彼女の異常性が際立って見える。
マリスが地上ほど環境変化を押さえていないらしいこの天空で、マルド自身も選択遮断の魔法を使っているが、自分ひとりに発動しているのだけで手いっぱいな上、精度が荒く、空中でふらつき、遮断の選択を誤った環境変化で激しい頭痛と吐き気に苛まれ、時折目が開かなくなるほどだった。
放っておけと自分で言ったのだから文句はないが、この場に存在するだけで苦悶の表情を隠し切れないマルドと違い、自身に加え拠点規模で完璧な魔法を展開することなど前提だとでも言うように、『明日の影』だけを鋭く見据えている。
その上で、だ。
マルドの眼前に展開されている超常現象は他にもあった。
「―――レゴルトランド」
彼女の手には、“奇跡”が握られていた。
彼女の身の丈を超す白銀の杖。
先端には三日月を模した深い銀の窯が付いており、そこから天使のような純白の翼が広がっている、美しい造形だった。
“具現化”。
使い手など存在しないと言い切ってよいほどの力を、『数千年にひとりの天才』は安々と振るう。
具現化は、魔力による物体生成であり、太古から具現化であるドラクラスに人が住み続けられるように、それだけでも奇跡の存在だ。
マルドも勿論ほとんど知らない。
だが、僅かな理解の中では、具現化は、“存在自体が奇跡である上”で、使い手の意思で即座に変形したり、生命の対価を請け負ったりと、魔術的物理的に成立しえない、“特殊な武具”である。
妄想が過ぎるが、もしマルドがその力を得たとしたら、“具現化”を軸に自分の戦闘や行動を定めることになるであろう。
だからこそ、目の前の“存在”は超常現象だった。
「!」
対処が遅れていた環境変化の“淀み”でも見つけたのか、マリスが銀の杖を軽く振る。
杖の先の純白の羽に撫でられた何かは、マルドが認識するよりも早く消滅した。
あのレゴルトランドという“具現化”。
その“力”は大きくふたつのようだ。
ひとつは杖の先に付いた純白の羽による、魔力の吸収。
触れた魔力や魔術を抹消し、そのたびに、杖の中に魔力が蓄えられているらしい。
月輪属性だからもちろん定義は無いであろうが、『明日の影』の魔法によって生み出された環境変化も一部はその対象のようだ。
そしてもうひとつ。
杖に蓄えられた魔力の“増幅”だ。
杖の先端の三日月が、蓄えた魔力のメーターのようなものなのだろう。
魔力を吸収すると満月に近づき、魔法を放つとそれが欠ける。
しかし、吸収した魔力と消費しているはずの魔力のバランスがまるで取れていない。
長引けば長引くほど月が満ちている。
吸収した魔力は即座に増幅され、その利息分のようなものだけでマリスは魔法を放っていた。
だが、最大の異常は、その“具現化”自体ではない。
マリサス=アーティは、その握った奇跡の杖に、大した意識を向けていなかった。
杖だけで対抗すれば“得”なのに、空いた手の方が“近いから”杖を使わず魔法を放ち、“少し遠いから”杖を振るう。
何らかの制約でもあるのかと勘ぐったが、これだけ近くで見続けていれば分かる。
彼女は“具現化”を、“たまたま持っているから使った”とでも言うような認識をしていた。
その具現化を出したのも、あくまで念のためだ。
マルドがうるさく言ったから、一応気にして、“魔力を節約する方法があるのを思い出した”程度の感覚でしかないようだった。
『明日の影』の出現という異常事態すら、事後処理も含め、そもそも彼女自身の魔力だけで賄える問題だったのかもしれない。
僅かなミスで拠点にいる人間が死ぬ可能性がある中、彼女は『明日の影』の対応に必死になっているが、“それだけ”である。
つまり彼女にとっては、環境変化への対応という“難易度”の方が問題で、そのために必要なはずの“膨大なリソース”自体は問題ではないのだ。
“具現化”。数多の偉人たちが夢焦がれた奇跡。
現出出来ればそれだけで、例外なく歴史に名を刻む。
だが、この『数千年にひとりの天才』は、その先にいる。
具現化すらあくまでひとつの手段でしかなく、この異常性の本質は、マリサス=アーティという存在そのものなのだろう。
そんな理外にいるマリサス=アーティを前に、マルドは自分の考えられる範囲のことを考えた。
マリサス=アーティは、完璧すぎるほど完璧だ。
だがその反面、彼女は危うさを持つ。
それゆえ、“こういう状況”になるのが理解できた。
今回、『明日の影』、あるいは魔門は、突然、意識の外からの奇襲を仕掛けてきた。
先手を取り、環境を暴れさせ、無理難題をマリサス=アーティに押し付けている。
魔力の量、つまりリソースは問題ないとはいえ、月輪の上位互換である日輪の力を操る『明日の影』の特殊な魔法は、魔力の物量だけでは解決しない問題なのだろう。
しかしマリスは、その無理難題にすら真っ向から対応し、徐々に要領を掴み始めている。
奇襲をかけられ、後手を踏み、理外の事象を押し付けられても、彼女は対抗できる。
“できてしまう”。
だからこそ、彼女からは、“目的意識”が欠如する。
無理もない。
成長とは、進化とは、強制されて起こるものだ。
魔力は無限、対応力も完全となれば、能動的に動く必要がまるでない。
“何が起きてもどうとでもなる”存在は、進化を要求されないのだ。
彼女には、ひとりでこの『名前のない荒野』に入り、魔門を破壊してくるだけの力があるだろう。
しかしマルドは、実際に彼女がそれをやったとしても、成功したとは思えなかった。
目の前に明確な問題があれば完璧に対処してみせるだろうが、彼女の意識の外で起こることには初動が鈍いのだ。
多少の異変程度なら、彼女にとっては“どうとでもなること”でしかない。
彼女は能動的な行動が取れない。取る必要が無いゆえに、“やり方を知らない”。
つまりは初手で決め切るのが彼女の攻略法である。
そんなもの万人に共通する常識であるが、彼女に対しては、奇襲が成功する確率はむしろ常人より高いと感じる。もっとも、それで決め切れなければ彼女は攻略不可能となるのだが。
そう考えると、魔力の気配もほとんどなく、完璧に知人になりすまし、突然ナイフを突き出してくる『最古の蛇』は、マリスにとって最も危険な相手だったのかもしれない。
本人に言っても本当の意味では理解できないだろう。
精神面の問題は軽視されがちだ。
何故なら一定程度であれば何もせずとも人間は備えているからである。
だがそれを僅かにでも超えた途端、最も得難い“技術”と言えるものになるのだ。
そうした性質は彼女の戦闘にも出ている。
無限を思わせる魔力を有するのに、攻撃の威力が、超一流“程度”である。
彼女にもっと強く魔術を放てと言えば、彼女はできるだろう。だが、彼女自身からはそうしない。できない。
この環境の支配権の奪い合いもそうだ。
彼女は『明日の影』の起こす“事象”には対応してみせるが、『明日の影』自体への対応を本当の意味では行わない。思いつかない。
マルドを含めた依頼参加者全員を最優先で守る必要があるという足枷はあるが、超常現象に対処できてしまうマリスは、『明日の影』が“どうやって環境変化を行っているのか”を考えないのだ。
今はこの拠点にいないが、マルドたちと行動を共にすることが多いカイラ=キッド=ウルグスがこの場にいれば、『明日の影』の“解析”を行い、撃破ではなく、“そもそも環境変化を起こさせない”ような手法を取っていたであろう。
彼女はその無限のリソースを活かし切れていない。無限のリソースがあるからこそ、効率という概念が存在しないのだ。
とはいえ、取って付けたような理由ではある。
“結果として解決してしまうマリス”にとっては、どうでもいいことなのだろう。
そして。
魔門からすれば、自分たちを撃破するには、そんなマリサス=アーティの攻略が前提となる。
攻略することが必須の相手の唯一の弱点が奇襲なら、当然相手はそうしてくる。
それも決め切るつもりの奇襲をだ。
結果、マリスは『明日の影』が起こす“事象”の対応に追われ、この場に釘付けだ。
以前彼女はこの『名前のない荒野』に入っているという。
魔門がどこまでの思考を持つ存在なのか、それこそ考えても無駄なことではある。だが、もしそのとき、彼女のそうした面を知っていたとしたら、遅かれ早かれこういう状況になっていたのだろう。
だが、結局は失敗。
“この程度の異常”では、決め切れなかった。
ゆえに結末は見えている。
彼女はすでに“攻略不可能”だ。
マリスはじきに環境変化に対応し切り、『明日の影』の力を上回るだろう。
そんな超人のマリスに比べ、自分の命すら危ういマルドは、それでも彼女の“難易度”を少しでも下げられる“かもしれない”と、飛来してくる飛行種のデオグラフを撃破していた。
同じ月輪属性だからこそ分かる。
何が彼女の難易度を変えるかなど、彼女自身も分かっていないであろう。
だがやることは、これだけだ。
マリスにとって悪影響のある可能性の芽を摘み続け、彼女が“環境の支配権”を取り戻すのを待つだけでいい。
「……!」
放った魔術が、デオグラフに直撃した。
だが自分の魔術が失敗したせいか、怯んで距離を取っていくデオグラフが、“生存している”。
撃破するつもりで放った自分の魔術の完成度に嫌気が差したが、ふと気づく。
先ほど確認していた、デオグラフに付着していた黒い煙。
『剣』のバルダ=ウェズが操る魔術らしいそれは、魔物の力を強化する効果があるようだ。
だが、たまたま見えない場所についているだけなのか、マルドが視認する限りのデオグラフには、いつの間にかそうした黒い煙が付着していない。
悪寒と共に、マルドは歪む視界の中、必死に黒い痕跡を探し続ける。
だが、まるでない。
今周囲を跳び回るデオグラフたちには、黒い煙が付着していない。
“それなのに”。
「レイリス!!」
接近するデオグラフだけ撃破していたマルドは、広範囲のデオグラフに魔術を放った。
銀の矢が跳び回り、確かにデオグラフたちを捉える。
しかしデオグラフたちは、吹き飛ばされながらもいきり立ち、こちらの隙を探るように周囲を旋回し続ける。
「っ―――」
「? どうかしたんすか?」
マリスは気づいていない。いや、気づいていても、問題だと思っていない。
『明日の影』に集中せざるを得ない状況では、特に警戒は薄くなるだろう。所詮魔物の群れだ、彼女にとって何をしていようが気が散るだけで、大した問題ではない。
だがマルドはその先の異変を感じ取っていた。
自分の月輪属性の力は不完全とはいえ、流石におかしい。
バルダ=ウェズの強化を受けていることを前提に放った魔術だ、今ので決められていないのであれば、マルドはヨーテンガースに足を踏み入れられていない。
考えても分からないことは、考えない。
だが、考えて分かることは、理解できなかった。
今、周囲を飛び交うデオグラフは、バルダ=ウェズの魔術の影響を受けていない。
だが、“影響を受けているとき以上に強力になっている”。
「!」
「君は『明日の影』のことだけ考えろ!!」
異変に気付いたマリスに怒鳴り、マルドは魔術を放ち続けた。
彼女は対応できるだろうが、その分『明日の影』への対応が遅れてしまう。
結果としてなんとでもなる上に、目の前の事象に“対応できてしまう”がゆえに、彼女は細かな時間稼ぎのような囮にもかかりやすい。
自分の身など知ったことか。マルドは意識をデオグラフだけに向けて迎撃する。
マリスの異常性に気を取られて、自分の目は曇っていた。
意識して見てみれば、分かりやす過ぎるほどデオグラフたちの俊敏性も軒並み向上している。
暴れ狂う環境以上に、周囲を飛び交うデオグラフの獰猛姓が増していた。
そもそもそうだ。
この天空は、魔法で自分を守るマルドですら瀕死になるような環境である。
デオグラフも大きく影響を受けているはずなのに、何故あれほどの活力を保ったままなのか。
分かる範囲で、考えられること。
バルダ=ウェズの魔術が消え、しかし魔物が強くなった。
この事象に説明が付けられる可能性をひとつ知っている。
魔物の対応に追われながら、マルドは眼下の拠点の隅、地上で轟く雷音に意識を割かれた。
「……スライク。まさか、バルダ=ウェズは―――」
―――***―――
「―――ち」
鋭く走った黒煙を纏う剣を、スライクは、”剣で受けた“。
弾き返して追撃しようにも、即座に距離を取られる。
瞬間、一閃。
漆黒の騎士が大地を抉り疾走し、黒煙を纏う剣が横なぎに放たれる。
スライクは、再び剣を合わせた。
雷音のような轟音が鳴り響き、豪雨の景色は、異常なまでの熱気に蒸発したかのように歪んで見えた。
「―――何故受けられる」
「はっ、口も軽くなってきたじゃねえか」
剣を合わせた、歪む景色の向こう、『剣』のバルダ=ウェズの中性的な声が響く。
「何故、何故、何故、」
「―――ぅらあっ!!」
押し込んできたバルダ=ウェズを力に任せて剣ごと弾き返し、今度はスライクが疾走した。
落雷のような大剣の振り下ろしに、バルダ=ウェズは即座に離脱する。
即座に追撃、と判断しかけたスライクは、バルダ=ウェズの姿を目で追うだけに留めた。
それで決められる相手ではない。
「―――そこで引けるのか。何故、何故、何故、」
「いちいちうるせえ野郎だなあ、おい」
スライクは雨に濡れた髪をかき上げ、剣を構えるバルダ=ウェズを睨んだ。
“面倒なことをした自覚はある”。
自分で始末は付けるつもりだが、どうやらすぐにとはいかないらしい。
「……」
スライクはちらりと自らの大剣を見た。
硬度に関しては疑ったことは無い、“永遠にそのままである剣”。
これだけ魔族と打ち合っても、未だにひと欠けすらしていないのだから流石であるが、湯気が出るほど熱されていた。
スライクの経験上、ここまで長く自分の前に立っていた相手は数えるほどもいない。
そして、戦い方を変えることになったのも同様だ。
スライクは戦闘中、基本的に受けをしない。
理由は至ってシンプルで、その分剣を振るった方が早く終わるからである。
防御しかやることが無いのであればそうするが、同じタイミングで攻撃ができるならそれを選択するのだ。
しかし、このバルダ=ウェズとの戦闘は、そうも言っていられない。
攻撃もそうだが、受け手を誤れば、死ぬ。
「随分元気になりやがったな。ようやくやる気出しやがったか?」
「……。スライク=キース=ガイロード。お前は強さとは何だと思う」
「あん? まともに話したと思えば哲学かよ」
スライク=キース=ガイロードの世界では、あらゆる情報が荒ぶる。
“あのとき”から、黒点のように何も感じなかったバルダ=ウェズから、徐々に、しかし大量に、数多の情報が溢れ出てきた。
声色、構える様、魔力の流れ、ほんの僅かな挙動から、鬱陶しくも見えてしまうものがある。
根底にあるのは強い焦燥。
開いた口はそれを悟らせぬための僅かな抵抗。
そしてそれはつまり、先ほどスライク自身がバルダ=ウェズから覚えた違和感が正しいことを表している。
「概念的な話をしているわけではない。魔力、腕力、速度、技術、持久力。強さというものの“構成要素”を気にしたことは無いのか。私は常に、考え続けている」
「はっ、勤勉な奴だなあ、おい」
口数の多さ。これが本来のバルダ=ウェズの性格。
ならば“欲持ち”の可能性がある。しかしそれにしては行動に現れない歪さも併せ持つ。となると抑制する精神力、あるいは事情を持つ。
読み取れてしまうことはまだまだある。
だが、スライクが掘り当ててしまった問題は、すでにバルダ=ウェズ自身から感じ取るまでも無い。
「で、だ。……お前以上に賑やかになった魔物をけしかけなくていいのか?」
眼前のバルダ=ウェズ以上に、スライクには“周囲”の情報が暴れ狂っていた。
羽虫のように鬱陶しいだけだったデオグラフが一層狂暴となり、刃物のような翼を振り回して飛び交い、豪雨に紛れて至る所から悲鳴が聞こえてくる。
対処に回っていた魔導士たちにも被害が出ているだろう。
本来、魔導士たちにとって、デオグラフの対処自体はさほど大きな問題ではない。
民間人を守りながらでも、バルダ=ウェズの魔術によって強化されていても、付近でスライクとバルダ=ウェズが暴れ回っていても、デオグラフ相手なら、役割を遂行するだけの力はある。
だが今のデオグラフは攻撃性や耐久性の増加と、行動や習性が似通っているだけで、最早別種の魔物である。
下手をすれば“禁忌の地”クラスの魔物へと変貌しているかもしれない。
それもすべて、余裕が無かったのか気でも抜いたのか、バルダ=ウェズがスライクとの戦闘中、魔物への魔術が滞ったときから始まっていた。
つまりそれは、バルダ=ウェズの魔術は、魔物の強化ではなく“制御”ということになる。操る効果もあるようだが、“上がり過ぎる力”をある程度は抑える意味もあったということだ。
となれば、魔物の力が増した原因は、バルダ=ウェズの“存在自体”である。
そういう事象は、聞いた覚えがあった。
「話逸らそうとしてたとこ悪いが、大した興味もねえから安心しろよ。普通なんてもんはねえ―――『光の創め』に“魔王直属”がいるってこともあんだろ」
“魔王直属”は、規模は小さいらしいが、魔王同様の“役割”を持つという。
“ただいるだけで”、間近にいる魔物は狂暴化するのだ。
「―――っ」
バルダ=ウェズが突撃してきた。
やはり強い焦りを覚える。
そしてその一方、冷徹な思考を感じた。
スライク=キース=ガイロードを殺害する方法を編み出し、実践しようとしている。
「はっ―――」
受けには回らず、スライクも突撃する。再び轟音。
純粋な力勝負なら魔族に分があるが、バルダ=ウェズ自身の攻撃威力はさほど高くない。
魔族の膨大な魔力で強化されているとはいえ、スライクにとっては押し返すという選択肢が生まれる程度である。
バルダ=ウェズの剣を弾き、即座に大剣を振るう。
迎撃に怯んだバルダ=ウェズは漆黒の剣で防ぎ、即座に離脱した。
「強さの構成要素。……私から最も遠いところに在るのは技術だ」
口で誤魔化す。スライクの言葉を、無かったことにする。
そんな挙動と同時、スライクが感じたのは、別の“何か”だった。
バルダ=ウェズは、“何か”をしようとしている。
「私には技術を授けてくれる者との出逢いが足りない。ゆえに、希少な出逢いを活かさなければならない。だからこそ何故、何故、何故、と。そう考え続ける」
最大限に警戒するスライクは、言葉を返さなかった。
しかし突撃。警戒する敵への最善策は、相手の動きを封殺する殺意である。
それを一身に受けるバルダ=ウェズの構えが、僅か、変わった。
「私は理由を考え続けるべきだ―――“できてしまう”としても」
「!」
「―――シ・ベアト」
攻撃するはずだった剣で、スライクはバルダ=ウェズの剣を受けた。
“受けざるを得なかった”。
一瞬で振り抜かれた黒煙を纏う剣は、完璧な間合いで一切の無駄なくスライクの首筋に鋭く走る。
辛うじて剣で受けたスライクが次のアクションを起こすより早く、バルダ=ウェズは滑らかに構えを取り直し、再びスライクの首筋に剣を走らせる。
死。
スライクは瞬時に察知してバルダ=ウェズから離脱した。
あの近距離で戦い続けても後手に回り続けることになる。
刹那の戦闘の中察知した危険領域から距離を取り、遅れて、スライクはバルダ=ウェズが何をしたかを理解した。
スライクの突撃に対し、バルダ=ウェズは、“理論値の行動”をしたのだ。
「―――ち。“あの女”、面倒なことしやがったな」
人のことは言えないが、スライクは歯噛みする。
バルダ=ウェズが能動的に突撃してきた。
さして速度は高くない。
だが、攻撃を放つ際の敵との間合い、足に力を籠めるタイミングや踏み出し方、安定した姿勢、剣の位置は、最も理想的な突撃の“答え”だった。
今のバルダ=ウェズの間合いに不用意に入れば首を撥ねられる。
魔族の身体と魔力を備えた―――『武の剣帝』がそこにいた。
接近してくるバルダ=ウェズに対し、スライクは選択肢が狭まる前に突撃する。
バルダ=ウェズから走る必殺の一閃の軌道を反射で捉え、それごと巻き込むように力任せに大剣を振るう。
剣同士の衝撃が迸り、バルダ=ウェズは離脱を選択した。
あれも“最適解”だ。
むきになって迎撃を選択してくれていたら、攻撃を押し付け選択肢を奪い去れていたであろう。
多少ずれていたらスライクの首が飛んでいた一瞬ののち、スライクは、たった今自分の大剣を受けた黒煙を纏う剣を睨んだ。
バルダ=ウェズが『武の剣帝』の動きをするようになってから、あの剣からも“情報”が溢れ始めている。
先ほど、自分たちと共に戦っていた『武の剣帝』。
バルダ=ウェズが“その動き”を見たのはそのときだ。
魔力自体はさほど多くなく、しかしそれなのに、魔族相手にすら渡り合っていたあの女の最大の強みは、あの技術力である。
明確にスライクやバルダ=ウェズ以上の技術を持っていたからこそ、彼女は体力が尽きるまで戦い続けることができたのだ。
そしてあれは、数回見ただけで真似ができる領域にない。
似た動きが出来る才ある者もいるだろうが、そこまでだ。
彼女の技術は、才能という領域で実現可能な範囲の、さらにその先にあった。
しかしバルダ=ウェズの動きは、『武の剣帝』の動きを完璧に再現している。
“不可能”を、実現している。
「―――!」
今度のバルダ=ウェズの突撃には離脱を選択した。
泥を跳ね上げ駆け続け、豪雨に紛れ、バルダ=ウェズの背後に回る。
しかしそのスライクの動きを、バルダ=ウェズは察知しているようだった。
視野角も彼女と同じかを確認したかったのだが、どうやらそれも含めて再現できているらしい。
剣の操り方や身のこなし、そして戦場を俯瞰で捉える目の使い方。
物真似というにはあまりに完成度が高いそれを改めて確認し、スライクにははっきりと、その“不可能”の理由が分かった。
再びこちらに突撃してくるバルダ=ウェズの、黒煙に染まる剣が痛烈な“情報”を放ち続ける。
「“具現化”の剣か……!」
「―――シ・ベアト」
それはその“具現化”の呼称だったのか。
斬撃を飛ばすあの魔術も、“誰か”の真似だったのかもしれない。
奇跡の力を黒煙で覆い隠し、最初から現出させていた『剣』のバルダ=ウェズは、今度はどこの誰の真似か、いや、完全再現か、疾風のように速度を上げて急激にスライクに接近してくる。
先程の『武の剣帝』よりは隙が見えるが、それを補って余りある速力に、今まで以上にスライクの選択肢が急激に奪われていった。
離脱と迎撃を繰り返し、戦い続け、バルダ=ウェズはまた“誰か”となって襲い掛かってくる。
痛烈な一撃を放ったと思えば、ぬかるむ大地を滑るように移動してみせ、剣から延長する魔術を鞭のようにしならせる。
どれもこれも、“誰か”の技術なのだろう。
黒煙纏う剣が、一層闇に包まれていく。
この“具現化”は、闇そのものだ。
使い手自身の力も呑まれて見えなくなる。
バルダ=ウェズが発していた、暴れるような情報が、その闇に包まれるように消えていった。
スライクはバルダ=ウェズの『剣』の力がおぼろげに分かってきた。
あの“具現化”の正体は、完全再現の剣である。
その超常の武具の発動条件は不明だが、バルダ=ウェズが認識したか、あるいは剣を合わせた相手の動きを、使い手が習得できるようなものなのだろう。
再現できるのは剣の技術だけに限らず、身体や魔力の使い方、そして魔術もだ。
習得数に限界があるのかは不明だが、最悪バルダ=ウェズは、今まで遭遇してきた者たちすべての力を有することになる。
そして、土曜属性であるバルダ=ウェズが他属性の力を真似できるというのも、流石に“具現化”である。
魔族の膨大な魔力が前提となるのかもしれないが、非効率ながらも強引に再現しているのは見事と言う他ない。
だが、それだけである。
バルダ=ウェズは出逢いに恵まれないとか抜かしていたが、まさにその通りだ。
初見では警戒せざるを得なかったが、少し慣れれば、スライク=キース=ガイロードにとっては相手にならない程度の力でしかない。
魔族が再現している時点で元の術者よりはずっと上位だろうが、対処可能な範疇である。
面倒なのは、精々“あの女”。
属性に依存せず、“理論値”の行動をする『武の剣帝』は、バルダ=ウェズにとって希少な“当たり”だったのだろう。
超常の力を感じ取ったせいか、より正確な情報をと、“ここではないどこか”の感触を普段よりも強く感じたが、いつもの通り無視をした。
「はっ、俺の真似はしなくていいのか? いいんだぜ、好きなの持ってけよ」
「かわせる。打ち返せる。何故、何故、何故」
今度は誰の構えかは知らないが、剣をスライクにまっすぐに向けて立つバルダ=ウェズは、ぶつぶつと呟いていた。
もしかしたらバルダ=ウェズもその“具現化”の本質を理解していないのかもしれない。
あの力は、日輪が行う他属性の模倣に近く、理由が分からなくとも“できてしまう”。
剣に“操られている”と言ってもいい。
それゆえ、バルダ=ウェズは考え続けている。
そして、考え続けても答えは出ないのだろう。
つまり、スライクの敵は、あの『剣』そのもの。
そう見抜き、そう感じ、スライクは目を細めた。
「……?」
そこでスライクは、ふと、周囲の様子に違和感を覚えた。
先程から感じていたが、バルダ=ウェズの“影響”を受け、獰猛化した魔物が、スライクたちにまるで近づいてこない。
近づけば死ぬのだから生物としては当然だろうが、バルダ=ウェズが本当に“魔王直属”なら、例え一瞬で命を堕とそうが、魔術抜きでもスライクへ攻撃させるよう操ることくらいはできるだろう。
「―――お前の動きを得られない。何故、何故、何故」
「んだよ。少しは興味が引かれてたんだがな」
「“だが”」
周囲の違和感は、魔物だけではなかった。
互いに削り合っていた北部の岩山から離れ、いつしか何もない東部の荒野にまで移動している。
避難所にいた民間人や狂暴化したデオグラフの対処に当たっていた魔導士たちにとっては好都合だろう。
そしてこれは、たまたまではない。
ゆえに、強い違和感を嗅ぎ取る。
戦闘の中、スライクには、“バルダ=ウェズに”この場所に誘導されているような感覚はあった。
やるつもりは特になかったが、どちらかと言えばスライクがすべき行動だ。
「スライク=キース=ガイロードの攻略法は把握している。お前は“すべてを利用する”」
「あん?」
バルダ=ウェズは、黒煙を纏う剣の切っ先で、足場を確かめるように突いた。
ここは、銀の魔法の影響がたまたま強いのか雨が弱い。
足場も、ぬかるむ泥の足場から、水を含んだやや重い程度の砂場となっている。
走りやすくはなったが、元々スライクとしては大した変化はない。
精々、蹴り上げれば目くらましにしやすかったのが出来なくなったくらいか。
そう考えると、離れた岩山にしてもそうだった。
砕いて落石を起こせば相手の動きを限定させられる。
姿を紛らわせられる豪雨。攻撃に利用できる周囲を飛び交っていた魔物。それを討伐し魔物の行動を読みやすくしていた魔導士隊も同じく“使えるもの”だった。
マリサス=アーティと『明日の影』の衝突で発生している異常な環境変化ですらも、スライクにとっては“殺すために利用するもの”でしかなかった。
「お前からは、“状況”を奪う。利用する余地を与えない―――“スライク=キース=ガイロードは、孤立させる”」
この場には、スライクとバルダ=ウェズ以外、何もなかった。
『剣』のバルダ=ウェズは罠すら仕掛けていない。
小細工程度の罠であれば意味が無いし、大きな罠であれば逆にスライクはそれを利用していただろう。
自分に有利だろうが不利だろうが、あらゆる情報が叫びを上げる世界では、スライクの選択肢は無限となるのだ。
どうやら頑張って、自身が大して意識していなかった自分の強さの理由とやらを考えてくれたバルダ=ウェズに、スライクは、心から敬意を表した。
「つまり俺を殺すには、何もない場所で、何も準備せず、真正面から戦えばいいっつーことか。―――要は、不可能ってことでいいか?」
唯一の攻略法は、最も固く閉ざされた扉である。
超常の力を現出させ、別次元の力を持つ魔族を、スライク=キース=ガイロードは嘲るように見下した。
スライクとしては、どのような状況であろうが、やることは変わらない。
相手を殺すだけである。
バルダ=ウェズもその難易度を理解していた。
バルダ=ウェズからは答えを出した者特有の高揚や油断は感じられない。
辿り着いた答えを遂行しようと、一切の油断なく、真正面からスライクに意識を向けてきている。
固く閉ざされた扉をこじ開けようと、バルダ=ウェズは構えを取った。
「―――シ・ベアト」
そこで。
僅か、違和感。
また“具現化”の力を使ったのか、バルダ=ウェズの構えに変化があった。
またどこぞの達人の再現かと思うも、明確に違う。
“逆”だ。
散々達人の構えを見させられた今のスライクからは、今のバルダ=ウェズが“隙だらけ”に見えた。
だが、今まで以上に、“近づくわけにはいかない”。
「……無条件で、最大の威力を」
ぶつぶつと、バルダ=ウェズが呟き続ける。
達人に比しては拙い構えで、漆黒の騎士が突撃してきた。
バルダ=ウェズが仕掛けてきたのは、言った通り、真っ向勝負だ。
今まで以上の純粋な力と力の衝突で、スライク=キース=ガイロードの撃破を狙う。
襲い掛かる“情報”に、反射でスライクは対策に動いた。
“離脱は前提”。
利用できるものは周囲に存在しない。確かに選択肢が少ない。
そういえば遭遇したとかマルド辺りが言っていたような覚えがある。
瞬間的な判断の最中、スライクは、苦々しく呟いた。
「あ、の、野郎!! 俺以上に面倒なことしやがって……!!」
バルダ=ウェズが、『剣』が、魔術を完全再現した。
「―――キャラ・スカーレット」
―――***―――
「バッ、バケ、モノ……!!」
人知を超えた力を持つ巨大な体躯の魔族と、見目麗しい女の子と、悲鳴。
「っはー、っはー、っはー、さ、流石に、そろそろ死んでくんない?」
「ぐ、ぐっ、ぐう……」
エレナ=ファンツェルンは、肩で息をしながら、倒れ込む青の魔族を睨みつけた。
小さな顔に不釣り合いな、肥大化した筋肉を持つこの名前も知らない魔族は、見た目通り相当な耐久性を誇る怪物だった。
そしてそんな怪物は、小さな顔を怯えさせていた。
大したことはしていない。
ちょっとタコ殴りにしただけだ。
「きさまっ、」
「おらっ!!」
捥げるほどの勢いで顔を蹴飛ばし、エレナは止めを刺した。
ぐきりと折れる首の骨の音と共に、再び漂う銀の粒子。
徐々に形を成していくそれは、どうやってさっきの魔族を“被った”のか、細身の眼鏡をかけた男になった。
「こ、ここは……? き、君? 随分やつれているけど、大丈夫か。私が診て、」
「はっ、はっ、はっ、何度言わせる気。あなたは死んでいるの」
膝に手を突き、荒い呼吸を繰り返すエレナは、声を絞り出す。
赤い瞳の男は、にっこりと笑った。
「休憩を兼ねた雑談さ。流石に疲れただろう? 僕としては畳みかけたいところだけど、“この辺り”はいまいち覚えていなくてね、次は誰だったか思い出せないからどうしようと思っているんだ」
『最古の蛇』は、被った顔で、真剣に悩む素振りを見せた。
過去、『最古の蛇』に被害に遭った犠牲者たち。
その中には、“魔族”すらも含まれていた。
離れて包囲網を敷いている魔導士たちも、上空で様子を窺うイオリも、『最古の蛇』の“戦闘力”が、“測定不可能”だということが分かったはずだ。
そして、その異常事態を真っ向から突破した、エレナ=ファンツェルンという存在には、それ以上の驚愕と畏怖を抱いているだろう。
魔族とはいえ、エレナの力から見ればピンキリだ。
常人どころか世に達人と言われる者から見ても、魔族というだけで別格の存在だが、エレナからは強い弱いで評価できる。
今の魔族は耐久力は優れていたが、言ってしまえばそれだけで、殴り続ければそのうち死ぬ。
とはいえ当然、敵は魔族。今までの有象無象とは別格の力を備えており、幾度か攻撃を受けた腕の感覚がほとんどない。
エレナも認識が甘かったのかもしれない。
『最古の蛇』は、“累計にして”世界最強の力を有している。
ゆえに。
“驚いていないのは”、『最古の蛇』だけだった。
「……はっ、はっ、はっ、ま、魔族を潰されて、その態度?」
「最近の思い入れのあった大切な宝物たちは大体君が殺しちゃったからね、もうどうにでもなれって気分だよ。……あ。そういえばよく魔族を倒したね。君の強さならああなることもあるか。あの魔族は……、どうやって被ったんだったっけな。自分のことなのに説明できなくて悪いね、僕は強いだけの存在にはそこまで惹かれないんだ」
強がりでもなく、本心から、『最古の蛇』はそう言っていた。
今まで塵のように積もっていた消耗が、ずっしりと増したエレナに対し、『最古の蛇』が被った顔は涼し気な顔を浮かべている。
実際にその通りなのだろう。
“魔族が1体減っただけだ”。
「そうだ、そんな話をしていたら思い出してきたよ。いやいや恥ずかしい。後にして思えばこの頃の僕は美学が欠けていた。とりあえず強いのを被って被って被りまくったよ。今度はちゃんと言うことを聞いた方がいい。“多分次かその次も魔族だ”」
『最古の蛇』にとって。
魔族でさえ、“被った内のひとつ”でしかない。
出現すれば致命的な問題となり、村や町など一瞬の内に消し飛ばすと言われる超常の生物も、“切り札ですらないのだ”。
百、千、万、いやそれ以上。まさしく無限。
その中には、人間に加えて魔族も含まれている。
しかし『最古の蛇』は強さというものを追求していない。
隙があれば被り、惹かれた相手を被り、悠久の時の中、適当に、乱雑に、獲物を我が物としてきた。
人間も魔族も『最古の蛇』にとっては大した違いはない。
それはただの習性なのだ。
「猪突猛進かと思っていたけど、君は意外とクレバーだ。結末は最初から見えているだろう。いくら“無限”でも、僕も積極的に脱皮したいとは思わないんだよ。落としどころは無いものかな」
細身の男は眼鏡を押し上げ、眉にしわを寄せた。
真剣に、考えている。
「そうだ、こうしよう。少し迷っていたけど、君を被るよ。あまり君の影響は受けたくなかったけど仕方ない。そして君の意思で行動させ、知人にお別れを告げる時間を設ける。それで何とか矛を収めてくれないかな?」
悠久の時を生きる存在の思考などエレナも読むことはできない。
嘲るような口調は、通常挑発か自分を肥大して見せるため、あるいは何かの秘匿のためだ。
しかしきっと、これは『最古の蛇』の本心そのものだ。事実でしかない。
目の前にいる魔族を下した化け物にさえ、『最古の蛇』はただひとりの人間という認識をしている。
平等に、公平に、あるいは、誰よりもエレナに親身になって、海の水をかき出そうとしている子供をあやすように言っていた。
「いい案ね。……でも結構よ。私が自分でやることにするわ」
「ああやっと、うん? ……まあ、そうだよね。まだ納得するのは早いとは思っていた。でも安心してくれ、今のアイディアは覚えておく。また聞くよ。明日、来月、そうだね、来年でも有効だから。約束する」
挑発したエレナに対し、『最古の蛇』からは怒りすら感じなかった。
ふざけた言葉も、脅しですらない。
挑発的な口調は、被った相手たちから影響を受けて得たものでしかない。
性格も、被った相手たちからつなぎ合わせたものでしかないのだ。
不敵な笑みを浮かべる『最古の蛇』には、余裕や傲慢という概念すら存在しないのかもしれない。
人間がそういう表情を浮かべるから、被った相手がそういう顔をするだけなのだろう。
今までもそうだったのだろう。
どれほどの激情をぶつけられても、どれほどの窮地に陥ろうとも、絵本の世界から飛び出して来たようなこの存在にとって、逆に自分が絵本をめくっているようなものだ。
イオリに行動を読まれたのも、挑発されて心乱したときも、魔導士隊に囲まれて窮地に陥り焦ったときも、被った人間たちに影響を受けて作り出された性格がそうさせたに過ぎない。
本質的には、その“作品”を楽しんでいたのかもしれない。
潰えぬ無限の存在にとって、好機も危機も歓喜も怒りも悲哀も、鑑賞するための大切な宝物。
『最古の蛇』は、“そういうもの”でしかない。
「……は」
エレナは痺れた腕を掲げ、拳を強く握る。
感覚は多少戻ってきた。
エレナも無計画に『最古の蛇』を襲ったわけではない。
試したいことがあった。
そして、ひとつ目の結論は、間もなく出る。
「っ―――」
エレナは悪寒を振り払うように細身の男に突撃した。
怯えた細身の男は軽々しく殴り飛ばされる。
もう少し。もう少しだけ。
未だ諦められない。
エレナは冷徹に自覚した。
自分の心は、きっと変わった。
この無限に続く戦闘のせいではない。
ただひとつの目的のために生きていたというのに。
ようやくこのヨーテンガースに足を踏み入れたというのに。
帰る場所が、帰りたい場所が、事もあろうに増えやがった。
「―――あ。“だから言ったのに”」
「ギッ―――」
銀の粒子が、再び超常生物を形作る。
“2体目”。
今度の魔族は、先ほどの青の魔族とは逆に、貧相な身体つきの赤い肌の魔族だった。
しかし、こちらも逆。
肥大し醜く歪んだ頭部が、エレナひとり容易く飲み込む大口を開けて“噛みついてくる”。
寸でのところで口内にびっしりと生えた鋭い牙を手で抑えるも、手のひらからざっくりとエレナの腕を斬り割いた。
「づ、づ―――」
「きっ、きひっ、人間だ……!」
慌てて離脱。しかし赤の魔族は再び大口を上げて突撃してくる。
まともに受けたら上半身がごっそり“食べられる”。
先ほどの青の魔族より知性は低いのか、それゆえかえって目の前にいる獲物に反射的に跳びかかってきた。
「っ、っざいわね!!」
頬を蹴り飛ばし、怯んだ魔族にエレナは突撃した。
だが、攻撃を見舞ったはずの足に鈍い痛みが残る。
結果としては蹴り飛ばせたが、抑え込まれたような反動があった。
火曜属性か何かで、攻撃を抑え込まれたのかもしれない。
「ばあ!」
「!?」
案の定、ダメージ自体は負っていない赤の魔族が、口を開いて“火”を吐いた。
火曜属性の遠距離攻撃。
ほとんど見たことのないそれを搔い潜り、エレナは血と泥をまき散らして拳を放つ。
外れた“火”は、エレナが寸前までいた大地を抉り、泥が一瞬にして砂になった。
くどくど鬱陶しい相手よりはましだが、先ほどの青の魔族と比べ、この赤の魔族は攻撃能力が突出している。
いや、“そもそも強い”。
近づけば牙、攻撃は抑え込まれ、離れたところで破壊の“火”が襲い掛かる。
そもそもエレナにとって、火曜属性は木曜属性に優位を取れる、苦手な属性だ。
「―――あ、完全に思い出したよ!」
赤の魔族がまた跳びかかるかと思った矢先、ぴたりと止まり、大きな口が聞き辛い歪な声を発した。
「そうだそうだ、そうだった。やっぱりあのときの奴らだ。聞いてくれよ、さっきはみんな僕を目の敵にしていたけど、誤解なんだ」
激痛が走る腕を押さえるエレナの前で、『最古の蛇』は、何事もなかったかのように赤い魔族の姿で手を叩く。
「こいつら。分かる? 魔族たち。僕が出遭った、“魔族の集団のひとつ”だ。暗躍していた“人間の脅威”だよ。“今なら狙いは分かる”。人間にとって、いや人間界にとって致命的に害のあることをしようとしていたよ。魔王一派でもなく、誰にも気づかれなかった怪物たちだ。僕はそうした奴らも被ったんだ。つまり僕は人間の味方でもある。まったくもって善性の塊さ。……きひっ」
「言い残したいのはそれだけ?」
話すことは、きっと意味が無いことなのだろう。
無限の『最古の蛇』と、限りある命を生きる人間では、話は絶対に噛み合わない。
この赤の魔族は脅威だ。
その攻撃能力は、エレナを“殺せる”。
耐久力が高い青の魔族の方が労力は高いかもしれないが、“勝ち筋”が常にある火曜属性との戦闘は、体力に余裕があることに大きな意味は無い。
そして、そんなエレナが警戒する危険な超常生物は、貧弱な手を、自らの胸に当て。
魔術を放った。
「は……?」
エレナは自分の認識はまだ甘かったと思い知らされた。
自己の膨大な力を自己に放った赤の魔族は、胸に風穴を開けて倒れ込む。
自害。
そう理解するのが、一瞬遅れた。
赤の異形が、再び、銀の粒子となる。
「あ、あ。い、言い残したい、のは、それだけさ。思い出したんだ、この辺り、だっ、たか……」
「ち」
地に伏せ、死の淵にいる赤の魔族に駆け出そうとし、しかし踏み留まった。
赤の魔族は銀の粒子となる。
エレナを“殺せる”可能性のある魔族が、死んだ。自害した。
そう。
『最古の蛇』にとって、無限の中のひとつでしかない。
「と、とこ、ろ、で。困ったことに、なっていて、ね。さっきから、頑張って、抑えている、け、ど。……」
銀の粒子が、三度超常の生物として現出する。
現れた存在は、青と赤の魔族の、“短所”を組み合わせた姿をしていた。
皮膚は淡い緑。
長髪で、能面のような無表情の小さな頭に、すらりとした華奢な体躯。
背丈など、エレナとさほど変わらない。
胸や身体つきから、女性のような印象を受ける緑の魔族は、赤い目を、ゆっくりとエレナに向けた。
「っ―――」
ほんの一瞬のことだった。
緑の魔族が動き出した瞬間、拳が眼前に迫る。
反射で腕を上げて身を守ったエレナだったが、しかしその直後、緑の魔族の膝が腹部に突き刺さる。
「ぐ―――げっ―――」
「ここはどこなのかしら……」
一瞬意識が飛びかけたエレナの耳に、囁くような冷たい声が聞こえた。
流れるように頭が掴まれる。
か細い腕からは想像もできない、頭が握り潰されるほどの力をもって、強引に、力任せに、そのまま地面に叩きつけられようとしていた。
エレナは即座に腕を振り上げ、暴れるように蹴りを放った。
「! あら……」
直撃。
緑の魔族は蹴り飛ばされるも、細い腕でエレナの必殺の一撃を抑え込んでいた。
「すみませんでした。つい手が出てしまい。先に話を、しましょうか」
効いていないわけではない。今の一撃は、エレナ=ファンツェルンの危険性を知らしめただろう。
だが、緑の魔族からは怒りも焦りも見えない。
自分と対話をするに足る存在だと認識しただけに過ぎなかった。
「は……は……は……。また言わせる気。あんた、もう死んでいるって言ったら信じる?」
「……。…………。なるほど。最近耳にする『最古の蛇』ですか。にわかには信じがたいですが私も……。残念ですね」
一瞬の動揺だけが感じ取れた。
だが緑の魔族は、そのか細い身体で、静かに構えを取る。
「話通じない奴らだらけで気が狂いそうだわ。特に魔族ってのはそんなんばっかね」
「何を言っているのでしょう。私は話を聞いていますよ。私は『最古の蛇』に被られた。つまり、私は死ななければ悠久の存在になったということなのでしょうか。操られているというのは少し気持ちが悪いですが」
もともと期待しているわけではないが、話が通じない。聞く耳を持たないのではなく、通じない。
エレナは顔をしかめた。
それが分かっていたかのように、能面のようだった緑の魔族の顔が歪んだ。
「どうだい? 僕の好みじゃないけれど、彼女、凄くポジティブに見えるだろう? 思い出したらすぐ会わせたいと思ったんだ。君のことは被らなくてもこれだけ見ていれば分かるよ、そっくりだ。最高にイカレている。コミュニケーション代わりに襲ってくるところも瓜二つだ」
太古より被り続けた『最古の蛇』。
その中には、エレナに似通った存在もいたであろう。
そして、ついに来てしまった。
“エレナ=ファンツェルンより強い魔族”が。
「彼女は結構な自信家だ。その鼻っ柱を折れた奴は僕に遭うまではいなかったみたいだね。でもね、今の僕には彼女の内面が分かる」
能面のような緑の魔族の貌は、小さく震えているように見えた。
「思い出して来たよ、確かこの次は英雄でも何でもない、浮浪者の男だったかな。いや、そいつが特別だったんじゃない、どれくらいかかったんだったっけな、“その前まで”をごっそり減らして力尽きた彼女の前にいたのがたまたまそいつだったってだけだ。彼女の最期も立派ではあったけど滑稽だった。余裕の表情が崩れて必死の形相になっていたのに、私は負けてない! とかなんとか言ってたっけな。今も強がっているね、やっぱり君そっくりなんじゃない?」
しゃべり続ける『最古の蛇』の前、エレナの身体中が悲鳴を上げていた。
消耗に次ぐ消耗。
自分はどれほど戦っているのだろう。意識も細切れになってきている。
しかも、“最悪”だ。
「ところで。……正直な話、君は何かを狙っていたよね?」
もともと。
エレナには“勝算”があった。
『最古の蛇』という存在を滅ぼせる可能性が、あった。
「いや、純粋な興味だよ。思えば最初から何か狙っていたみたいだった。でも、今急に顔をしかめたから、その狙いが外れちゃったのかと思ってさ。もしそうなら……ええと、なんか悪いね。協力してあげられたらよかったのに」
幾重にも皮を被り、それだけの存在に出会ってきた『最古の蛇』は、想像も出来ないほどの経験を積んでいるであろう。
エレナの心の小さな機微も見透かしたように、心の底から申しわけないと思っている顔を、緑の魔族にさせる。
『最古の蛇』はエレナが企てる“何か”を危機と思っていない。
危機という概念すら、存在しない。
だから、親を驚かせようと隠れていた子供を先に見つけてしまったかのような、些細な気まずさしか感じていない。
試したいこと。
そのうちのひとつは、分かった。分かってしまった。
“諦めざるを得ない”ということが、分かってしまった。
無限の命を有する『最古の蛇』の討伐は、“不可能”だ。
そしてもうひとつ、試したいことがあった。
だが、『最古の蛇』の超常的な力の、“そのうちのひとつ”によって、その道は閉ざされている。
この魔族が出る前なら、やる機会はいくらでもあった。
自分がぐずぐずしているうちに、好機は逃した。
そして、その上で。
「申し訳ないついでにもうひとつ。いや、君そっくりな彼女と純粋に戦ってもらいたかったんだけど、……ごめん、これは僕のせいじゃないんだ。さっきから、妙に“疼く”というか」
緑の魔族の貌で、『最古の蛇』は心細そうに周囲を窺った。
「“いる”ね。とんでもないのが。いるだけじゃない、随分いきり立っているみたいだ。一応、僕も“魔物”でさ。“そういうもの”なんだ。ある程度の力がある魔物は、抗えない。どうしても、“あれ”が近いと活気づいてしまう。いつかは覚えていないけど前にもあったかな―――“魔王”や“魔王直属”の影響を受けてしまうんだよ」
エレナは行儀悪く舌打ちした。
どこぞの誰かが余計な何かを引き寄せたらしい。迷惑極まりない。
「これは特異なことだよ。めったにない。不運な巡り合わせと言う他ないよ。長く生きているけど、僕くらいじゃないかな、こんな意味の分からない―――“魔物に分類される魔族”という存在を成立させてしまうのは」
“その影響”とやらに抗っているように、『最古の蛇』は苦悶の表情を浮かべていた。
「これじゃ、フェア、じゃ、ない。本当に、申し訳ない、けど。……じゃああとは、終わったら呼んで」
演技かどうかすら分からない。
苦々しい表情を浮かべ、しかし軽々しく、『最古の蛇』の気配が消えた。
そして、身体中を押し潰し吐き気を催すほどの、超常生物本来の気配に戻る。
これほどの魔族を出しても、『最古の蛇』は結果を気にしていない。
この緑の魔族も、『最古の蛇』の無限の内の、たったひとつ。
「今私……。不躾ね。私の邪魔をするなんて。……。…………。なに……『最古の蛇』の影響かしら?」
緑の魔族は、両手を開き、感触を確かめるように握り絞めた。
『最古の蛇』の言葉通りだとすれば、“魔物に分類されるようになった”この魔族は、より一層力を得ていることにもなる。
「まあ、いいわ。……ところで、何を話していたのかしら?」
「あんたの最期の話。わんわん泣いてたってさ」
能面のような淡い緑の貌が僅か歪んだ。
そして取り繕い、冷めた瞳を向けてくる。
「そう、素敵ね。私も見てみたいわ。あなたのでいいから」
「……は。遠慮しとくわ」
エレナは、霞む視界をそのままに、緑の魔族を睨み続けた。
血みどろの姿で、消耗し切っているエレナを見ても、緑の魔族からは余裕も警戒も感じなかった。
ただこの魔族は、魔族の力を、そのまま使うだけである。
相手の状態などどうでもいいことだ。
「あとは……、そうね。私の実験に付き合ってくれるってさ。あんたはそのためだけの存在ってこと」
「はい?」
エレナは、ふらつく足で大地を踏み閉めた。
こうなったのは自己責任。
やることは変わらない。
エレナは、大きく息を吸う。
それだけで、損傷しているらしい内臓が悲鳴を上げた。
「魔導士ども!!」
そして、身体の底から悲鳴をそのまま絞り出すように叫んだ。
「見てりゃもう分かんだろ!! とっとと失せろ!! 他にやることあんだろうがっ!!」
自分の頭はまともに働かないが、イオリを含めこの戦闘を見ていた魔導士の頭は動くだろう。
『最古の蛇』を包囲することは最早意味が無い。
イオリの言うように、“安全なうち”にどこかに投獄し、“その場しのぎ”をするのが賢いやり方だった。
自害も封じておけば、あるかは知らないが寿命か何かで脱皮を繰り返して“当たり”が出るまで、動きを封じられていたかもしれない。
エレナは、そこまで自分が賢くなくてよかったと、心の底から思う。
賢かったら、きっと自分は、“自分を形作る根幹の目的”すら、不可能だと諦められていた。
「大きな声。はしたないわね」
「“魔王直属”。“定義型”。そんでもって無限……、“不死”」
緑の魔族の皮肉を無視し、エレナはぶつぶつと呟きながら、血の滴る握った拳を緑の魔族に突き出した。
皆が、自分は忘れっぽく、無茶苦茶で、荒っぽいという。
大変失礼だ。
ちゃんと手順を踏むし、基本は大切に胸にしまう、思慮深く几帳面な性格である。
不可能上等だ。
こんなもの、自分が生きる目的の、最初の一歩に過ぎない。
「さっさとやりましょうかチュートリアル女。私のためにまた死んでもらうわ」
―――***―――
世界には選択肢が溢れている。
好みの服や食べ物を選ぶような幸せな悩みもあれば、苦渋の思いで選ばざるを得ない悪しきものもあり、そしてそれに付き纏う責任というものもあるのだ。
孤児だった自分には、選択肢というものは大して無かったから、知らなかった。
両親を失って、それでも出逢いがあって、旅を始めて、世界がずっと広がって、ようやく見えてきたその答えは、自分の嫌う大人たちは当たり前のように知っていて、そして歯を食いしばってでも選び続けているのだと知った。
「キュールちゃん通して!! おらっ、あんたは歩けるでしょうがっ! ケディア!!」
「はーい、みんなー! 頑張れー!!」
キュール=マグウェルは、世界中で最も安全な場所から、外の喧噪を眺めていた。
現在、話に聞くタンガタンザの戦争のような轟音が至る所から鳴り響き、大気が爆発するような振動が銀の世界を震撼させていた。
最初に『明日の影』が現れたときの豪雨など可愛いものだ。
いつしか狂暴性を増したらしい魔物の群れの暴走に加え、天空に浮かぶ巨龍、そしてそれに匹敵、あるいは超越する“何か”が、拠点周囲で暴れ狂っている。
自分は、今日食べるものも得られない、小さな世界にいた。
それから“あの人”に逢い、旅に出て、キュール=マグウェルはいつしか自分が夢の世界に足を踏み入れているように感じていた。
しかし本質は、同じだ。
自分はずっと、選択肢など無い、小さな小さな世界にいる。
手を伸ばせば触れられる、このイエローの球体がキュールの居場所だ。
世の中の選択肢。
選ぶことは、とても難しいことだと知った。
ある程度のことは自分で考えるが、そこから先、人の生き死にに関わるような選択は、子供の自分が選ぶより、残念ながら自分が嫌う大人が選んだ方がいい結果になるのだ。
だからキュールは、今まで通り、言われた通り、避難所の前で自分の居場所を作っていた。
「ひっ、」
「わたしの後ろにいれば、大丈夫。絶対に」
逃げ遅れていたらしい民間人が倒れ込むように入ってから、キュールは魔術を展開した。
制限時間はあるが、この“盾”を発動すれば、飛来したデオグラフが鋭い翼で斬り割こうとしようが泥を跳ね上げ突撃してくるファリオベラがその巨体で襲ってこようが、何も起こらない。
傷ひとつ付けられず、怯んだ魔物は去っていく。
とはいえこちらからも大したことはできない。
簡単に、ひとりぼっちだ。
「とにかく止血よ! 何でもいいから死なせるな!!」
拠点南部の避難所の中の喧噪も、周囲の騒ぎに負けてはいなかった。
あの『最古の蛇』の騒動のあと、外の世界は苛烈さを増していた。
計画的に行動し、ファリオベラの数を激減させたまでは良かったが、“その残党程度”に魔導士たちが苦戦している。
まだまだ数はいるとはいえ、キュールもここ以外の場所で見たことのあるような、“そこらの魔物”だ。
世界最高峰の力を有するらしい魔導士たちの相手ではないはずのそれらは、しかし今、致命的な脅威となっている。
傍から見ていたキュールも分かる。
今まで魔術をひとつ放てば撃破、あるいは離脱させられていたファリオベラたちが、今は勢いを保ったまま突撃してくるのだ。
明確に、戦闘能力が上がっている。
もちろん、それでも個々の力は魔導士たちに遠く及ばない。
だが、戦いは数、らしい。
魔物に囲まれたとき、撃破までの手数がひとつ増えるだけでも、“攻撃を受ける確率”は上がる。
あとは試行回数だ。
いかに超人と言われる魔導士たちでも、運が悪ければ“轢かれる”。
そして脅威はファリオベラだけでなく、北部の群れから逸れたらしいデオグラフという飛行種も、時折襲ってくるのだそうだ。
民間人を守りながらとなれば、逆に良く今まで生きているものだと思う。
やはり致命的なのは、数だ。
先ほど魔導士の誰かが叫んでいたが、何故か今、この拠点近辺に散り散りだった魔物たちが押し寄せてきているらしい。
そして誰かが言っていた。
北部と南部から襲撃してくる魔物たちは、それぞれ“何か”から逃げているかのように死に物狂いで突撃してくるのだと。
この避難所には今、多数の民間人たちが押し込められている。
窮屈だが耐久性はあるようで、地鳴りのような衝撃でも辛うじて崩落してこない。
キュールは入ったとき異臭に顔をしかめたが、奥に立ち並ぶ民間人たちは、誰もがこの避難所に縋るような顔を浮かべていた。
入口付近では、搬送された怪我人が投げ捨てられたように倒れており、ケディア=レンダーが元気に踊り続けている。
魔物の攻撃を“運悪く”受けた魔導士、逃げ遅れていて消耗し切った民間人と様々だが、彼女の踊りの影響のようで、ほんの少しだけ顔色が良くなってきていた。
しかし、それでも治り切らない損傷を負った者もいる。
「どいてください!!」
ごわん、と。
避難所の洞穴に大声が響く。
血が止まらない魔導士の男に手を当て、攻撃のような治癒魔術を放つアルティア=ウィン=クーデフォンは、目を真っ赤に染めていた。
少し前なら、『最古の蛇』だと騒いでいたが、幸いにも、いや、不幸なことに、違う。
『最古の蛇』は、彼女の知人の姿で逃げ出した。
「ティ、ティアちゃん、待って、流石にもうそろそろ休まないと、」
「問題ないです!! 私が完璧に治してみせます!! 皆さん並んでください!!」
アラスールに宥められても止まらないティアは、叫びながら全力で魔術を放っていた。
まさに魔法のような現象に、魔導士の男の顔が苦痛から驚愕に変わっていく。
魔導士とはいえ、事前情報があっても、間近で体験すれば言葉も無いほどの治癒魔術なのだろう。
彼女といるキュールも、いつも驚かされる。
いつだって笑っていて、いつだってうるさいし、見つかると、いつだってひとりにしてくれない。
ふらつきながら、獲物を求めるように、より酷い怪我人を探し続ける。
彼女に魔力はもうほとんど残っていないだろう。
アラスールの言う通り、休むべきだ。
この避難所に合流するなり、彼女は全力で治療に取り掛かっていた。
彼女が中で治療を施し、キュールが避難所の入口を塞ぐ布陣は、自分で言うのもなんだが隙は無い。
むしろその余裕が生まれたからこそ、未だ身動きが取れない民間人を探しに行くことさえできているのだ。
連れてくることができた民間人に名前を聞き出し、名簿に乱暴に線を入れていたフェッチ=ドッガーが、筆をへし折りかけていた。
「駄目だ、隊長! やっぱりまだ少ないです!」
「あーら、私の推測が外れていたかもしれないわね。北部にもう少しいるのかも」
「この程度外すくらいなら俺らはとっくに死んでますよ。最低でもあと3組はどこかにいる。し、……死体は、見つけたか?」
苛立つフェッチはそのまま声を張り上げかけ、しかし隣の男の魔導士に囁くように言った。
それは、ティアの様子を気にしたものだとキュールにも分かった。
ティアは、小さな世界にいる自分と違い、多くの人と交流を持つ。
最初の拠点が壊滅したときもそうだった。
この依頼の参加者で、彼女と言葉を交わしていない人間はほとんどいないだろう。
普段は騒がしくてにこやかで、この依頼中もキュールは夜もああしようこうしようと色々な話に寝る間で付き合わされたが、深夜ふと目が覚めると、時折、すすり泣くような声が聞こえるのだ。
そして先ほどは、目の前だ。
『最古の蛇』が、知人を“被って”いた。
ここにいる魔導士全員が、そこからの彼女の様子を知っていた。
傍から見ても飲み込まれそうなほど絶望し、そこから藻掻き出るように人の命を救い続けている。
効率も何もなく、目の前の怪我人に己のすべてをぶつけ続ける。
あの様子ではすぐに彼女自身が倒れ込みかねない。
彼女の力を考えれば、他の人間が治せるような相手は放っておき、より深刻な相手に対してだけ治癒を施すべきであろう。
そんな賢さに、彼女は背を向ける。
責任を放棄するつもりも毛頭なく、大人たちの制止を振り切っても、常に全力を出し続けるのが彼女の選択だ。
ゴッ、と、キュールの背後、まだ理解の及ばぬファリオベラが“盾”に突撃して逃げ去っていく。
うるさい。今、忙しい。
ケディアが全体の治癒を行い、深刻な患者にはティアが突撃する光景は、凄まじかった。
死者が生き返ることはないが、あるとすればこういう光景だろう。
息も絶え絶えの人々が運び込まれてきたと思ったら、目を丸くして立ち上がる。
民間人は奥に逃げ、魔導士たちはまたキュールを横切って外へ向かい、魔物の討伐を開始する。
まるで、怪我をしたこと自体が無かったかのような奇跡の光景だった。
だが、それ以上に、息も絶え絶えで、それでも誰かに手を差し伸ばし続ける、滑稽な少女の姿こそを、見続けるべきだと感じる。
「っし、ケディア! 行ける!?」
「はーい、行ってきます!!」
あれよあれよという間に怪我人がいなくなり、ケディアが今度は戦場へ駆けて行った。
一瞬彼女は、ティアを労わるように見た気がする。
安定した魔力の使い方をしたケディアと違い、すべてを出し尽くして倒れ込むティアは、それでも必死に、今度は無謀にも戦場へ向かおうとしていた。
「ティアちゃん、今度こそ私の言うこと聞いてくれるかしら。お願いだから少しでも休んで。治癒は私もできる。でも、致命傷を負った人を治せるのはあなただけなの」
「ぐ、……ぐぅ……。分かり、ました」
目の前から怪我人がいなくなって、ようやく落ち着きを取り戻した。
アラスールに岩壁に背を預けて座らされ、ティアは熱に浮かされたような顔でぼんやりとした目を彷徨わせていた。
そして、弱々しく、笑った。
「へ、へへ。ケディアンは、凄い、ですねえ」
彼女のかすれた声には誰も応答しなかった。
破れかぶれになり、それでも大人数を救ってみせたティアは、しかし痛いほど無力感を覚えている顔をしていた。
キュールは大人は嫌いだ。だけど、ここで口を挟まないのが大人なら、今はそれになってもいい。
キュールはちらりと周囲の様子を探る。
この拠点の周囲からは魔物が離れたらしい。
“知恵持ち”なのは好都合だ。
この拠点は入口にキュールがいる以上何もできないし、そもそもいなくとも立て直せた活力漲る実力派の魔導士が揃っている。
やみくもに攻めても無駄だとようやく理解してくれたようだ。
その結果、この喧騒の中、木や鉄がへし折れる音が混ざる。
行き場を失った魔物たちは、人の痕跡が残る拠点で暴れているらしい。
拠点が完全に壊滅したのがよく分かった。忘れ物があったような気がするのが気がかりだ。
「フェッチ、さっきの話。場所は分かる?」
「完全に勘ですが、土砂崩れの被害にあった組は他にもいそうです。さっきひとり、バディが押し潰されたって言っていて……その、そっちは残念ながら」
このバディ制は状況整理にも役立っているようだ。
ふたり一組で行動しているのだから、どちらかひとりに話を聞けば情報は倍分かる。
相方を失った者もいるらしいが、少なくとも“行方不明者”ではない。
小さな声で話す大人たちを、キュールは静かに見ていた。
きっとあれが自分の嫌う大人で、そして賢い人たちなのだろう。
正しい選択を、し続けてきた人たちなのだろう。
だが、愚かにも暴れ回っていた少女の方が、正しく見えた。
「……待って、ください。そういえば、ホワワンは……?」
そこで。
力尽きて座り込んでいたティアが、ぼそりと言った。
愚かと言ったのは失礼だったのかもしれない。
珍しく頭が回っている。
「ホワワン、パッキーとバディだって言っていました。でもパッキーは、……じゃあ、え」
震えるティアは、真剣にアラスールとフェッチを見据えた。
ふたりは僅か顔を伏せる。大人のずるさを見た。
「ホワワンも、え、そんな、そんなわけ、ないです……で、でも」
戦場ではただの泣き言だと思う者もいただろう。
だが彼女は、悲哀に満ちながらも、“誰か”のことを考え続けていたらしい。
「だったら……、“北部には誰がいるんですか”?」
この作戦の治癒担当者は、上位4名の力が突出していると聞いた覚えがある。
アルティア=ウィン=クーデフォン、ケディア=レンダー、そしてホワーグ=ヘッジとパイン=キューマだ。
しかしティアとケディアがこの南部にいて、ホワーグとパインが被害に遭ったとなると、北部の治癒担当者は手薄ということになる。
魔導士たちも勿論いるだろうが、魔物の群れの強さが深刻で、人員が多いこの南部ですら重傷を負った者が出ているのだ。
「安心して。北部にはすぐに応援を出すわ。今のままじゃ拠点を通れない。そのために魔力の原石を待って、いる、の……」
アラスールがティアの気を落ち着かせるためか、柔らかく笑おうとして、そこで、目を細めた。
先ほど、魔力の原石を回収しに魔導士たちが向かっていった。
この混乱の中、魔導士たちが命懸けで拠点から回収し、スペースの問題からかこことは別の洞穴に運び込んだらしい。
魔力の原石は魔力を蓄えたマジックアイテムだ。
乱戦の中、魔導士たちも旅の魔術師たちも消耗し切っている。
気力や体力も深刻だが、そもそも魔力が切れれば獰猛な魔物たちに何もできずに殺される。
この南部から北部へ向かうには、魔物が暴れ回っている拠点を横切らなければならない。
ほとんど特攻になるような救援の前に、魔力の補給は必須だ。
もどかしさを前面に出したティアは震えたが、最低限の理性で抑え込んだらしい。
しかし、アラスールは動きを止め、口に手を当てた。
「……隊長? ……いや、マジで止めてくださいね、考えないようにしてたんですから」
「あらフェッチ。思考の停止なんて許した覚え無いわよ」
軽口を叩き、刺々しい空気のまま、アラスールとフェッチがつかつかと洞穴から出てきた。
ふたりはキュールの間近で、魔力の原石を回収するべく魔導士たちが駆けていった方向を睨んだ。
ほどなくして、大雨の向こう、魔導士の男がふたり、何も持たずに駆け寄ってくるのが見えた。
『総員防御態勢!! 深追いするな!! “丸1日続けられる行動を取りなさい”!! ケディア!! すぐに戻ってきて!!』
声を届ける魔術の発動と共に、アラスールが叫んだ。
近辺の魔導士には聞こえただろう、遠目に見える魔導士が、その“意図”を即座に察知したのか伝令のために慌てて駆け出した。
こちらに駆け寄ってくる魔導士の男たちにも聞こえたらしく、やや足を緩めて首を振った。
まずい。
「アラスールさん、お察しの通りです」
「っ、いくつかは残ってないの!?」
魔導士たちが首を振る。
その緊迫した様子にキュールも何が起きたのかがおぼろげに分かった。
「“魔力の原石がありません”。『最古の蛇』の仕業と推測されます」
魔導士たちは、回収が困難になると見込まれた拠点から運び出すことを最優先にせざるを得なかった。
もっとも、普通ならばそれで十分。
“知恵持ち”程度の魔物たちでは、魔力の原石に価値を見出せない。
人の痕跡が薄い洞穴にでも隠しておけば、いつでも使用できただろう。
しかし、“普通”ではない敵がいた。
彼らはいの一番に回収へ向かっていたが、それでもそれよりも早く暗躍していた『最古の蛇』には及ばなかった。
場所を秘匿することも意味が無い。
敵は、“相手そのもの”になる『最古の蛇』である。
魔力の原石の場所を知っている、あるいは推測できる者をひとりでも“被れば”、いかようにでもできるのだ。
「何が“些細な慰み”だ、最初から全員被る気満々じゃねえか……!!」
フェッチが毒づく。
この騒動で『最古の蛇』は、自分たちの生命線を断つことから始めていた。
「探すしかないわ。『最古の蛇』が盗み出したとしても、狙いは妨害であって使用じゃない。適当な場所に棄てられている確率が高いわ」
緊迫した様子のアラスールの言葉は恐らく正しい。
キュールの理解としても、魔力の原石ほどの希少で強力なマジックアイテムでさえ、窮地に陥っても脱皮をするだけの『最古の蛇』にとっては不要なものでしかないはずだ。
全員を効率よく被るためだけに、ついでのように破棄したのだろう。
だが問題は、この視認性の悪い悪天候の中、魔物が暴れ回る大自然で、石ころを探し出すことが不可能ということである。
しかしアラスールは目を細めていた。
ランダムに棄てられたなら不可能だが、特定の存在が、特定の意思を持って棄てたという材料があれば、彼女は推測できるのかもしれない。
難しいことはキュールには分からない。
だからキュールがまずいと思っていたのは、洞穴からこちらを覗く顔だった。
「あの……、まさか、なんですが」
一瞬気づかないふりをしようとした大人のずるさを感じた。
そして子供のように悪事がばれたような様子のアラスールとフェッチは、口元を歪める。
ふたりが外に出てきたのは、これを予想したというのもあったのかもしれない。
「ティアちゃん。大丈夫。私が絶対に見つけ出すから」
「……わ、分かりました。で、でも、……その間に、私が先に北部へ向かいます」
ティアが言い出すことなど、この場にいる全員が分かっていた。
「原石が来たら、すぐに応援を出すって言っているでしょう」
「“いつ間に合わなくなるか分からないんですよ”……!? 少しでも早く治癒担当者が行かないと!」
「もう魔力切れでしょう。行っても意味ない。とにかく少しでも休んでいて」
「北部に着くころには少しくらいは回復しているかもしれないじゃないですか……!!」
「馬鹿言わないで。……っ、……、フェッチ、ここ、頼めるかしら。私とケディアで向かうわ」
現実の見えていない、無理なことを言って、子供が大人を困らせている。
そんな風にキュールにも見えた。
だがきっと、大人たちも、ティアの気持ちを前面に押し出す意見以上に、問題があるのが分かっているのだろう。
現在北部には、死の間際の人間を救えるほどの治癒担当者はいない。
それどころか魔導士の多くもこちらにいる。
体勢が十分なここでさえ、ティアやケディアがひっきりなしに治療してようやく立て直せたのだ。
北部はこうしている間にも誰かが死んでいる可能性は高い。
一刻も早く治癒担当が向かわなければ何人犠牲になるか分かったものではないのだ。
確かに救助は二次被害を防ぐことが最優先で、無謀な行動を取るわけにはいかないだろう。
だがそれはつまり、“命の選択”だ。
生き残る人数が増える選択は、“全員が生き残る道”を閉ざすこともある。
我が身を顧みず人を救うことは、荒唐無稽で、無謀で、愚かだが、決して、“間違った選択”ではない。
いや、間違っていると思うべきではないのだ。
「待ってください、私が行きます! 今の私が出来ることは、それくらいなんです!」
「いい加減にして。……私だって見捨てるつもりはないの。今の拠点を突っ切って北部に行ける治療者は、私とケディアくらいしかいないわ」
「……今から魔力の原石を探すんですよね。ケディアンも、人数が多いところにいるべきです。だから私が行くんです」
苛立った様子のティアが痛いところを突き、アラスールが渋い顔をする。
気持ちばかりが先行した意見でもなかったのだろう。
キュールの見る限り、どこへ行ったか分からない魔力の原石を短時間で探し出せるのはこの場でアラスールだけだ。
そしてティアと同じ治癒担当のケディアは、人数が多い場所で真価を発揮する“魔法”を使う。
この南部は人数が多いし、安定しつつある。
治癒担当が手薄の北部は致命的な状況の人間がいる可能性が高い。いや、間違いなくいるだろう。
確かに向かうならティアだ。
だが、そもそも彼女が北部に辿り着けるとは思えない。
キュールは小さく溜め息を吐いた。
魔物が暴れ回る拠点を横切るとなると、自分の力が必須になるであろう。
キュールは移動しながら魔術を使えないが、魔物の隙を縫って行動すればいずれは辿り着ける。
巻き込まれたような感覚を僅かに覚えたが、今にも駆け出しそうなティアの顔を見て、案の定、勘違いだった。
彼女の頭にはそんな計算などない。
困っている人がいるかもしれないから北部へ向かう。
魔力も切れ、今にも倒れ込みそうなのに、ただそれだけを考えている。
「キュールちゃん、……、いえ、それだけじゃ……、っ、……なんとか護衛を付け……、駄目ね。やっぱり今のあなたじゃどうしようもないでしょう。ごめん、分かって。せめてあなたの魔力が回復してからじゃなきゃギャンブルですらないわ」
余裕のない中人員を捻出し、命懸けで拠点を突破したところで、魔力の切れた者が到着しても何の意味も無い。
子供でも分かることだ。
ティアの様子に当てられたアラスールが、我に返る。
これ以上死者を出さないことだけを考えているティアの思考に、巻き込まれかけていたらしい。
ティアが何も言わず、魔力の回復に勤しんでいたら、魔導士たちはきっとこの南部の防衛だけに従事していただろう。
民間人も大半がこちらにいる。
そして、“その他”の人間たちがいる北部の状況は、誰もが察していた。
しかし手を伸ばせば、すべてを失うことになる。
大人たちは、決して間違っていない。
だが、誰ひとり見捨てられないティアが強く訴えるそれは、合理的に物を考える大人たちが見るべきではない、見ないふりをしていた問題なのだ。
「……ねえ」
そこでキュールは、顔いっぱいに悔しさを滲み出すティアの前に立ち塞がった。
大人と喧嘩し、へそを曲げ、制止を振り切って逃げ出そうとしている子供である。
知人を失い、自暴自棄になっている部分もあるのだろう。
迷惑だ。
きっと彼女は、現実が見えていない、我がままを言っている。
自棄になって、言うことを聞かず、無茶苦茶に、すべての人を救いたいという、我がままを言っているのだ。
そして自分も子供だ。
自分は今まで、言われた通りにやってきたから、何とか旅を続けられた。
でも、自分は子供なのだ。
カイラ=キッド=ウルグスに反抗するように、言われた通りにできないこともある。
これは、自分の選択だ。
キュールは、懐から、“スカイブルーの宝石”を取り出した。
「はい。使っていいよ」
「え……、キュルルン……?」
目を丸くする魔導士たちに、キュールはすました顔で言った。
紛失して騒ぎになっている“魔力の原石”である。
「マルドに渡されたの。アラスール=デミオンの魔力が切れたらこっそり渡せって。それまで誰にもばれるなって」
この騒動で、マルド=サダル=ソーグが最初にしたこと。
それは、『最古の蛇』という人間の裏を突ける存在がいる戦場で、奪われかねない資源を先に盗み出すことだった。
敵の特性上、周知することは意味が無い。
誰にも悟られぬように最低限の魔力の原石を盗み出し、最も安全なキュールに押し付け、彼は空の世界へ向かった。言われた通り、ここまで秘密にしただけでも十分だろう。
「でも、わたしはこの子が使うべきだと思う。私が彼女を守り切る。その方が“みんな死なずに済むかもしれないんでしょう”?」
マルドの思惑の真相は分からない。
しかし、今感じたことが、自分の答えだ。
ある種最も信頼する男の言葉にここまで背くのは初で、背筋には冷や汗が浮かぶ。
鋭い気配のアラスールと、目の前の、目を丸くするティアが、何も考えていないようににっこりと笑ったのを見比べると、一層拍車がかかる。
「……ギャンブルにはなったわね。ふたりとも、北部をお願いできるかしら? こっちもすぐに体制を整えて、応援を出すわ」
「わ、こ、これ、ほ、本当に私が使っていいんですか?」
「あら、今さら何を言っているのかしら。それに私を舐め過ぎよ。魔力はまだまだ余裕ね。指揮なんて取ってないで暴れ回りたいくらい。ねえフェッチ」
「マジで止めてくださいね。……というか、」
「いつもの作戦通りよ。意地、見せるわ」
大人たちが何かの事情を飲み込んだ。
このアラスールという魔導士は、異変が起こってからすぐに方々を周り、魔術を放ち続け、今も指揮に魔術を使用し続けている。
随分前、最初から携帯していた空になったかまともに使えなかったかしたらしい魔力の原石を、苛立たし気にその辺りに投げ捨てていたのをキュールは見ていた。
だが、知ったことではない、大人の意地に甘えるのが自分たちの仕事だ。
「あの、キュルルンありがとうございます。でも、なんか、その、どうしてまた」
いざ上手くいったら動揺が隠せなくなっているティアに、キュールは呆れた。
だがそれでも、彼女はきっと使い方を間違えない。
鬱陶しくも魔力の原石ごと手を握ってくるティアに、キュールはため息ひとつ返した。
「別に。ちょっと、……熱くなっただけ」
自分の選択で、活路は見えた。
だがこれは、大成功はあるが、大失敗もある道だ。
素直に言われた通り、アラスールに渡せば、“多少の被害”で済む、丸い結果になる確率は高い。
どちらも間違いではないが、正解は分からない。
あとは自分が、“正答者”なのかどうかだけだ。
「ティアちゃん、今度こそ約束してね。魔力は徹底的に温存。何かの間違いでその魔力、攻撃に使ったら自分がどういう目に遭うか分かる……?」
「ひっ、わっ、分かりましたっ」
「フェッチ。彼女たちの護衛。死に物狂いで北部に送り届けなさい」
「ですよねー」
アラスールが手際よく指示を出し、気合を入れるように大きく息を吸った。
今から彼女はフェッチという片腕を失った上で、全体の指揮を執り、どこにあるかも分からない魔力の原石を探すことになる。
そこで、太い声が聞こえた。
「行くのは俺だ」
洞穴から、強面の男が出てきた。
シーン=アーチ。
エレナ=ファンツェルンのバディである。
「前に出るつもりが無いとか言ってなかったか。……どういうつもりだ?」
フェッチが訝しみながら睨んだ。
誰もが出ずっぱりのこの騒ぎの中、彼は魔導士隊の指示を無視し、ひたすら待機だけをしていた。
魔導士たちも動かない相手に時間を割いている余裕は無く、無茶苦茶なエレナ=ファンツェルンに付き合わされて消耗し切っているのではないかという同情もあり、放置されていた男である。
「お前はアラスール=デミオンの補佐だろう。キュール=マグウェルもここを離れる。これは俺の仕事だ」
「……エレナ=ファンツェルンにこき使われて気でも触れたか? 残念だが、命に関わる。魔導士隊なしでの行動はNGだ」
「ならばお前たちは好きにしろ」
フェッチをぎろりと睨むと、シーンはティアとキュールに歩み寄ってきた。
怖い。
キュールは後ずさりかけたが、ティアは目を輝かせてシーンを見上げているだけだった。
ちょっとむかつく。
「シ、シッチー、あの、お助けいただけるんですか?」
「当然だ。俺が先行する。大人ひとりに子供ふたり。遮蔽物が多い、魔物が暴れ回っているだけの場所など素通りだ。キュール=マグウェルもいるとなれば塵ひとつ付かん。ついてくるらしい魔導士共がどうなるかは知らんがな」
彼はフェッチを見据えた。
フェッチは頭を抱え、一瞬アラスールに許可を取るように視線を送ると、指を北部へ向ける。
「シーン=アーチ。依頼だ。アルティア=ウィン=クーデフォンとキュール=マグウェルを北部の避難所へ送り届けてくれ。個別に報酬は出す」
「要らん。これは俺の最優先事項だ」
「は?」
「行くぞ」
そう言って、シーン=アーチは駆け出した。
後を追うキュールは、その後姿に既視感を覚える。
視線の向け方、視野角を確保する首の位置、即座に方向転換できる腰の落とし方など、普通の人とは違う、洗練した、スライク=キース=ガイロードの挙動に近い。
こうした乱戦や通行が困難な状況に慣れているのだろうか。
身のこなしという点では、シーン=アーチもまた完成した存在なのかもしれない。
「シッチー、ありがとうございます、こんな、危ないのに」
「ファンクラブ会長の護衛だ、身に余る」
シーン=アーチの太い声が響く。
似合わない冗談を言ったとキュールも分かった。
エレナ=ファンツェルンのファンクラブ会員とやらしいが、この依頼中の彼の様子は警戒心がむき出しで、明らかにそうした浮ついたものとは思えない。
この護衛も彼の仕事の一環なのだろう。心中は分からない。
先程も、エレナにぞんざいに扱われ、震えていた。
その様子はティアにも伝わっているのか、恐る恐るといった様子で彼の後を追う。
「あの、エレお姉さまですが、怖いときもあるんですが、本当にお優しいんです。だから、気を悪くしないで欲しいです」
それでもティアは、精一杯のフォローをしようと言葉を続けるが、シーンの様子は変わらない。
「警戒はさせてもらう」
エレナの名を出され、シーンの動きが鈍った。
また肩を震わせている。
「こんな“都合のいいことばかりが起こる”なんて、考えてもいなかった」
「……ふへ?」
―――***―――
ネーシス大運河を生み出す大滝は、標高三千メートル超の“崖”の上から降り注いでいた。
年中覆われていた分厚い雲のベールが晴れると、その全貌がよく分かる。
ほとんど切り立ったような岩山は、大きく階段状になり、段ごとに、引っ越しのために建て垂れたダムなど比較にもならない“湖”が出来ている。
より高い滝から押し出される湖の水が滝となり、それが最下部で海と見紛うネーシス大運河を生み出しているのだ。
水を生み出していたのは、まさしくこの分厚い雲だ。
周囲一帯の膨大な水蒸気が集結し、生み出された雲が溶け落ちるように岩山に溜まる。
誰も見えない場所で、途切れることのないその豪雨は、誰にも暴けなかった“異常気象”。
人の通れる道などあるはずもない未開拓の岩山だが、辛うじて傾斜の緩い坂があり、延々と歩けばいずれ頂上付近へ着く。
時折、手と足をかけてよじ登らなければならない、コケだらけの崖があるが、むしろ時間が短縮できる幸運なルートだ。
そして既視感もある。
手と足をかけるだけで精いっぱいの高所で、落下すれば命は無い、と恐れたが、それはこの異世界に来たばかりの自分だったらの話だ。
「もうすぐ、か」
ヒダマリ=アキラは呟いた。
崖を登り切ったばかりでも、不思議と息も切れていない。
異世界に来たばかりの自分では、これだけで今日一日は動けなくなっていただろう。
この岩山の麓には、またダムでも作っていたのか、巨大な設備がずらりと並び、それをこの異常気象から守るべく大量の魔導士隊が待機していた。
アキラは到着するや否や勇者として避難を訴え、そこから歩き、岩山に着き、ひたすらに目的地を目指して“登山”をしていた。
魔導士隊も何が起きているか分かっていなかった。
推測している者はいたようだが、その段階で口に出せば混乱が生じる。
結果彼らとしても、最初の指示通り、この異変からの避難ではなく、設備の警護を継続せざるを得なくなっていたのだろう。
立て続けに振りかざした勇者の権限とやらが、魔導士隊にとってどういうものかおぼろげに分かった。
思慮の足りないものは問題外だが、勇者の言葉は、“間違っていなければ”無視できない。
何をもって誤りだと判断するかは個人によるだろうが、少なくとも、この異常を前に避難するというのは決して間違った意見ではない。
結果何人が従ってくれたかは分からないが、“採用を前提として考えるべき意見”として、魔導士隊は真剣に避難という選択に向き合うことにはなっただろう。
「……は、意外に聞いてくれたな」
魔導士隊は避難活動を開始してくれたらしい。
あれからどれくらいたっただろう。
延々と山を登り続け、酸素が薄いのか、頭が今まで以上にぼんやりしてきた。
豪雨の中進み、徐々に雲が薄くなり、そしていよいよ日が照り付けても、アキラは進み続けた。
シャロッテやイスカ、カトールの民、そして魔導士隊たちに避難を訴え、しかし自分はその異常へ向かい続ける。
傍から見ても、そしてアキラ自身から見ても、意味の分からない行動だった。
“何かが起きているかもしれないから向かう”ということは今までもあった。
だが、いつもは自分だけが動く程度のことだったのに、あれだけの人数に行動を強いたのは初めてだ。
だが仕方ない。
今から。
「……っ」
崖を上っていたときでなくてよかった。強い眩暈を覚え、アキラは緩やかな坂でしゃがみ込む。
不調が原因か、それとも登山で疲弊したのかは分からない。
だが、この程度が何だ。
もっと過酷な環境で、死に物狂いになっている者たちもいるのだ。
アキラは歯を食いしばって歩き続けた。
『名前のない荒野』の魔門破壊。
皆がそれぞれの選択をし、それぞれの戦いをしている。
不安で不安で仕方がない。
ほんの少しでも歯車がかみ合わなければ、作戦は一気に崩壊する。
綱渡りのような状況を、それでも彼女たちは進み続けている。
「……は、……は、……は」
アキラもまた、歩き続けた。
少しだけ、気が楽になった。
前から感じる、不思議な感覚。
不安で仕方ない魔門破壊に意識を向けると、何故か気が楽になることがあるのだ。
「……」
魔門破壊。
失敗は許されない。
しかしミスもある。不測の事態もある。
感情を持つ人間が機械のように動くことは不可能だ。
最適ではない選択を、することもある。
だが、安心していい。
ちゃんと全員、“正答”している。
「……っ、やら、なきゃ。そうだ……俺」
そして。
僅か気が楽になったと同時、その奥、手の伸ばせない絶対的な悪寒を感じる。
“ヒダマリ=アキラでは気づけなかった”。
結局覚えるのは不安や悪寒だ。
同じで、しかし同じではない。
「……、は、……、ふ、う。……っ」
鬱陶しい湿気と照り付ける日。高所に来たことで、気温も下がり続けている。
ここは“環境”が狂った岩山。
日輪属性であるアキラへの影響は薄いが、それでも無害というわけではない。
今日、そして今、アキラが出来ることがあるのがこの場所とは、我ながら運が無い。
だが、それでも―――“間に合わせないと”。
「―――、」
酷い頭痛に苛まれながら、霞んだ視界の先、ぼんやりと、“砂”が舞う景色が見えた。
醜悪で、最低で、この世すべての汚物が集合したような、禍々しいその景色を前に、それでもアキラは足を動かす。
ついに幻覚も見え出してしまったのかもしれない。
その煉獄には、しかし、まばゆい光を放つ者たちがいる。
連日続く妙な夢で見ていたような、気がした。
『ねえルーツ。世界が平和になったらしたいことある?』
幻覚の彼らが、語らう。
自分が世界の中心だと信じて疑わない者たちは、さらにその中心の男に目を向けている。
『私は、……子供欲しい。それも完璧な子。賢くて、誰よりも強い、立派な子』
未来を信じる彼女たちの様子は、輝いて見えた。
そんな輝くような彼女たちの中心、ひとりの男が、柔らかく笑う。
『俺は……』
”ああ、そうだよな“。
頭がまともに働かないアキラも、柔らかく、笑った。
『“普通でいい”』
足を、進める。
崖を、登る。
間もなく自分は辿り着く。
息も絶え絶えで向かい続ける目的地。
中腹にも届かない登山で済んだのは、自分のごく少量の運が働いてくれたのかもしれない。
自分が出来ることは、そんな気休め程度のことでも嬉しく思えるほどの、些細なことだ。
『特別なものなんて何もなくていい。当たり前に悩んで、当たり前の夢を見て、怒って、悲しんで、笑って。それだけのことができる子でいい』
彼は疲れ切っていた。
そして、たったそれだけのことが、どれほど難しいことなのかを知っていた。
『みんな、力を貸してくれ。俺はそんな世界にしたい』
ただの始まりに過ぎないと、初代勇者は知っていた。
自分に出来ることは、本当に些細なことなのだと、彼には分かっていた。
『よし、それじゃあ。いよいよだ』
それでも彼は、前に進んだ。
『世界を救いに行こう』
「―――、」
アキラが辿り着いたそこは、不気味なほど美しい湖畔だった。
数百メートル以上の開けた空間。
中央には頂上から降りる滝の経由地のような湖が広がっている。
豪雨にすべての汚物が洗い流され続け、植物も無く、地面も、岩盤も磨かれた鏡のように日を照り返している。
その、奥。
辛うじて形を保っていたらしい岩盤に、洞穴があった。
一瞬感情が跳ねたが、今はいい。あれはたまたまあっただけとも言える。
それに今は時間稼ぎになってくれたらしい。
『明日の影』がいなくなったここに何も無ければ、早速破壊し尽くされていただろう。
「……」
アキラは目を細める。
不条理にもこの岩山が破壊され、この膨大な水がなだれ込み、拠点が丸ごと飲み込まれるような増水は、ひとまず避けられた。
だが、最も困難なのは“ここからだ”。
今からアキラは挑むことになる。
この湖を崩壊させ、“ネーシス大運河自体の破壊”を目論んだ存在に。
アキラが睨む洞穴から、それはゆっくりと現れた。
「……! な、なんで……!?」
子供のような声が響く。
身体や顔に凹凸が無い、前後すら分からない、黄色の人形のような存在。
だがその表情のない存在が、こちらを見て、ぎょっとしたように固まった。
それはそうだろう。
もしかしたら程度の気持ちで登ってくるような山ではない。
アキラは、ゆっくりと、剣を抜いた。
「自己紹介も……」
状況がつかめていないのはヒダマリ=アキラも同じだ。
この“魔族”がこの場にいる理由は、誰にも分からない、はずだった。
だが、“今のアキラ”は分かる。
それでも、深い興味はない。
今アキラが気にするべきことは、この感覚を使って、やろうと思ったことが、目の前にあるということだけだ。
「長い前置きも要らないな?」
『盾』のルゴール=フィル。
『光の創め』の構成員。
彼女たちに被害を出した、魔族の一体。
“目的”の過程にあるだけの存在でしかないが、こいつでよかったと思える。
やはり自分は幸運なのかもしれない。
「―――お前を殺しに来たぞ、魔族」




