第73話『光の創め16---剣の世界---』
“――――――”
人の生涯は出逢ったもので決まる。
絵画であったり小説であったり、もちろん、人間であったり、胸を打つものとの出逢いは、良くも悪くも自分の進むべき道を定めるのだ。
彼女の場合は、人だった。
村で共に育った気の置けない相手は、親が富豪であった。
自分の生み出す絵画を好み、拙い作品でも目を輝かせてくれた。
大人になって出会った旅人は、相当な豪傑であった。
彼女の作品に強い関心を持ち、村に留まり、魔物の脅威から彼女を守ってくれた。
富豪の幼馴染の援助を受けて自分の美術館を建てる際、手配を任せるために雇った従業員は聡明であった。
経営にも芸術にも豊富な経験を持ち、面倒な手続きの一切をあっという間に済ませ、彼女の作品群を並べる美術館自体すらひとつの作品にしてみせた。
幼き自分が見た夢が目の前に生み出される。
彼女は幸せの絶頂にいた。
しかし月日が経ち、その人々は、彼女の悩みの種となる。
商魂逞しく育った幼馴染は資金の回収を迫り、彼女に好意を寄せる旅人は交際を迫り、美術館の管理を任せた従業員とは芸術に対する方向性の違いで口論が絶えない。
それぞれに弱みがあるゆえに、彼女は相手を強く非難できなかった。
現実というものはそういうものだ。
夢の世界に居続けることはできない。
しかし夢見がちな彼女は、いい出会いに恵まれただけだというのに、自分が特別な存在だと思っていた。
彼らに出会わなくとも、この夢の具現化に辿り着いていたと信じて疑わない。
資金は生活費を削ってでも捻出し、魔物の被害には多少は心得のある武術で対抗できるし、経営だってノウハウが無いだけで、その内習得できたであろう。
自分ならば、やり方次第でどうとでもなったのだ。
そう思うと彼女は、出会った人たちが鬱陶しくなってきた。
まず、旅人が去った。
今の自分への魅力を感じなくなったらしい。
旅人に頼り切っていた村は大慌てだが、彼女は大金を使って美術館の防衛を優先した。
次に、幼馴染が別の街へ引っ越した。
費用ばかりかかる廃れた村に留まる理由も無いと、遠くの大きな街へ挑むそうだ。
昔馴染みのよしみで援助は続けてもらうように求めたが、それはとっくにしていたのだと冷たく言い放たれた。
最後は従業員だった。
資金繰りの厳しくなった彼女より、ずっと良い条件の雇い主を見つけたらしい。険悪な仲となった従業員が去っても、何の感情も湧かなかった。
貧困で、不器用な経営に、いつしか客も来なくなる。
割れた窓の修理もおぼつかず、蔦が巻き付き、堅牢なだけの廃れた美術館には、いよいよ誰も近づかない。
輝いて見えた美術館は、村では幽霊屋敷と馬鹿にされているらしい。
すでに彼女の夢の世界のものではなくなっていた。
しかし彼女は夢を見る。
作品を二束三文で売り払いながら、最低限の美術館の体裁を保ち、それでも絵を描き続ける。
何も無かった最初に戻っただけだ。
今度は自分の手で夢を形にすればいい。
自分も成長した。
何も分からなかった頃と違い、何をどうすればいいか、具体的に考えることはできるのだ。
そんな折、“村が魔物に襲われた”。
幼馴染の資金や旅人の働きで守られていた村が被害に遭うのは、時間の問題だったらしい。
彼女は堅牢な美術館に閉じこもり、避難しようと美術館に押し寄せてきた村人の悲鳴に耳を塞いだ。
自分の夢は、再出発したばかりなのだ。
こんなところで閉ざされるわけにはいかない。
割れた窓から見える、火の手が上がった村の黒煙が目に焼き付く。
村を襲う魔物の咆哮に震え、美術館を落ち着きなく歩き回り、考える。
今すぐに欲しいのは力だ。
彼女は仕事場から飛び出したときから持っていたままだった筆を投げ捨て、内装用に購入した騎士の甲冑から剣を抜き取った。
剣は筆よりも強い。
自分だって多少は戦える。美術館は堅牢だが、魔物が入ってくれば応戦すればいい。
甲冑の影に座り込み、剣を力いっぱい握り絞めながら、彼女は、瞳をきつく閉じた。
無理だ。
村人たちの悲鳴が、魔物たちの咆哮が、何かが壊れる音が、どうしようもなく、怖い。
自分の武術の心得など、何の役にも立ちはしない。
震える手で握った剣など、先ほどの筆と何も変わらなかった。
幼馴染なら、資金にあかせた魔物対策を施し、村に魔物など近づけなかっただろう。
旅人なら、今すぐにでも魔物たちに挑み、村を救っていただろう。
従業員が強く提案していた、村の外まで続く避難口の建設を、気に入らないからと許可しなかったのは愚かだった。
彼女は神を、“呪う”。
何故、何故、何故。
“何故あんな人たちと出会わせたのか”。
幼い自分は、絵を描いているだけでよかった。
思い描いた夢を、夢のまま見ているだけで幸せの絶頂にいた。
あの人たちと出会わなければ、無い物ねだりをしなかったのに。
あの人たちと出会わなければ、ひとりがこれほど怖いと思わなかったのに。
ほどなくして、外の村人の悲鳴が止んだ。
恐る恐る目を開くと、割れた窓に、巨大な影が落ちる。
美術館の防衛設備は突破されてしまったらしい。
身じろぎするだけで地震が起こるような大型の魔物が、壁を1枚隔てた向こうにいる。
やり過ごすしか無い。
彼女は身じろぎひとつできず、目をきつく閉じる。
そこで、大型の魔物の仕業か、美術館が一層大きく揺れ、隣の甲冑が倒れ込み、彼女は下敷きになった。
その拍子で、握り絞めていた剣が“彼女の喉を貫いた”。
ここは誰も寄り付かない美術館。
鋭い痛みと、止めどなく溢れる自らの鮮血は、甲冑に彼女の最後の作品を描く。
彼女は身動きひとつできず、悲鳴さえ上げられない。しかし心では叫んでいた。
誰か、今すぐ助けて。
なぜ自分がこんな目に。
何故、何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故。
―――さあ、そんな美術館から見つかった『血化粧の甲冑』。
あれだけの被害で傷ひとつ無いときた。曰くつきの作品に目が無い方には垂涎ものの一品でしょう。
お手元の資料に記載通りの価格から開始となります。お求めになる方は番号札を上げてください。
はい、まずは4番の方。
――――――
おんりーらぶ!?
――――――
「っ、スーパーノヴァ!!」
放った拳が空を切る。
こちらのリーチは短く、敵は飛行種。離脱は容易だろうが、今のは決められたはずだった。
エリサス=アーティは、豪雨の中暴れていた。
見回りでたまたま向かっていた北部、遠方にデオグラフと思わしき魔物の群れを確認し、魔導士隊への連絡をしようと思った途端、また空が落ちてくるかのようなスコールに襲われた。
そこまでは現実的な状況だったが、問題はその先。
世界がシルバーの光に包まれたかと思えば槍のような雨が止み、天空に金色に輝く巨龍が暗雲の中蠢いていたのだ。
そして今また、雨を遮断していたと思われるシルバーの光が、気にしていられないとばかりに豪雨を“許可”し、周囲の様子が一気に分からなくなる。
頭の中はぐちゃぐちゃだ。
辛うじて、“あの妹”を持つエリーには最低限の状況が見えた。
上空に出現した巨龍は、マリサス=アーティが対応しているのだろう。
この雨も、マリスが降らせても問題ないと判断したか、余裕が無いかだ。
身を引き裂かれるような胸の痛みと、手段も無いのに駆け寄りたくなる衝動を必死に抑え、しかしエリーは眼前のデオグラフの対処に当たった。
魔導士隊も、他の民間人も混乱しているだろうが、ある意味天空の巨龍の姿のお陰で、緊急事態であることは把握しているだろう。
すでにいくらか群れから離れたデオグラフが拠点へ向かってしまっているが、この場にはまだまだデオグラフの大群がいる。
打ち漏らした魔物は後衛に任せ、とにかく数を減らそうと、エリーは躍起になって戦っていた。
だが。
「っぶ―――」
上空から身体を回転させ、刃物のような翼で襲ってきたデオグラフを、エリーは寸でのところで回避する。
いや、最早転んだだけだった。
もみくちゃに暴れながら立ち上がったエリーは、泥に塗れて痛む目をこじ開けて構えを取る。
幸いにも追撃はこなかったが、戦場で転ぶなど死んでもおかしくはない。
銀の眩い世界。
突如降ったり止んだりする豪雨による視野性の悪さ。
ぬかるむ大地。
敵は飛行種。
重い身体。
悪条件は揃っているが、それ以上に、デオグラフの“力”が問題だった。
“強い”。
それなりに捉えれば撃破できるが、エリーの攻撃力をもってして、雑に拳を放った程度では撃破に届かない。
ヨーテンガースの魔物でもあり、デオグラフという魔物も脅威なのだが、火曜属性が一手で決められないほどの相手ではないはずだ。
妙に強い個体ばかりが集まった群れなのだろうか、“耐久力のある大群”は、エリーにとって致命的に相性が悪い。
雑に拳を放ち、1匹1匹中途半端に消耗させても意味は無い。
着実に1体ずつ仕留めていかなければあっという間にこちらが消耗し切ってしまう。
豪雨の中飛び交うデオグラフの位置を探り続けたエリーは、しかし、どうしても視界に入る、天空の巨龍に意識を奪われる。
神話からそのまま出てきたかのようなあんな化け物に、きっと自分の妹は挑んでいるのだ。
『数千年にひとりの天才』といわれるマリサス=アーティ。
魔導士隊の方がですら成す術もない、超常現象にすら対抗できる。
だがエリーにとっては、可愛くて仕方ない、大切な妹だ。
「っ」
エリーは暴れそうになる心を押さえ、歯を食いしばって胸を強く叩く。
今は緊急時。
所詮凡人の自分に、余計なことを考えられるほどの実力は無いはずだ。
「! スーパーノヴァッ!!」
息を切らせ、今度こそはと放った拳はデオグラフをかすめた。
デオグラフはそれだけで殴り飛ばされていくが、エリーは歯噛みする。
傷は負わせたが、今のも決め切れていない。決められる状況はずだったのに。
「―――離れて」
そこで、冷たい声が聞こえた。
豪雨の中、デオグラフの襲撃に駆け回らざるを得なかったエリーは、いつしか彼女の近くに来てしまっていたらしい。
『武の剣帝』カタリナ=クーオン。
エリーのバディである彼女は、前に見たとき通り、豪雨の中でも同じ場所で戦い続けていた。
直前までほとんど見えないデオグラフの突撃も、彼女の間合いに入った瞬間首を撥ねられる。
息も絶え絶えのエリーと違い、カタリナは静かな呼吸のまま刀を振るっていた。
敵を見逃さず、急所を外さないゆえ、彼女は“動く必要が無い”。
長らく戦っている今でも、ほとんど消耗していなかった。
デオグラフを容易く斬り割きながら、彼女は、その氷のような瞳をエリーに向けてきた。
エリーは、邪魔だと言われているように感じた。
「ぐ」
至る所から爆音が聞こえる。自分たちと同じように、北部にたまたまいた魔導士や旅の魔術師も応戦しているのだろう。
ほとんど前も見えない、むせ返るような煙と雨に襲われる世界で、エリーは暴れ続けた。
カタリナの戦闘力は、その別称通り、魔導士隊含めた依頼参加者の中でもトップクラスである。
エリーがこの数日バディとして共に過ごした、明るくにへらと笑う彼女は、戦場では冷徹に敵を斬り割いていた。
やはりあれが、『武の剣帝』の本性なのかもしれない。
今の彼女は間合いに入る者はエリーですら不純物として認識し、戦闘に没頭していた。
日常と戦場で、意識をはっきりと切り替えられる。
“ああいう者が、正答者なのだろう”。
有事でも余計なことばかり考えてしまう自分とは違うのだ。
「! 逃げて!」
豪雨の向こう、運んでいた荷をひっくり返しながら転んだ民間人が見えた。
暴れに暴れ、いつしか北部の避難所に近づいてしまっていたらしい。
おぼろげに見えるデオグラフをけん制し、民間人が避難所に逃げ切るまで引き付けようとするも、上空から雨に紛れて突撃してくるデオグラフが見えた。
「―――、」
そこで、イエローの一閃が走った。
デオグラフの動きも満足に目で追えないのだ、彼女の動きを視認することは不可能だった。
ミツルギ=サクラ。
目も合わせられなかったが、民間人を襲ったデオグラフを正確に斬り割くと、彼女は稲光のように雨の中消え、またどこかから魔物の爆発音が聞こえる。
彼女もまた、戦場では目の前のことに集中できる人物だ。
民間人の避難が終わったのか、魔導士隊も本格的に討伐に乗り出したようで、周囲には一層の爆音と熱気が蔓延するも、エリーはすっと身体が冷えていくのを感じた。
ドラクラスで初めて参加する大規模な依頼。
他の面々に後れを取っているのは分かっていた。
それでも、悔しさを押し込んで、必死に戦おうと思っていたのに、今の自分は泥だらけのみじめな姿で、目の前のことに集中できない足手まといにしかなれていない。
眼前が見えないのは、雨のせいか分からなかった。
しかし。
どれほど苦悩しても、戦場は加速する。
「!」
どこからか短い悲鳴が響いた。
誰のものかも分からない。
しかし、マリスが魔法を状況に合わせて変化させているせいか、あるいはただの偶然か、一瞬、視界を塞いでいた雨が弱まった。
改めて見た戦場は、その上空、ぞっとするほどの数のデオグラフが飛んでいる。
“だが”。
はっきり見えてしまったのは、そのデオグラフが、“黒い煙”を纏っていること。
そして。
そのデオグラフの上に乗り、こちらを見下ろす―――“黒の騎士”。
「エリサス=アーティには―――」
「―――やっっっと動きを止めやがったか」
“そして”。
黒の騎士に振り下ろされる、巨大な『剣』だった。
ザンッ!! と落雷のような斬撃が、直前で離脱した黒の騎士が足場にしていたデオグラフを斬り割いた。
「バ、バルダ=ウェズ……!! スライクさんも!?」
戦場の爆音が加速する。
空から降り注いだように見えるスライク=キース=ガイロードの一刀に、デオグラフはまとめて斬り飛ばされ、連鎖するように戦闘不能の爆発を起こす。
『剣の勇者』。そして『剣』のバルダ=ウェズ。
突如として目の前に現れた存在たちに、エリーは反射的に叫んだ。
「ここで戦わないで!!」
腹の底から叫ぶと共に、エリーはバルダ=ウェズに突撃した。
もう頭では考えていられない。
この化け物と魔族が何故ここにいるのかは知らない。
それでも、このまま戦われるのはまずい。
バルダ=ウェズにこちらの弱みを晒しかねないが、少なくとも避難所が近いこの場所で、このままスライクと魔族が戦うよりはましだ。
雨は再び勢いを増し、バルダ=ウェズの姿が見えなくなる。無暗に近づくわけにはいかない。
エリーはその勢いのまま方向を変え、視界の隅に嫌でも入り続けたスライクに駆け寄った。
「赤毛か。……ち。あの魔導士ども、見当外れの方向に飛んでいきやがったか」
「今すぐここから離れてください。避難所が近いんです」
言うことを聞く相手ではないだろうが、エリーは毅然として言った。
デオグラフが多いだけでも大問題なのだ。避難所に入った民間人は、下手に移動もできない。
「そりゃ俺じゃなくてあの魔族に言え。奴がここを目指したせいで、空で追いかけっこまでする羽目になったんだからな」
「空って……今何が、いや、いいわ。ここ、お願いします。あたしは隙を見てみんなを別の場所に、」
「んなことは他の奴らにやらせろ。お前の獲物はあそこにある」
スライクは、大剣を金色の巨龍が蠢く天空に突き出した。
「あの、龍? を?」
「ああ、そんなのもいたな。魔術には強いみてえだが、それだけだ。“その奥にある魔門”ごとまとめて殺せんだろ」
「ま、魔門?」
肉眼ではまるで見えない天空の世界に魔門があると彼は言う。
話を聞けば聞くほど、理解できなくなってきた。
「お前のところの魔導士の見立てを見てきてやった。あのデカブツの頭の上、雲の中に魔門がありやがった」
「イオリさんが、そう言ったんですか?」
「見てきてやったって言ってんだろ」
スライクへの信頼度と、イオリへのそれには大きな差があるが、スライクの言葉を無視したくなったのは耳を疑ったからだ。
生身で空に行って、雲で蠢く巨龍の上の魔門を見て、そのあと魔族を追って空から降りてきた。
冷静に整理しようとしても理解不能だ。
「魔門はお前の方でやっとけ。-――俺は今から、やることがある」
だがスライクはそんなエリーの混乱を無視し、濡れた髪をかき上げ猫のような鋭い瞳を鋭く眼前へ突き刺す。
また、雨が、弱まった。
「スライク=キース=ガイロード。カタリナ=クーオン、か」
視界が開けた一瞬。
『剣』のバルダ=ウェズから、くぐもった中性的な声が聞こえた。
ほど近い距離、乱戦の中、自分だけの空間を造り上げていた『武の剣帝』が、氷のような瞳を現れた『剣』へ向ける。
そんな魔族と超人を嘲るかの如く、顎を上げて見下ろすように睨むのは、『剣の勇者』スライク=キース=ガイロード。
まずい、と、エリーは反射的に感じた。
「―――はっ!!」
素直に言うことを聞いてくれるとは思っていなかったが、初手から完全に無視された。
隣にいたはずのスライクは、足元の泥が爆発したかのように荒々しく駆け出し、バルダ=ウェズに突撃する。
バルダ=ウェズは、スライクが振り下ろす大剣に対し、黒煙に染まる剣を中段から振り上げた。
「ぃ―――」
バンッ!! と、およそ剣からは出るはずもない破裂音が鳴り響く。
その爆音に、エリーは耳をやられ、周囲の獰猛なデオグラフも慄き散り散りになった。
物理法則を無視しているかのようにスライクの大剣が嵐のように獲物を襲い、バルダ=ウェズは黒の剣を持って真っ向から打ち合う。
魔力や火花が舞い散り、一挙手一投足に大気が揺れた。
当人たちは気にもせず、絡みつくような距離で剣を振るい、ただそれだけで暴風が巻き起こっているかのような熱気が迸る。
まるで誇張されたおとぎ話だ。
いかに化け物と魔族とはいえ、いかに膨大な魔力で身体を強化した者同士とはいえ、剣の戦闘で起こることでは無い。
化け物と魔族の激突は、エリーが想像した以上に危険だった。
バルダ=ウェズに民間人たちを攻める意図はないのかもしれないが、これ以上避難所に近づかれたら余波だけで全滅しかねない。
そこで、『武の剣帝』が“能動的に動いた”。
近づくだけで身体が削り取られそうな超常の殺し合いに、吸い込まれるように向かっていく。
彼女には何が視えているのか。
ぬかるむ足場の中、固い地面を選んでいるかのように速度を落とさず接近すると、目で追うことすらできない斬撃の中、鋭く自身の刀を走らせる。
バルダ=ウェズは瞬時に反応して剣で向かえ打つも、その僅かな隙に、カタリナごと斬り割くつもりだったとしか思えないスライクの凶暴な剣が放たれた。
暴れ続ける剣の中、カタリナは、それでも動きを止めない。
『武の剣帝』は、離れて見ているエリーでようやく分かる怪物たちの剣の軌道を見切り、“ぐにん”と身体を捻って剣をかわしながら、それでも体勢を崩さず、正確な攻撃を続けていた。
暴れ狂っているようにしか見えないスライクやバルダ=ウェズの動きはエリーには理解できないが、カタリナの動きは分かる。
敵の攻撃を受けない場所へ移動し、正確に急所を狙う合理的な攻撃を繰り返しているのだ。
“ゆえに、カタリナの方が理解できなかった”。
後付けで考えれば、カタリナは的確な行動を取り続けていただけである。
身体の柔軟性は異常ではあるが、それでもスライクなどに比べれば人間の範疇の動きだ。
だが、触れるだけで必死の剣が暴れる中、剣筋を読み、的確な攻撃ができる状況を維持し続けることなど、同じ状況を何度も経験し、検証を重ね、試行回数を積み重ねた上で初めて実現できるものだ。
初見で出来たとしても、あらゆる人間が口を揃えて、“運が良かった”と言うことになるだろう。
しかしカタリナは、“それ”を出し続ける。
理論値の戦闘能力。
それが『武の剣帝』カタリナ=クーオンの本質なのだ。
「―――、っ、くっ」
後れを取るわけにはいかない。
そう思ったが、暴れる感情を抑え込み、エリーは避難所の方に視線を走らせた。
民間人たちのことを考えれば、あの世界に手を出すべきではない。
多少は話を聞いてくれたのか、戦闘は徐々に避難所から遠ざかっているが、この北部は魔族が出現した危険地帯。
民間人の保護とデオグラフの対処に追われる魔導士たちでさえ、バルダ=ウェズの存在に気づいていないかもしれない。
デオグラフがあの戦いに怯んでいる今が好機だ。
魔導士隊の方々にすぐに状況を報告し、すぐにでも民間人をこの場から避難させなければ。
魔力と火花の散る剣の世界に、エリーは背を向けた。
スライクもカタリナも、目の前のことに集中できる人間だ。
自分のように戦場で余計なことを考えないから、あれだけの力を発揮できるのだ。
避難所へ走ったエリーの視界は滲んでいた。
雨のせいかは、分からなかった。
―――***―――
最近、歯ぎしりが多い。
一般的に、人は平常時とストレスを覚えているときの性格は分けて考えられるらしい。
飄々とした好青年でいる自分を好むのだが、集中しようとするとどうしても思考が鋭く尖り、人に冷たくなってしまう。
そうなると、普段の様子は仮初めの姿とさえ思われ、同じ部隊の仲間でさえ、自分は本当は感情を持たぬ冷徹な人間なのだと、敬遠しがちになる。
飲みの誘いはいつでも大歓迎だというのに。
最近は特にそうで、“魔王の弟”の問題にこの騒動と、最近笑顔を浮かべられた覚えがない。
一番笑えないのは、上司の無茶振りではあるのだが。
「タガイン!!」
フェッチ=ドッガーは、拠点の南部でファリオベラの群れの対処に当たっていた。
止んだり降ったりする豪雨の中、ぬかるむ大地でも構わず走り回るこの馬のような魔物たちは、地上で移動する分姿が追いやすい。
しかし、突如として徒党を組んで突撃されれば、魔導士といえどひとたまりも無いだろう。
姿が追いやすいとはいえ、姿を見失うことも多い。
無ければ恐らく自分たちは死んでいるのであろうが、マリスが展開した大規模な魔法はシルバーに輝き、さらにその中で他の者が放つ魔術がいたるところで雨に乱反射し、盛大な祭りのようだった。
視覚情報はほとんど当てにならない。
目を凝らそうとすればするほどかえって視野は狭まるだろう、そうなれば死角からいつ轢かれてもおかしくない。あの巨体にまともに衝突されれば、まず命は無い。
南部の戦況は、混戦としか表現できなかった。
民間人の避難と警護に魔導士隊の人員を多く割いたが、それでも旅の魔術師も含めて大人数がファリオベラの討伐に当たっている。
明らかにファリオベラの数も増加しており、『名前のない荒野』にいるすべての同種がこの拠点になだれ込んできているのではないかと思うほどだった。
その上、通常考え得るファリオベラの戦闘力を遥かに超えている。“強力な個体”という枠すら上回っているようなのだ。
現役で最前線に立つフェッチは対処方法を即座に更新できたが、普段堅牢なドラクラスに守られ、精々ドラクラス周囲の安全圏で働いていた魔導士には、やりにくい相手だろう。
ヨーテンガースに多く生息し、よく見かけるファリオベラなだけに、そう簡単に自分の常識を改められない。
いずれは更新してみせるだろうが、それまでにファリオベラに轢かれたらアウトだ。
フェッチとて油断はできない。
そんな、いつ誰が死んでもおかしくない危険地帯。
ただでさえ強力で大量なのに、先ほど、各所を周っていた麗しのアラスール=デミオン閣下から、普段通りの口調で、周囲のファリオベラをこの地に誘導せよとご用命を受けた。
アラスールから指示を受けたフェッチは、即座にファリオベラの習性を利用した誘導方法を立案し、至る所を駆け周り、漏れはありつつも、瞬く間に大量のファリオベラを南部に集結させてみせたのだった。
フェッチは自分の有能さを呪う。
結果、地獄だ。
「誰か死んでも俺のせいじゃないぞ……!!」
「みんなー!! 頑張れーっ!!」
酒1杯じゃ割に合わない労働にフェッチが愚痴ると、活力漲る声が戦場に響く。
大柄でパワフルなケディア=レンダーが、豪雨の中、撥ねた泥も気にせず、満面の笑みで“踊っていた”。
気力ではなく、実際に身体の疲弊が薄れていった。フェッチだけではないだろう。各所で戦う魔導士や旅の魔術師も、動きのキレを取り戻しているはずだ。
“常時全体回復”。
『水曜の魔法使い』ケディア=レンダーが操る“魔法”には、“禁忌の地”でも幾度となく救われている。
そんな大恩人でもある仲間のケディアだが、フェッチと違い、どこでも自分が好きな自分でい続けるケディアを見ていると、特に今のような状況だと、ほんっっっの少しだけ腹が立つ。
腕をくるくると回し、足を振り上げ、精一杯エールを送ってくるケディアを一応視界に収めつつ、フェッチはイエローの指弾に魔力と鬱憤を込め、ファリオベラに放ち続けた。
マリスが未知の脅威に対抗し、ケディアが元気に踊り、アラスールが軽い口調で無茶な指示を飛ばし、フェッチがその無茶振りに対応しつつ凶暴な魔物の対処に奔走しながらその他の大体のこともやる。
まったくもって、いつも通りだった。
「うぉぉぉおおおーっ!! なんかめっちゃ元気になってきますね!! これがケディアンの魔法の効果でしょうか!?」
「じっとしてて!!」
「あっしも元気に踊った方が!?」
「うるさーい!! 放り出すよ!?」
流石にびくりとした。
爆音轟く戦場で、負けじと声を張り上げた者がいた。
ケディアの常時全体回復の影響を受け、普段以上に活力がみなぎり両手を突き上げ叫ぶアルティア=ウィン=クーデフォンを、キュール=マグウェルが何とか落ち着かせようと引き留めている。
この地獄のような混戦の中、ふたりに近づく魔物は徐々に少なくなっていた。
彼女たちの周囲には、イエローの『盾』が展開している。
ファリオベラは“知恵持ち”だ。
他の魔導士や旅の魔術師たちも強敵だが、あの『盾』に対してこそ何をしても無駄だということを察知したのだろう。
結果、戦場の最前線に、絶対的なセーフポイントが生み出されていた。
ケディアの力を受けても治り切らない負傷した者は、あの場所へ逃げ込めばいい。
キュールが展開する『盾』の規模は小さく、いつまでも留まり続けられないが、その僅かな時間があればティアが負傷を治し切る。
地獄の中にある唯一の安息の地は、輝いて見えた。
フェッチも不調を訴え、逃げ込みたい衝動に駆られるが、ケディアのせいで体調だけはすこぶるいいし、『盾』の中にアルコールは置いていないだろう。
「!」
そのエリアに、ひとりの男が近づいていく。一瞬遅れ、足を引きずった男が見えた。
身構えたフェッチは即座に判断し、すぐに彼らが逃げ込みやすいように周囲のファリオベラを牽制した。
顔はほとんど見えなかったが、今のは旅の魔術師の男たちだろう。
観察しているが、やはり旅の魔術師が逃げ込むことが多い。というよりも、魔導士隊の者はほとんど訪れていなかった。
フェッチは歯を食いしばる。
ドラクラスの魔導士隊も優秀だが、もちろん多少は負傷しているだろう。
しかしその多少程度では、歯を食いしばって職務に当たる。
アラスール率いる部隊に所属するフェッチには、ドラクラスの魔導士以上の力を持っているという、不遜ではない自信があった。
ドラクラスの魔導士以上に、実践の経験を積んでいるのだ。
だが、応援で来た自分たちも、ドラクラスの魔導士も、本質は同じだ。
魔導士としての誇りをもって、意地を見せてくる。
思っていることも同じだろう。
やり切ってやる。
「―――ああ、くそ。そっちじゃない」
またフェッチの視界に、治癒担当者へ近づく負傷者が入った。
思わず声が漏れる。
負傷者は、見知った魔導士だった。
フェッチたちとは違う所属からだが、ドラクラスに応援に呼ばれた年下の男だ。
配偶者のいるフェッチを羨ましがり、無造作に伸ばしていた髪をバッサリ切るのに付き合わされた。
彼はひとり、足を引きずり、ケディアに助けを求めて近づいていった。
ケディアも通常の治療は出来るが、対個人に関してはティアの方が上だろう。
魔導士は意地を見せているとはいえ、自分の限界を見定めないほど愚かでもない。
だが、そこまでの負傷なら、向かうべきはケディアではなくイエローの『盾』だ。
この混戦で状況を見失ってしまったのだろうか。
確かに何も、おかしくは、無い。
フェッチは、今まで以上に歯を食いしばった。
「―――っ、“ケディア”!! そっちじゃない!! 俺はこっちだ!!」
「うへっ!? わわっ、踊ってて分かんなくなってた!!」
「なっ―――」
戦場に負けぬよう喉を破く覚悟で出したフェッチの怒鳴り声に、見当違いの方向に駆け出そうとしたケディアは、普段通りの音質のまま慌てふためいた。
その直後、地響きが鳴ると言ったら失礼なのだろうが、大気を揺らしてケディア=レンダーが突撃してくる。
“知恵持ち”の魔物からは特にだが、長く戦えば戦うほど治癒担当者は狙われやすい。戦いの中でも徐々に学習するのだ。
そんな治癒担当者のケディアだが、いざというとき自力で身を守る術をもちろん持っている。
最もよく使うのは全力疾走による離脱だった。
しかも恐ろしく速い。フィジカル面での性能がフェッチどころか人類と違い過ぎる。
負傷者の魔導士は、自らの元から突如として駆け去ったケディアの衝撃に吹き飛ばされたように倒れ込んだ。
ファリオベラの突撃の方が可愛く見える勢いのまま駆けたケディアは、フェッチの眼前で急停止した。
失礼なことを考えていた天罰か、フェッチは馬車に跳ね上げられたような泥をどっぷりと被ると、空に手を突き出しながら、負傷者の魔導士に目を凝らす。
突然の事態に、男は目を丸くしていた。
その―――“真っ赤な瞳”を。
「タガイン」
時差を付けて放ったイエローの魔術はふたつ。
豪雨の中魔術を走らせ、上空でぶつけた。
地上からの流れ弾ではあり得ない挙動だ。
『全員ゴーッ!!』
よく察知できるものだ。
頭に直接響くような声と共に、フェッチはケディアを掴んで離脱する。
それと同時、各方面から、今まで以上の轟音が巻き起こった。
「づ―――」
キン、と、激痛と共に耳が壊れる。
駆け続けたフェッチは、見繕っていた抉れてできた大地の落差に飛び込むように潜り込むと、ケディアごと囲う盾を展開してうずくまった。
別の場所でも、魔導士隊が誘導し、状況を把握していない旅の魔術師たちを守っている。
あの『盾』の少女のところが一番過ごしやすそうだが、自分も金曜属性だ、多少ならケディア含めて守り切れるだろう。
今から起こる、大行軍から。
「わわわわわ!」
大量のファリオベラが負傷者の魔導士の元へ雪崩れ込む。
それも一方向だけではない。
四方八方から、突如として響いた爆音に慄き、大群が、距離を取るべく同時に駆け出したのだ。
フェッチが展開した盾を踏み越え、雪崩のように暴れ狂う。
どんな魔物にも習性というものがある。
習性があるから魔物対策の罠というものが成立するし、習性があるせいで魔術師試験や魔導士試験にうるさいくらい出てきやがったのだ。
馬のような魔物であるファリオベラの習性のひとつには、大きな音を避けるというものがあった。
発達しているという聴覚の影響であろう。
奴らはとにかく耳がいい。
人間が叫んだくらいではものともしないし、戦闘中に威嚇しても効果は薄い。
だが、こんな混戦で状況把握ができないのはファリオベラも一緒のはずで、そんな中、突如として最大級の轟音が鳴れば、反射的に距離を取ろうとするだろう。
すべてのファリオベラが同じタイミングで同じ行動を取るとは限らなかったが、相当数が思った通りの反応をした。
フェッチも似たようなことをしてファリオベラをこの場所に誘導したのだ。
そんな大量に集まったファリオベラは、たまたま逃げた先にいた負傷した魔導士を、反射的に襲い始めた。
最早魔導士の姿は見えない。大群の暴走が、一か所に集中した。
膂力に優れたファリオベラの大暴走に、人ひとりなど、骨も残らないかもしれない。
ファリオベラの通過を待ち、よろよろと立ち上がったフェッチは、歯を食いしばり続けていた。
ファリオベラの群れが暴れ狂う、魔導士の男がいた、“ケディアが元々いた位置”を睨む。
「くそ。飲み仲間だったんだぞ」
大量のファリオベラが取り囲む中央から、爆音が聞こえ始めた。
ファリオベラの戦闘不能の爆発だろう。
ファリオベラが嘶き、暴れ、しかしまた爆音が聞こえる。
上手く集まってくれたファリオベラは、この付近にいる全体の半分か、それを超えるくらいだろう。
徐々に、しかし確実に数が減っていく。
この時間だけが、自分に許された休憩時間だ。
フェッチは、顔の泥を力いっぱい強引に拭い、目減りしていくファリオベラの群れを、呆然と見つめていた。
「……説明くらいはしてもらいな。どの魔導士も知らなかったみたいだけど?」
隣のケディアが息を呑んだ。
この場に集まったファリオベラの最後の一頭が爆発したとき、爆心地には、ほとんど死体に近い、“先ほどとは別の”魔導士がいた。
血みどろで、骨を晒し、片足に至っては見当たらない。
その男とはプライベートの付き合いは無かったが、瞳が赤くなかったことだけは覚えている。
フェッチは、震える拳を抑え込み、睨み続ける。
ようやく見つけた、『最古の蛇』を。
「説明も何も、起こった通りだ。ケディアは、魔導士がひとりで近づいてきたら、即座に離脱する。俺は瞳の色か魔力の色を確認して、『最古の蛇』なら信号を上げる。あとは合図を受けた魔導士たちが、それぞれの方法で騒音を出してファリオベラを誘導したってだけだ」
ファリオベラに襲われ、半死半生の魔導士が、いや、『最古の蛇』が、崩れるように倒れ込む。
しかしその“死体”は銀の粒子となり、その場でまた別の人間の形になっていった。
“脱皮”、
何度見ても背筋が凍る。
そして、現れた顔に、フェッチは流石に顔をしかめた。
「だから僕はファリオベラの群れに襲われた、なるほどなるほど、……なーんて、言うわけないだろう?」
依頼参加者の旅の魔術師、パイン=キューマ。
彼女も『最古の蛇』の被害に遭ってしまっていたか。
治癒担当者の筆頭を失ったのは、痛い。
「『明日の影』がいるような危険地帯、苦労して新たに魔導士を5人も手に入れたのに、全部脱皮する羽目になったじゃないか。僕が何故ここに来ると思った。土産話でもないと骨折り損だ」
パインの姿をした化け物は、美しかった。
燃えるような赤い瞳が、ただただ綺麗だった。
ただ狂っているとしか、感じられなかった。
常識外をいちいち相手にしていたら身が持たない。
短い休憩を取ったのは失敗だった。休日明けの勤務のような倦怠感を覚える。
フェッチは、職務放棄した。
「俺は言われた通りにやっただけだ。そいつは彼女たちに聞いてくれ」
そこで、また、頭に声が響いた。
『こーらフェッチ。仕留めろって言ったでしょう』
「見つけりゃいいって話だったじゃないですか」
『最古の蛇』はパインの顔をしかめ、ふと気づいたように、ゆっくりと空を見上げる。
そこには、土色の巨獣が飛んでいた。
「……君たちが?」
イオリの召喚獣に乗るふたりが、さらに上空の金色の龍を気にもせずに『最古の蛇』を見下ろしていた。
泥に塗れ、銀の世界で、視覚情報は頼りにならない。
だが、イオリの瞳が、恐ろしく冷えているように感じた。
「やあ。『最古の蛇』で合っているよね? あくまで推測だったから、根本的に大外れだったらどうしようかと気が気じゃなかったよ」
声は、普段通りに聞こえた。
「参考までに聞かせて欲しい。ここに来てから、“何人被った”? 今僕らが把握している行方不明者と照合したいんだ」
「先に質問したのは僕の方だったはずだけど?」
「ん? ああ、そういえば何か聞いていたね」
イオリは、今思い出したように顎に手を当てて記憶を辿るような仕草をした。
明らかな挑発だ。
『最古の蛇』が、フェッチのように、歯を食いしばったのが見える。
「君が何故ここに来ると分かったか。それはね、今ここが最も混乱した場所だからさ」
イオリはにこやかに、友人に語らうように続けた。
「君好みだろう? 手厚く魔導士隊に守られている民間人たちの避難所や、飛行種の大群が暴れ回っていて少ない精鋭しかいない北部より、人がまばらに戦っているここは紛れやすいし、とりあえず来たくなる。蛇と言うより落とした飴玉に寄ってくる蟻みたいだね」
「……」
フェッチは思う。彼女と友人になりたくないと。
「ホンジョウ=イオリ。随分歪んだ性格をしているね?」
「はは、でも君の言う歪んだ性格のお陰で、歪んだ君の次の動きも読めたんだ」
イオリはフェッチの隣に立つ、ケディアをちらりと見た。
冷え切っていると思った瞳が、ほんの僅かに、熱を持った。
「……ケディアを探していただろう? 最初に現れたとき“失敗”した相手だ。使ったのはわざわざ持参した短いナイフ。離れて魔術を放つのではなく、相手にも実感を持たせて殺したい。クラインに嘘も吐かせなかったし、人を小馬鹿にするのが好きなんじゃないかな? 執着心が強くて、他者の理解を求めないのに、他者からの注目は好む、稚拙な思考を持つ。だから自分の意識を改めることができなくて、失敗をとにかく清算したがるタイプだ」
ずげずげと言うイオリに、『最古の蛇』は目を細めた。
今はパインの顔だが、怒りを堪え、聞き流そうとしている様子に見える。
人の言葉に耳を貸さない者の特徴が、当てはまっているように思えた。
そして案の定、この乱戦に訪れた『最古の蛇』は、独立して行動しているケディア=レンダーに、負傷者を装い、いやもしかしたら、わざと“負傷者となって”近づいたのだ。
『最古の蛇』を釣る餌となってしまったケディアには勿論作戦を伝えていたが、この場で戦う他のほとんどの者には伝えていない。
『最古の蛇』の特性上、全員で共通認識を持つことはリスクでしかない。
読み通りにケディアの元に訪れてくれたからよかったものの、他の者はいつ狙われてもおかしくない状況で戦う羽目になっていた。
それだけ、余裕が無い状況だった。
「質問をした僕が悪かったね。ええと、なんだって? 話が長いよ」
「ああすまない。気分を害したなら悪かった。誤解しないで欲しいんだけど、君に伝えたかったのはそんな話じゃなかったんだ。……ご苦労様と言いたくてね」
イオリが、気づかれにくい範囲で周囲に視線を這わした。
「僕はずっと考えてたんだ。この異常ラッシュの、どれに誰をぶつけるか。『明日の影』はマリサスが、デオグラフはサクラが。そこまではすぐだったけど、みんな忙しくてね。だから―――“ファリオベラには『最古の蛇』をぶつけることにしたよ”。ね、アラスール」
「イオリちゃん。今私の名前を出すと、私まで性格悪く思われちゃうじゃない?」
今口を挟んだら後が怖い。
フェッチは『最古の蛇』へ押し寄せたファリオベラの爆心地を見据えた。
大多数がここに押し寄せていた。
そんな暴れ回る魔物の大群は、『最古の蛇』が討伐してくれたのだ。
今なお他の場所で戦う者たちの負担が大幅に減っただろう。
いや。
”討伐したのは、『最古の蛇』ではない”。
「―――僕の質問に戻っていいかな。“何人被った”?」
イオリの声は、いよいよ、普段と変わり始めていた。
「波のように襲ってくるファリオベラの大群の討伐。流石ヨーテンガースの魔術師たちだ。命懸けで……いや、“命を捨てて”対応すれば、対処できるだろう。それで―――“何人使った”? 何人の命を奪ったんだ……!!」
『最古の蛇』が周囲の様子に気づく。
『最古の蛇』の精神分析が当たっていたかは知らないが、イオリの話は、ただの時間稼ぎである。
今、この周囲には、距離を取って魔導士隊の者たちが集まっていた。
どれもふたり一組である。
騒音を立ててファリオベラを誘導する作戦を伝えた、ごく一部の魔導士たちだ。
彼らは、ドラクラスの魔導士隊の者たちである。
徹底的に命令を守り、確実な成果を上げる者たちだ。
事実、『最古の蛇』に“被られた”のは、応援で呼ばれた魔導士たちばかりだろう。
融通の利かなさは、強力な武器なのだ。
与えた指示は、シンプルらしい。
旅の魔術師たちのようにバディを組み、どこかの組がひとりでも欠けていたら白紙に戻って変更される作戦を寸分違わず覚え、自らも暴れ回るファリオベラと戦いながら旅の魔術師たちの戦いをフォローし、特に重要な治癒担当者のアルティア=ウィン=クーデフォンや、合図を上げるフェッチが被害に遭ったら即座に報告を上げられるよう、適宜視界に収め続け、持ち場を離れず、どのような状況であってもアラスールからの合図を受けたら即座に指示通り実行するだけである。
フェッチはドラクラスの魔導士たちが自分たちの部隊に欲しくなってきた。
「今度は逃がさないよ―――必ず仕留める」
イオリは僅か肩を震わし、『最古の蛇』を取り込んだ魔導士たちの配置を睨むように見た。
怒ったときのアラスールを思い出す。
配置に1ミリでもずれがあれば即座に殴り飛ばされそうな、そんな恐怖を覚えた。
「……?」
そこで、一瞬イオリの表情が、驚き、ざわめいた気がした。
「……ふ、ふふ」
「どうかしたのかな?」
「いいえ、そっか、“私”、あなたの仮説を聞いていたから、避難誘導に回ることになったんだ」
「……」
「なんでそんなに気が立っているのかと思ってね。まあいいじゃないか、さっきの話、実は聞いていたのを思い出したよ。君は失敗は清算しなくてもいいと思うタイプなんだろう?」
イオリから分かりやすいほどの殺気が漏れた。
『最古の蛇』の今の姿であるパイン=キューマ。
この騒ぎが起きる直前、フェッチも、彼女がアラスールやイオリと共にいるのを見ている。
たまたまいたわけではないだろう。
あの場にいたことで状況把握が早まり、彼女は避難誘導のために方々を駆けずり回ることになったのだろう。
そしてその結果、『最古の蛇』に、隙を与えた。
「あの場にいなければ、”私”は死なずに済んだのに……! なーんて。君の判断は間違っていないよ、多くの人を避難させられた。……“私”は死んだけどね」
『最古の蛇』は、にっこりと笑った。
「暗い顔をしないでおくれ。何でも計算通り、って顔の女性も僕の好みなんだよ。ああ、君を被れたら、僕はどれほど幸せだろう」
「……悪いけど」
イオリは、か細く呟いた。
彼女の感情は、いよいよ分からない。
だが、様々な感情が読み取れる表情の奥、一番読み取れる感情は、困惑だった。
「計算通りって顔、もうできないかもね」
「あー! やっぱいたいた、目が赤い。あれでしょ、サイ、コロ……? ……ううん?」
魔導士隊が取り囲む外から、大雨の中、傘を差した女性がずんずんと歩み寄ってくる。
融通の利かないドラクラスの魔導士隊が静止にかかるが、考え事をしたままの彼女が掴むと、大の大人が物のようにどかされた。
倒れ込んだ魔導士に視線を向けることも無く歩み寄る彼女は、ふと、眉を寄せて立ち止まる。
くしゃみが出そうな、そんな表情だった。
現れたのは、今までどこにいたのか、エレナ=ファンツェルンだった。
優雅に腕を組み、記憶を掘り返すように顎に手を当てている。
彼女の部分だけ雨が止んでいるような気さえした。
いや、事実彼女に雨が降っていない。
彼女が差していると思っていた傘は、隣の強面の男が持っていた。
「シーン=アーチ。今まで何を」
「……ん? フェッチ=ドッガーか。どうでもいいだろう」
考え込んでいて触れにくいエレナを一旦無視し、フェッチは彼女のバディでもあるシーンに聞くと、彼にしては珍しく弱い声を出した。
強面から分かりにくいが、羞恥心はあるだろう。
エレナだけに傘を差していたせいでずぶ濡れだ。
エレナにも泥は跳ねているようだが、ぼろぼろのシーンが隣にいると目立たないほどである。
あれも依頼された仕事の一環なのだろうが、小娘にいいように使われているように見える姿に触れて欲しくは無いのだろう。
「ああそうそう! 『最古の蛇』、だったわね。ほら、思い出せるじゃない。最近、アキラ君に物覚えが悪いとか言われたの気にしてたのよ」
エレナは、イオリ以上に、友人のように笑い、『最古の蛇』に語りかける。
そして、イオリ以上に、鋭い殺気を放った。
彼女はこの依頼参加者の中の、“異常者”筆頭だ。
「さっさと出てこないから私の服が濡れたでしょうが。死に方も選ばせてあげないわ」
周囲の魔導士隊全員が今まで以上に濃い戦場の匂いを察知した。
いつ殺し合いが始まってもおかしくない状況に、この場の全員に緊張が走った。
「殺す? 僕を? どうやって?」
しかし『最古の蛇』は、心底不思議な顔を浮かべた。
「見つけたのはいい。取り囲んだのはいい。いや正直悔しいよ。完全にやられた。……で、そのあとは? 僕がどういう存在なのかも知らないのに?」
『最古の蛇』は小馬鹿にするような笑みをパインの顔で浮かべる。
確かにここから先は未知の領域だ。
『最古の蛇』は、殺されても“脱皮”する。
討伐しても、次の“誰か”になるだけなのだ。
だが、魔導士として、考えうるすべての殺害方法を試していけば答えはあると信じるしかない。
『最古の蛇』の言葉に、同じように思考を働かせた魔導士は他にもいるだろう。
召喚獣に乗るアラスールやイオリも一定以上の答えを出しているだろうが、今答えは聞けない。
「あー。そんなに自信満々なら探した甲斐もあったわ。やっぱそうなのね。私、試したいことがあんのよね」
そんな中、エレナが、軽々しい口調で言った。
だが瞳に宿す殺気は、今まで以上に、貫くように『最古の蛇』を射抜いていた。
「―――“定義型”の魔物。ちょうどいいとこで遭えたわ」
「……!」
『最古の蛇』がパインの顔を潜めた。
『最古の蛇』は、“寄生型”であると想定していたが、違うのだろうか。
だがそれ以前に、“定義型”。
そんな魔物の分類を、魔導士であるフェッチですら、聞いたことが無い。
不可解な言葉だと思ったのはフェッチ以外の魔導士もだろう。
しかしエレナは場を置き去りに、気にもせずに拳をゆったりと握った。
「待った、待ってくれよ。みんなが怒っているのは分かった」
あわや戦闘が始まるかと思った瞬間、『最古の蛇』は、両手を上げ、パインの顔を悲痛に歪めた。
「仕方ないだろう、被るのは僕の習性みたいなものだ。それに、雑に扱っているわけじゃない。大切にしているつもりだ。今回みたいに“ストック”が欲しいときは別だけど、本当にたまにしか被りたいと思う相手はいないんだ。同種も見つからない、長い孤独をひっそりと生きる、僕の些細な慰みなんだよ」
フェッチは頭を働かせる。
「そんなひっそりと生きている僕なんて、“奴”に比べたら無いにも等しいじゃないか。気づいてる? “あの化け物”は―――」
「―――“時間稼ぎだ”!!」
フェッチは吠えた。
それと同時、意識が、どうしても割かれるものを見つけた。
この作戦を知らない者たちからしたら、数は減ったとはいえ暴れるファリオベラの対処に当たりもせずに集まっている魔導士たちの光景は異質だろう。
周囲の様子を窺い続けていればなおさらだ。
『最古の蛇』は、待っていたのかもしれない。
イオリに足止めされ、魔導士に取り囲まれたときから、僅かでもいいから隙の生じる瞬間を。
「あのあの。皆さん一体何を……、……あ。パッキーじゃないですか」
偶然だろう。“不運”だった。
エレナ=ファンツェルンが現れたときですら警戒を怠らなかった魔導士たちが、指示された通り、現れたアルティア=ウィン=クーデフォンを一瞬視界に収めるタイミングが、重なった。
その瞬間、『最古の蛇』の赤い瞳が、一層光った気がした。
「っ―――」
一瞬視界が暗闇に染まった。
フェッチは即座に事態を把握する。
この場はもともとマリスの魔法によって銀世界になっているが、彼女の調整だろう、多少見辛くなるとはいえ、目がくらむような光ではない。
そんなシルバーに慣れた目であれば、同じ月輪属性の『最古の蛇』が発光しただけなら対処できたできた。
だが恐らく、今のは逆だ。
『最古の蛇』は、ずっと前から、そんな銀の世界に自分の魔力を混ぜるように放ち、この周囲の光度を徐々に上げていたのだろう。
マリスの魔法に紛れれば気づかれにくい、自分だけのシルバーの世界を作っていた。
そして今、“一瞬でそれを解除した”。
疲弊し切った目は光度の落差に適応できない。
立ち眩みを起こしたときのような眩暈に、たまらず『最古の蛇』から視線を切ってしまう。
「きゃ!? なんて事させんのよ!!」
「づっ、きっ、君が掴むからだろう!!」
ぞっとした。
騒ぎに目を向けると、即座に襲い掛かったらしいエレナ=ファンツェルンが、『最古の蛇』の、パイン=キューマの、右腕“だけ”を掴んでいた。
反射的にエレナが投げ捨てた隙、腕を捥がれたのか自分で落としたのか『最古の蛇』は、片腕の姿で最も配置が乱れた魔導士へ駆けていく。
一瞬だけでも怯ませてからの強行突破が奴の狙いなのだろう。
『最古の蛇』がなりふり構わず駆け続ける中、魔導士はすぐに意識を切り替え、反射的に魔術を放つ。
身を守るように掲げたパイン=キューマの左手が焼けただれるも、その足は止まらず、そのまま魔導士を抜き去ってしまった。
『最古の蛇』が包囲網の外に出る。
フェッチは歯噛みした。
今のはこの陣形を崩さないことを優先すべきだった。
『最古の蛇』を囲みながら距離を取り続けなければ、ああして抜かれてしまう。
「エレお姉さま!? 待ってください、パッキー!! 今すぐ治療しないと!!」
「ひ……、ま、待って! よ、様子がおかしいよ!」
おどろおどろしいパイン=キューマの姿にティアが駆け出し、バディのキュールもそれを追う。
フェッチも同じように追うが、真反対に逃げられた上『最古の蛇』の動きが速い。
先程ファリオベラに襲われながらも討伐してみせたときと同じだ、やはり“被った”相手の力はそのままということなのだろうか。
パイン=キューマも治療者ながらそれなりの戦闘力を持っていた覚えがある。
いや、それ以上かもしれない。ほとんど足だけしか残っていないのに、バランスも崩れずに速度が落ちなかった。
恐ろしく不気味な光景だが、ただ走っただけではすぐには追いつけない。
「ぐえっ!!」
駆けていたティアの首元を、エレナが掴んで強引に止めた。
エレナは瞳に殺気を宿したまま、離れていく『最古の蛇』の背をちらりと見て、今度はぎろりを睨んだ。
「魔導士ども!! 見えてんだろ!?」
「ああ、もちろん見えているさ。もう見失ったりしない」
陸路でも追えばまだ追いつくだろうが、そもそも飛翔する召喚獣を操るイオリが『最古の蛇』を捕捉している時点で逃げても意味が無い。
今の包囲も即席だ。あくまで捕捉することが目的の作戦である。
フェッチ自身、ティアが来なかろうが目くらましを喰らわなかろうが、逃げられる可能性は高いと思っていた。
イオリはただの悪あがきだとでも言うように、つまらなそうな表情を『最古の蛇』が駆けていく方向へ向けていた。
「ところで魔導士ちゃん。あんた、あれをどうするつもりだったの?」
「どうって、大したことはしないよ。『最古の蛇』は人間そのものになるんだろう? 色々試してどうにもならなかったら、自害も出来ないように拘束して、光も音も届かない場所に永久に投獄すればいいんじゃないかな」
やはり彼女とは友人になれそうにない。
背筋が凍るようなことを平然と言った。
「ふうん。聞くんじゃなかったわ。……そんなんならあれ、私に使わせて」
イオリが『最古の蛇』を追おうと召喚獣の上で身体を傾けたとき、エレナが軽々しく言った。
彼女とも距離を取った方がいい気がする。
絵本から飛び出して来た未知の怪物を、自分に都合のいい道具のように捉えているようだ。
だが、彼女は何かを知っている。
“定義型”の魔物。
それは、はたして何なのか。
「エレナ?」
「言ったでしょう。試したいことがあんのよ。だから私が殺しといてあげるわ。……多分、面倒なことになる。しょうがないけど、魔導士ちゃんも認識が甘いかもね。あんたらは下手に逃げ出さないようだけしてなさい」
魔導士隊が繰り返し取り囲み続ければ、いずれはイオリの言うように『最古の蛇』を無力化できるだろう。
だがエレナの口ぶりは、その安全策では届かないかのようだった。
「親切な私が忠告してあげるわ―――“私が殺るから近づくな”。その辺にいる魔導士どもも死にたくはないでしょう。……じゃ、途中まで乗せてって。……ん?」
エレナはイオリの召喚獣に飛び乗ろうとした直前、足元に、座り込んでいる少女の存在に気づいたらしい。
「……エレお姉さま。もしかして、パッキー、は」
「そうね。殺されたみたい」
「あ、あああ……」
ティアが震える声を絞り出した。
彼女も『最古の蛇』の話は聞いているだろう。
パイン=キューマは死亡した。依頼参加者の様子を窺っていた際、治癒担当者同士の交流もあって、ティアとよく話していたのを何度も見ている。
彼女が被害に遭ったということは、バディのホワーグ=ヘッジの生存も望み薄だ。
「でも、ちゃんと、パッキーでした。大怪我をして、痛そうで、ま、まだ、間に合うんじゃ……」
「パッキーって娘は、もう死んだの」
端的に言ったエレナに、ティアの喉の奥が短く鳴った。ついに涙が零れる。
『最古の蛇』。
死者を被って操る絵本の住民。
赤い目を見た瞬間、手遅れだと思う必要がある。
だが、彼女は受け入れていない。受け入れられていない。
しかし彼女を見ているとフェッチは思う。
こう思う、べきなのかもしれないと。
ありもしない希望に縋る彼女を、愚かだとは思えない。
魔導士の頭脳は優れている。判断を間違えてはいない。
だが、パインの赤い瞳を見て、治癒担当者がどうこうとだけ考えた自分の頭は、悪すぎる。
エレナはどうなのか。
ただ現実に向き合っているだけの者なのか。
存在しない希望を抱きながら、それでも前に進もうと藻掻く者なのか。
現れたときは前者としか思えなかったが、涙を流し続けるティアを見下ろす、見守るような瞳をした今の彼女からは、判断がつかなかった。
「おい。……ええと? なんだっけ。傘はもういいわ、ありがと。あとはガキどもの面倒でも見てて」
「……っ」
シーンが震えながら頷いた。
名前すら覚えられていない上、『最古の蛇』のときのように思い出そうともされず、子供の相手を押し付けられている。
今でもシーンを信頼しているわけではないが、扱いの酷さに親近感を覚えた。
エレナがイオリの召喚獣に飛び乗る。
そろそろ追わねば間に合わないだろう。
代わりのように、アラスールが降りてきた。
全体への指示は済ませているらしい。
「じゃあアラスール。少しの間お別れだ。僕は極力同じ高さで『最古の蛇』を捕捉し続ける。目印になるから魔導士隊への指示は頼んだ」
「分かったわ、広い範囲で包囲しておく。エレナちゃんに任せた方がほんとによさそうだしね?」
イオリの召喚獣が飛び去った。
彼女は行動が感情に左右されない人間に思える。
それが彼女がそもそもそういう人間なのか、押し殺したものなのかは他人からは分からなかった。かける言葉が見つからない。
そして今、目の前で泣き崩れているティアは、感情で動く。こちらにも、かける言葉は見つからなかった。
これでも人の親だというのに。
フェッチは、雨に濡れた髪をかき上げ、頭を振った。
感情のままに動く者、感情を殺して動く者。
様々だが、どれも人の一面でしかない。
自分が見ただけで、相手はこういう人間だと思い込むのは、まさに、視野が狭いことなのだろう。
「……次、だな」
自分が冷徹な人間に見られるのを覚悟で、フェッチは目の前のことに意識を戻した。
まだまだ仕事である。
ファリオベラの残党に、逸れたデオグラフ、拠点の重要資材の確認に、民間人の保護とやることはまだまだ山積みだ。
フェッチは駆け出す前に、最低限残った温情で、ティアとキュールを前に、険しい表情で立ち尽くすシーン=アーチに歩み寄った。
これも彼の一面なのかもしれないが、感情を抑え込むように震えるシーンの肩に手を置く。
「……なん、だ。あれは」
「ドラクラスにいい店を知っている。戻ったら奢るよ」
―――***―――
自分は他の人間とは違う。
そういう思考が存在すること自体、知らなかった。
お人形のようだと言われる自分という人がいて、愛してくれる父と母という人がいて、お世話をしてくれる爺やと使用人、そして来賓。
それぞれに差があるとか、そういう発想自体なかった。
生まれたときから、環境がそういう形をしていたからだ。
カタリナ=クーオンが過去を思い起こすと、一番鮮明なのは、幼い自分が屋敷の廊下を歩いている光景だった。
隣に爺やはいつもいて、前には先生と呼ぶ人がいる。
先生は、習い事の数だけいた。
時折振り返ってきては笑ってくれる先生たちのことは、今でもよく覚えている。
にこにこと笑いかけてくれ、優しくて、教え上手で、格好良くて、誰も彼も大好きだった。
だが、色々なことを教えてくれる先生たちが、時折、さっと顔を青くすることがある。
廊下の窓の外、白い塀の向こうでよく、自分と同じくらいの子供が、木の棒を振り回して遊んでいた。
先生たちは好きだが、難しい習い事は好きじゃない。
あの子たちはいつもあそこで大はしゃぎしていて、今日の習い事が終わったのだろうから羨ましく見えた。
習い事の日は、つい、少しでも時間を稼ごうと、足を止めて大笑いする子供たちを窓から眺めていた。
先生は、爺やが口を挟むまで、何も言わずに並んで外を眺めてくれる。
カタリナは、その時間が大好きだった。
大好きな先生たちは、よく入れ替わった。
あれだけ優しくしてくれた人たちが、いつの間にか別の人に変わる。
新しく来てくれた人たちも大好きだ。
だから、いなくなった人たちは、きっと今忙しいのだろうくらいにしか、思っていなかった。
自分が違うと分かった明確なきっかけは特になかった。
爺やにも幼い頃があり貧困な生活をしていたと聞いたとき、窓の外で遊んでいた子供たちに父と母がいないと知ったとき、自分が窓の外を眺めることが先生がいなくなるきっかけだと気づいたとき。
それぞれのときで、理解できない疑問が蓄積し、いつの間にか、当たり前だった環境に色付けができるようになっていった。
そして、お人形のようだと言われるのは、ただ自分の機嫌を取るために大人たちが良い意味でそう言っていただけで、自分で“悪い意味でそうなのだ”と気づいたときも、明確なきっかけはなかった。
記憶の中、自分の背よりずっと高かった廊下の姿見の前に立つと、いつもそこには、冷や汗をかいてにこにことした先生と、心配そうな表情をしている爺やと、氷のような瞳を携える自分がいる。
ずっとそういうものだと思っていたから、気にしたことは無かった。
だから、自分が他の人間とは違うと気付いたのは、随分後だった。
人は、嬉しいと、笑うらしい。
人は、不満だと、冷たくなるらしい。
人は、感情を、表に出すものらしい。
窓の外、棒切れを振り回して大笑いしている子供たちが、感情の無いお人形のように見える自分とは違う、きらきらと輝いた存在に見えてきた。
自分が、武術を習いたいと言うと、父と母は涙を流して喜んだ。
カタリナが自分の希望を言ったのは初めてのことだと言うのだ。
そんなつもりはなかった。
今までの習い事も、難しいことは嫌いとはいえ不満は無かったのだが、そう思われていなかったらしい。
強いて不満を上げれば、大好きなたくさんの先生たちには、笑い方を教えて欲しかった。
始まった武術の習い事は、楽しかった。
心臓が張り裂けそうになるほど走り、翌日は指一本動かせないほどの激痛が身体中を襲い、それでも、その時間が待ち遠しい。
自分で選んだことに、全力で取り組んだのは、確かに初めてだったかもしれない。
その先生は、元は旅の魔術師という職に就いていたらしい。
そういうものだと思っていた自分とは違う人の人生に惹かれたのも、それが初めてだったのかもしれない。
旅の魔術師になりたいと言ってみた。
父と母は感極まったように泣き、爺やが怒る。
何か色んな大人が、何か色んな話をしていたが、何が起こっているかは分からない。
だけど、最終的には自分は旅に出られることになった。
好きこそものの上手なれと言うが、自分が始めて望んだらしい武術の習い事は、ぴたりと自分にはまったようだ。
旅をして、様々な経験をして、色々なことが分かってくる。
世界を知り、人を知り、自分がどれほど大切に育てられたのかが見えてくる。
育ちだけではない。
自分はやはり、人と違うらしい。
人はそう簡単に身体を折り曲げられないらしいし、顔を向けなければ前にあるもの以外見られないらしいし、寸分違わず狙った場所に刀を振るうのは難しいことらしい。
服が汚れるのはちょっと嫌だが、魔物の大群に囲まれても大したことでは無いと思うのは、どうやらおかしなことらしいのだ。
そんなことに気づいたのは、屋敷から付いてきた人たちが、カタリナとの同行を断念したときだった。
幼き日にいなくなった先生たちとは違うことには気づけた。
彼ら彼女らは、口々に、これ以上足を引っ張るわけにはいかないと、頭を下げて去って行ったのだ。
彼ら彼女らは、視野角の広い自分なんかより、ずっと大きな何かが見えている気がした。
カタリナの歩む道の先は、カタリナとは違う人が介入できる領域ではないと言う。『武の剣帝』は大きなことを成すと、難しいことを言うのだ。
カタリナは、その人たちの言う通り、彼ら彼女らを止めなかった。
楽しかった旅は、いつしかひとりきりになった。
方々立ち寄った村や町では、離れたところから、自分の様子を窺う人がいたが、話しかけにいったら、次からは無理をして隠れるようになってしまったので、放っておくことにした。
依頼の帰り、川を覗き込むと、氷のような瞳が、いつでもそこに映っている。
頬に手を当て、引っ張り上げても、表情はあまり変わらない。
自分は人とは違う。
カタリナは初めて、自分が不幸なのだと感じた。
人が言う、大きいこと、小さいこと。その差もよく分からない。
カタリナにとって、全部同じだ。
大儀なんてない。
ただ、自分が興味を持ったことを、みんなと一緒にやるだけでよかった。
そうならなかったのは、きっとお人形の自分のせいだ。
感情を表に出さず、希望を言わず、言われた通りにしてきた自分が、自分を人とは違う人にしていただけだ。
顔に出さなければ、言わなければ、何も伝わらない。
また、やりたいことが見つかった。
そんな旅の先。
カタリナ=クーオンは、大きな敗北を喫することになる。
「―――はっ、はっ、はっ……!!」
エリサス=アーティは、小雨の中を走っていた。
勢いの治まった雨の中、“甲高い轟音”が至る所で鳴り響いている。
いつまた雨が勢いを増すか分からない。
多少は視界の晴れた今、エリーは周囲の哨戒に奔走していた。
この北部にいる民間人たちの人数は、南部と比べればさほど多くないらしい。
もともと宿泊エリアが南部にあることもあり、こちらの方に来る人は対していなかったのだろう。
だがそれでも数はいて、その上で、魔導士隊の人員も少ない。
避難所は大勢の人が押し込まれ、魔導士隊は接近してくるデオグラフたちに対処しつつ、豪雨による土砂崩れなどの被害の対応に追われていた。
民間人たちの命が懸かっている。感情を抜きにしても、民間人たちの働きが無ければこの大人数が生きて『名前のない荒野』を出ることは不可能だ。
魔導士隊の仕事に、万にひとつも漏れは許されない。
そんな優秀な魔導士隊が民間人たちを完璧に守ってくれているが、“魔族”が間近にいるとなると話が違う。
どうにもならない不条理。
“魔族”はこの豪雨以上の天災だ。
魔族が有する力はその領域である。
大人しくしていれば過ぎ去るものでもなく、世界最高峰の頭脳を持つ魔導士隊が、一か八かで無茶苦茶に逃げ出すことも視野に入れるほどの存在なのだ。
そんな危険生物が暴れ回るエリアで、エリーは避難所からの脱出経路を確保していた。
避難所で警護していた魔導士隊の方々に事情を伝え、今、それぞれ決死の覚悟で哨戒を行い、避難所からの避難を試みている。
哨戒自体は順調だった。
あれだけいたデオグラフたちの数が激減している。
いきり立っていたように見えるデオグラフたちだったが、人間と“魔族”との激闘に、離脱していったのだろうか。人間よりもずっと賢い。
「くっ」
エリーは顔をしかめる。
魔導士隊がいくつか想定してくれたうちのひとつ、エリーが担当していた哨戒ルートが、拠点まで届いた。
だが、群れから逸れたデオグラフに、ファリオベラの姿も見え、構築した拠点が崩壊している。
北部のデオグラフが激減していることもあり、数だけで言えば現在の北部よりもずっと酷い。
拠点を通るルートは使えない。
エリーは拳を握り、即座に引き返した。
今の自分に出来ることは、とにかく身体を動かすことだけだ。
泥を蹴り上げ、走り続ける。
スライク、そしてカタリナは無事だろうか。サクの姿もあれから見ていない。
民間人の避難に徹しているつもりでも、また他のことが気になってしまう。
魔導士隊の方々も命懸けで戦ってくれているのだ。
余計なことを考えている場合ではない。
エリーが駆けながら胸を叩き、また抑え込もうとしたとき。
ふと、泥に塗れた、白い布が視界に入った。
「―――ひっ」
喉から声が漏れる。
エリーは、周囲に飛び交うデオグラフなど気にもせずに“それ”に駆け寄る。
そこには。
泥の中に叩き込まれ、塵のように討ち捨てられた、カタリナ=クーオンが、倒れていた。
「カッ、カタリナ!!」
うつ伏せに沈んでいたカタリナを抱き起すと、彼女はどっぷりと泥に染まっていた。
顔の泥を払い、口に含んだ泥をかき出し、ぐったりとしたカタリナの身体中を探る。
「……ぶ、……、ぐ、ひ、ひ……」
「あれ。カタリナ……?」
ぼんやりとした瞳が開いた。
カタリナはエリーの腕の中で泥を吐き出し、不気味な声が漏れる。
泥だらけで分からないが、外傷は負っていないように思えた。
エリーは心の底から安堵したが、彼女は身体中が脱力し、目の焦点も合っていない。呼吸も上手くできていなさそうだった。危険な状態かもしれない。
いずれにせよ、魔族が付近で暴れ、デオグラフが飛び交うこんな場所からは離脱すべきである。
泥に沈んでいたというのもあるだろうが、倒れたカタリナが襲われていないのは奇跡としか言いようがないほどの危険地帯なのだ。
一刻も早く避難所に戻り、魔導士や医学に明るい民間人に彼女を診てもらわなければならない。
転ばされた刀を拾って収め、まるで力の入っていない人形のような身体を起こし、エリーはカタリナを背負って歩き出した。
またどこかから、甲高い轟音が聞こえる。
スライクとバルダ=ウェズは、未だに激闘を繰り広げているのだろう。
虚ろな瞳のカタリナの横顔は、憔悴しきっていた。
指一本動かすことができないほど力を出し切ったのだろう。
彼女たちの戦いがどのような展開を迎えたのかは知らないが、あらゆる動作を理論値で行う彼女がこうなった理由は分かる。
魔族を前に命があるのは奇跡どころか異常だ。彼女は紛れもない達人である。
力を出し切っても届かないどころか、力を出し切ることすらできずに瞬殺されるような怪物である。
ゆえに、命を落とす前に、活動限界を迎えてしまった、迎えることができたカタリナは、それだけで奇跡の存在である。
しかし、そんなカタリナでも、あの世界には届かなかった。
当然ながら、生物は全力では動き続けられない。
全力で動けば動くほど早く、今のカタリナのように消耗し切ってしまう。
今もどこかから鳴り響き続ける轟音に背を向けながら、エリーはおぼろげに分かってきた。
理解不能だった、スライク=キース=ガイロードの長所のひとつ。
それは自分の妹や、エレナ=ファンツェルンにも通じるかもしれない。
強いと言っても、一言では説明できない。
攻撃力、移動速度、技術と、様々な能力があり、“異常者”たちはそれらの力がまさしく異常だ。
だがそれ以上に、戦場において最重要であり、しかし常人が最も得難く、それゆえに、彼ら彼女らと常人に最も差がある能力がある。
“継戦能力”。
彼らは、どのような異常を前にしても、“戦い続けられる”のだ。
―――***―――
天空の雷雲にて蠢く巨竜は、『名前のない荒野』に甚大な被害をもたらしていた。
自然の理を捻じ曲げ巻き起こる暴風豪雨は、岩山を水没させ湖を作り出し、かと思えば水という水が蒸発するほどの灼熱の日照りを容赦なく大地に放つ。
『明日の影』は、通常数千年かかるであろう自然環境の変化を、時計の針をねじ切らんが如く回し、あたかも世界そのものの寿命を縮めているかのように環境を暴れ続けさせる。
膨大な銀の魔法に守れた空間のみが生物が活動可能な空間であり、しかしその異質な存在のせいで、かえって“弾き出された異変”が衝突し合い、この世に存在しない理を持つ空間が生まれつつあるほどだった。
その地獄の間際。
亜空間と現世の境界線である銀の魔法の淵。
また別の災厄が、巻き起ころうとしていた。
「―――ハッ!!」
パンッ!! と稲光が弾ける。
金属同士のぶつかり合いでは発生しえぬ雷音が、現世の地上で鳴り響いた。
振るわれるのは人の身に比しても巨大な豪剣。
雷のように振り下ろされ暴風のように走るその『剣』は、銀の世界で暴れ回り、そのたびに、岩山大地を“抉り取る”。
対して受けるは黒煙纏う剣。
災厄そのものの大剣を受ければ灼熱の火花を飛び散らせ、大気を揺るがし音を割る。
『剣』同士が駆け回り、跳び回り、至る所で激突する『剣』の余波で、すでに周囲の原型は無い。
化け物と魔族の戦闘被害は、武具でもたらせる領域に無かった。
「ち―――」
振り下ろしを抑え切られたと思ったのも束の間、目下にあったはずの剣は布切れのようにひらめき、一瞬の内こちらの喉元に鋭く走る。
“だから剣を振るう”。
迷うことなく、振り下ろした剣を滑らせるように回し、力に任せて横切りの一閃を放った。
即座に跳んで回避した敵の背後にあった岩壁が両断される。
反射で身を引けば、上空からの振り下ろしが大地を穿った。
めくれ上がった大地の泥に迷わず飛び込み、姿をくらませ剣を走らせる。
そして、再び雷のような破裂音が大気を揺らした。
そこでようやく、幾度か前に斬り割いた岩壁が崩壊し、岩石が岩山から降り注ぐ。
ならばと構わず落石へ突撃する。
スライク=キース=ガイロードは、銀に包まれた世界で、それを崩壊させるが如く獲物を襲い続けていた。
『光の創め』の横やりが入ることが予想されたこの魔門破壊の依頼。
案の定、巨竜が蠢く天空で、『剣』のバルダ=ウェズが出現したのだ。
『明日の影』は未知の力で環境を操り、生物に対する害をおびただしいほど振りまく脅威そのものだが、その天空では、すでに別の“異常”が対抗していた。
“異常”と“異常”が衝突した相乗効果でかえって影響が増し、拠点の周囲が異常を超えた地獄に変貌しているようにも思えるが、スライクの知ったことではない。
そして、『剣』のバルダ=ウェズの出現とあれば、どうにかなっているものを相手するほど暇でもない。
スライクは、天空から降りたバルダ=ウェズを追い、地上に降りて来た。
それから起こっていることは大したことではない。
魔族ではあるが、巨竜と違い、人型の獲物だ。
ただの、『剣』と『剣』のぶつかり合いである。
「……スライク=キース=ガイロードは―――」
「―――はっ、相変わらず鼻に付く野郎だなあ、おい」
落石の中姿をくらまそうとするバルダ=ウェズへ向かい、岩山をかわし、あるいは切り裂き、最も早く“殺せる”位置に突き進む。
岩石に飛び乗りバルダ=ウェズを視認すると、獲物を狩るべく跳躍した。
即座に察知したバルダ=ウェズは、漆黒の剣を振り上げると、空中のスライク目掛けて振り下ろす。
「シ・ベアト」
ブッ、とバルダ=ウェズの剣が振るわれた。
その瞬間、斬撃をそのまま肥大化させたような黒煙を纏う一閃が、舞う落石ごと斬り割き空を走る。
受ける。いや、それよりも。
スライクは頭上の岩石を身体を反転して蹴り飛ばし、ぬかるむ大地に突撃するように落下する。
反動をそのまま身に受け、泥に塗れて駆け出し、攻撃を振るったばかりのバルダ=ウェズへ向けて振り上げる。
バルダ=ウェズが辛うじて防ぎ、また雷響が轟く。
落石の中暴れた『剣』は、泥を被り、それでもなお獲物の命を奪おうと狂気の光を宿していた。
「―――ち」
スライク=キース=ガイロードは新たな“殺せる位置”を探る。
だが、今回の敵が、今までの他の獲物のようにそうやすやすと仕留められる相手ではないことも同時に理解していた。
モルオールの魔門破壊以降、スライクたちが大きな依頼を請けるたびに現れるようになった『光の創め』。
その構成員―――『剣』のバルダ=ウェズは、漆黒の鎧に身を包んだ土曜属性の魔族である。
戦闘方法は至ってシンプルだ。
魔族の力をもって剣を振るい襲い来る。
他にも周囲の魔物の力を上げたり、斬撃を延長するような魔術を操ったりするが所詮それは補助的なものであり、本命は、やはり、『剣』なのだ。
スライクは“旅を始めてから”、ここまで自己の剣を正面から受け止められた存在を他に知らない。
魔物はおろか魔族相手にすら殺意を押し付け、相手を“強制的に受け手に回らせる”ことが、スライク=キース=ガイロードの最大の優位性であり基本戦術である。
相手に回避、あるいは全力の防御を強要するスライクの攻撃は、傍から見れば無計画に暴れ回っているように見えるも、相手の勝ち筋を根本から奪い去るという、シンプルにして恐ろしく合理的な行動だった。
しかしこのバルダ=ウェズ。
誰が決めたかは知らないが、『剣』を冠しているだけはあり、スライクの攻撃を通常の立ち回りの中で“受け止められる”。
魔族の中でも相当な上位。
力、魔力、そして技術。それらを組み合わせた水準はほぼ世界最高値と言っていいであろう。
そして当然、その最高水準を“継続できる”。
先ほど、技術だけであればバルダ=ウェズをも凌駕していたであろう刀の女がいたが、流石に魔族相手では持久力は及ばない。
決め切る前に、人間としての活動限界を迎えて倒れてしまった。
バルダ=ウェズを殺す動作のついでだったので泥に沈めてきたが、デオグラフが飛び交う戦場で今も生き残っているかどうかも、スライクの知ったことではない。
「……」
スライクは鋭く獲物を見据える。
降り注ぎ、止み、また突き刺すように降る豪雨や岩石の中、漆黒の騎士へ殺意を向け続ける。
単純な力、魔力、そして体力。
バルダ=ウェズは、ほぼ自分と互角かそれ以上と考えていいであろう。
珍しいことでは無い。“魔族という存在が人間に劣るわけが無いのだから”。
スライクの優位性は、属性、そして精々体格だろうか。
はっきりと強いと断言できるバルダ=ウェズに対し、スライクは考える。
面倒なことは、殺してから考えればいい、と。
「―――、」
あえてぬかるむ泥に足を取られ、流れるように身体を滑らせバルダ=ウェズの背後に回った。
足場に力を込め過ぎればそれだけ動きが鈍るが、それならそれでそういう移動をすればいい。
通常の動きに反したスライクの行動に、バルダ=ウェズは即座にその場から離脱した。
スライクと打ち合うことが可能であるゆえに、打ち合わないという選択肢も“能動的”にとることができる。
通常の獲物のように全力の離脱をしたバルダ=ウェズへの追撃を反射的に行おうとしたスライクは、強引に軌道を変えて再度回り込む。
直後、轟音。
スライクが脳天めがけて振り下ろした大剣を、バルダ=ウェズは両手で振り上げた黒煙纏う剣で受け止め切った。
「―――はっ、前が見辛そうな兜ごと斬り殺してやろうと思ったんだがな」
「……、…………」
漆黒の騎士の表情は、当然ながら見えない。
何か小さな呟きが兜から漏れているように思えるも、スライクは渋々改めて距離を取った。
『剣』のバルダ=ウェズ。
戦闘能力は、極めて高い。今までほとんど出遭ったことない領域の魔族である。
だがスライクにとって、最も異質と感じるのは、バルダ=ウェズから“情報”が読み取れないことだった。
心底残念なことに、世界は情報で溢れている。
スライクの眼前にある、あらゆる光景は、絵の具をぶちまけたような色とりどりの情報を、叫びを上げているかのように強烈に伝えてくる。
それがただの光景ではなく、個体ともなれば一層強烈だ。
言葉、表情、身動き、あるいは戦い方。
近くにいるだけでぞっとするほどの騒ぎを上げやがり、スライクは常々鬱陶しさを覚えている。
だが、バルダ=ウェズからは、黒点が落とされているように、ほとんど何も感じない。
ここまで近くにいて読み取れて“しまわなかった”のも、数えるほどもいない相手だ。
“必要ならば”と、脳の奥が、いや、“ここではないどこか”が、疼く。
スライクは、情報溢れる世界以上に鬱陶しいその感覚を、当然のように無視した。
そんなものなくとも、黒点のようなバルダ=ウェズから、唯一感じていることはある。
戦場の中、スライクは、くわ、と欠伸をした。
「……やる気がねえなら失せろよ。見逃してやる」
ピクリ、と。蠢いたバルダ=ウェズから、“情報”が感じ取れてしまった気がした。
案の定、というところだろう。
「前々から何のつもりか知らねえが、殺すつもりも俺の足止めのつもりもねえだろう。ほどほどに殺り合ったことにしてやっから、とっとと失せろ。俺も暇じゃねえ」
『剣』のバルダ=ウェズ。
戦闘力が極めて高く、情報が読み取れない、謎の魔族集団である『光の創め』の構成員。
その存在を、スライクは強く嫌悪していた。
何しろ、過去遭遇したときも、目的が“根本的に無い”としか感じ取れなかったからである。
他の『光の創め』は、離脱用の力を残しているとはいえ、こちらの撃破を確かに狙っていた。
だがバルダ=ウェズだけは、出現しても、いや、“出現することだけが目的”とでも言うかのように、適当に場を濁して適当に去っていくのだ。
そういう動きをする者は、人間にもいる。
例えば目的も分からないまま指示通りに行動する人間だ。
つまり、言われたからやっただけ。
それ自体は強く否定しない。世には言われたからやっただけでも、優れた成果を出す者もいる。
だがバルダ=ウェズから感じる僅かな情報は、言われた通りにしているにせよ、目的どころか言われたことすら忘れているような、そんな中途半端さを訴えてくる。
万物を斬り割くスライクの剣を受けられる。
達人の域に在った『武の剣帝』と同時に戦いいなし切ることもできる。
しかしバルダ=ウェズから、心ここにあらずというか、油断や慢心ですらない緩みを感じるのだ。
スライクにしてみれば面倒なことこの上ない。
バルダ=ウェズはそれでも常軌を逸した力を有するがゆえ、相手が出来るのがスライクしかおらず、しかしそのバルダ=ウェズは適当に場を濁し、茶々を入れてくるだけなのだ。
即座に撃破することが困難な上、目的意識も無く、ただ何となくいるだけの邪魔者と、遊んでいる暇はない。
「……。…………」
バルダ=ウェズは、黙したまま立ち尽くす。
漆黒の兜の中、表情はまるで見えないが、別にこのまま睨み合って立ち尽くしていてもいいとでも言わんばかりだった。
これがスライクの足止めのつもりならばまだ分かるのだが、下手をすればこのままスライクが立ち去っても追ってこない可能性すらある。
周囲の魔物を凶暴化させる魔術を操るがゆえに最優先で撃破を狙ったが、ここまでとなると、面倒だが魔物の方を全滅させた方がまだましだ。
今もどこかから戦闘音が聞こえてくる。
本当に立ち去ろうかとバルダ=ウェズを睨み、剣を収めようとしたとき、バルダ=ウェズからも力が抜けたのを感じた。
世界は情報に溢れている。
あらゆる光景が、あらゆる存在が、鬱陶しくも強く訴えてくる。
「……?」
情報が限りなく薄いバルダ=ウェズ。
感じ取ってしまった通り、バルダ=ウェズには強く戦う意思も無く、スライクに見抜かれたのであれば戦闘のポーズすら必要なく、ただ立っているだけでいいと思っているのかもしれない。
実はスライクの勘違いで、黒い甲冑の中は常に殺意に塗れ、今の様子も、こちらの油断を改めて誘っているだけなのかもしれない。
しかし。
様々な可能性がある中、スライクが感じたのは、感じ取ってしまったのは、全く別のことだった。
スライク=キース=ガイロード。
己が思うまま突き進み、それでも常人では到達しえない成果を生む“正答者”。
そんなスライクは。
そこで、“ミス”を犯した。
「お前―――本当にただの魔族か?」
「―――、」
瞬間。
スライクに、強い情報が突き刺すように襲い掛かった。
黒の騎士が震え、腰を落とす。
スライクはその僅かな動作から、はっきりと、バルダ=ウェズの“焦燥”を感じ取った。
「シ・ベアト……!!」
豪雨の中、振り抜かれた黒煙纏う剣はほとんど視認できなかった。
ほとんど反射でスライクは地面に滑り込み、その勢いのままバルダ=ウェズに突撃する。
「!」
バルダ=ウェズが、スライク目掛けて突撃してくる。
受ける。いや、それは無い。
スライクはバルダ=ウェズへ力の限り剣を振るった。
それはただの偶然でしかなかった。
互い互いを狙った結果でしかない、殺し合った『剣』は軌道がかみ合い、真っ向から衝突する。
火花。雷音。いや、崩壊。
剣は愚か地上に許されぬ、天を割る衝撃が堅牢な銀の魔法すらをも歪めてみせる。
「―――ちっ」
剣を合わせたスライクの腕に、今まで以上の衝撃が暴れ回った。
そして、今まで黒点のようだったバルダ=ウェズから感じる情報が、それ以上に溢れ暴れる。
今までバルダ=ウェズから微塵も感じなかった、強い目的意識。
スライクの―――“口封じをしなければならなくなった”。
それはただの偶然でしかなかった。
もしスライクが察知しなければ、バルダ=ウェズはあのまま矛を収めていたかもしれない。
もしバルダ=ウェズが、スライクの疑問が的外れだと装えば、スライクはあのまま立ち去っていたかもしれない。
天空の巨龍と銀の魔法が生み出す、亜空間と夢の世界の境界線。
生物が存在を許されぬ剣の世界で、また別の災厄が、巻き起ころうとしていた。
―――***―――
旅の魔術師魔導士魔導士分からない旅の魔術師分からない魔導士魔術師魔術師民間人分からない民間人民間人魔導士民間人民間人魔術師分からない魔術師旅の魔術師旅の魔術師……
「ちょっとちょっと、話を聞いて、」
「おらあっ!!」
エレナ=ファンツェルンは現れた小太りの男に全力で拳を叩き込んだ。
今のはどうやら一般人だったらしい。
首から上が吹き飛ぶほどの拳を受け、グロテスクな光景になると思いきや、ぎりぎりのところで銀の粒子となって再び“何か”を形作る。
一瞬だけ様子を見て、それでもエレナは拳を叩き込んだ。
確認すらしなかったが、またどこぞかの民間人だろう。
今度の銀の粒子はやや離れた場所で固まり始め、すぐに跳びかかろうとするも、ひらりと見えた魔導士のローブに動きを止める。
形作られた魔導士らしい男は、初老の男性だった。
その魔導士は、呆れたような真っ赤な目を、そのままこちらに向けてくる。
「……まず聞いておきたい。君は話を聞いていないのかね」
教師のような口調だった。
もともとの性格がそうなのか、あるいは姿に合わせた口調を取っているのかは分からない。
だが、呆れたようなその様子に、エレナはにっこりと殺意を向けた。
「一体どれほど“ストック”を吐き出させるつもりだい。仮にも“最古”と言われている身だ、僕は“無限”なんだよ?」
南部の開けた地点。
エレナ=ファンツェルンは『最古の蛇』と激突していた。
殺害した人を“被り”、討伐されると“脱皮する”。
『最古の蛇』と呼ばれるこの魔物は、この『名前のない荒野』でも幾人もの犠牲者を出し、“被っていた”。
“脱皮”を幾度も間近で見て、この『最古の蛇』の力がどのようなものなのかは、おぼろげに分かってきた。
脱皮すると、物理法則を無視して“ひとつ前の存在”が現出する。
殺害されたタイミングのものなのかは知らないが、衣服や装備も同時に現れるのだ。
そして戦闘力をはじめとする能力は、現在“被っている”存在に依存する。
魔力にはただでさえ属性の種類というものがあり、仮にエレナが他の人間の身体を操れても初級の魔術ひとつもできないであろう。
だが、その不可能を月輪属性という稀有な属性で実現しているというのが『最古の蛇』という存在なのだろう。
となると『最古の蛇』は、被った人間の、ほとんど本人そのままの力を振るえることとなる。
面倒臭いがエレナがいちいち次の相手を確認しているのはそのせいでもあった。
人間の魔術師など容易く葬れるエレナではあるが、流石に魔導士クラスとなると手間が増える。
無警戒に突撃し、魔導士の頭脳と力で反撃されれば、ただでさえずぶ濡れの服がもっと汚れてしまう。
「なによ。あんたも私が忘れっぽいって? ちゃんと聞いてんじゃない。今からあんたを無限回殺さなきゃならないんだから、巻きでお願い」
「っ、そこまで狂っていると、被っても君の頭の中身を知りたくないね……!」
この戦闘。
開始するまでは、今も上空でこちらの動きを見下ろしているイオリも、『最古の蛇』を軽視していたかもしれない。
上空から捕捉するイオリがいる以上、ただ駆け続けても逃げ切れないと判断した『最古の蛇』は、追いついたエレナを真っ向から襲い始めた。
結果として襲っているのはエレナのような構図になっているが、イオリならば『最古の蛇』の“戦闘能力”をはっきりと認識できているであろう。
次々と現れる“被られた人”。過去の被害者たち。
倒しても倒しても続々と現れる敵は、ただそれだけで長期戦を強いられる。
そしてその上で、ただの有象無象“ではない”のだ。
魔導士を筆頭に、相当な実力者である旅の魔術師。
そして最も混乱するのが、民間人と思われる者だ。弱いだけならまだいい。しかし、ただその職を選んでいるだけの“強者”もまた存在するのだ。
エレナだからこそそれぞれを早期に撃破できているが、その一瞬でもイオリは見逃さない。
立ち振る舞いや反応、そして瞬間的な判断。
間近で戦うエレナは特によく分かるが、“ちゃんとしている”者がいるのだ。
どこまでが『最古の蛇』の力で、どこまでが“本人”の力なのか分からない。
だが、次々と現れる“強者”は、容赦なく襲い掛かってくるエレナを撃破できないまでも、“何か”を残す。
気づけば、攻撃を受けた記憶がほとんどないのに、服の肩が刃物のようなもので割かれていた。
察知できない攻撃をした“誰か”がいたらしい。
そして、エレナにとって、最大に面倒なのは。
「ま、待った! つ、次はまずいんだ!」
「おら!!」
現れた鋭い眼光を放つ男を殴り飛ばすと、銀の光が別の誰かを形作る。
念のため身構えたが、現れたのは王室にいるような美しい女性だった。
そして即座に殴り飛ばす。
「―――く、くそっ。ぼ、僕たちに何の恨みがあるんだ! ああ、ペリドット、僕の大切な宝物……」
次の“誰か”の声で悲哀に満ちた声を出す。
その人間も、どこぞの料理人のように見え、戦闘能力は皆無のようだ。
“これ”だ。
『最古の蛇』は、殺した順に人間を被る。
そのすべてが全員強者ならば、それ相応の戦い方をするだけなのだが、想像以上にムラがある。
殴っても一度は防ぐ者もいれば、何の抵抗も無いほど軽く吹き飛ばされる者もいる。
戦うにしても相手の強さが本当の意味で変わると、まるで泥沼と化した足場のように、浮き沈みが激しく、消耗する。
そして、『最古の蛇』が被った死者だとはいえ、人間だ。
“人間を殺し続けている”というのは、どれだけ図太くても精神的な影響はあり、特に自分のような可憐でか弱く慈しみに満ちた心を持つ者は、心をつなぎとめるのに必死にならなければならない。
「……と、ところ、で」
力を抜き過ぎたか、あるいは強者だったのか、辛うじて生きていたらしい“誰か”が、遺言のように呟いて息を引き取り、次の“誰か”を形作る。
今度は帽子を目深にかぶったポニーテールの女の子だった。
「お姉さん、随分強いね?」
その女の子の口調なのだろうか。
幾度となく殺され続けている『最古の蛇』の様子は変わらず、まさしく人を食うような調子だった。
「巻けっつってんでしょ。無駄話に付き合ってやらないっての」
「まあまあ、それだけ強い君に、聞きたいことがあるんだよ」
またどこかから爆音が聞こえる。
至る所で戦闘が起きている。
銀の世界すべてが、燃えるような熱気に満ち満ちている。
だが、殺され続けている『最古の蛇』は、冷たく、冷ややかに、そこにいてそこにいない。
女の子の姿のまま帽子のつばを弄り、エレナにちょうど届く声で、冷静に、静かに、呟いた。
「君は“史上最強”かい?」
つばから見える口元は、笑っている。
嘲る笑いとも思えたが、子供の姿で、子供に教えるように、微笑んでいるだけだった。
「この問いに首を縦に振った人は多かったよ。自分が世界の中心であると、最先端であると信じて疑わない。そういう人たちは、僕の目にもきらきらと輝いて映る、大切な宝物だ」
「で?」
「きっと君もそうなんだろうと思ってね。いや、言っている通りだ、馬鹿にしていない。きっとそんな彼ら彼女らは、本当に世界の中心なんだ、心の底から感動している」
口調は、やはり、子供が知らぬ世界の常識を教える親のように、穏やかだった。
「そんな尊敬と憧れを抱きつつ、僕はもう一度聞くんだよ。……君は―――“いつ何時でも”、史上最強かい? と」
子供の姿だろうが容赦はしない。
エレナは即座に詰め寄り蹴り飛ばした。
だが、見た目とは裏腹に力を持っている“誰か”だったらしく、軽い身体を活かして勢いを殺して距離を取ってみせた。
「君は“異常者”だ。素晴らしいよ、ストックがあっという間に溶けていく。強者も多かった、僕の大切な宝物が、夢のように消えていく」
今度は確実に仕留めた。
頭を掴み、地面に叩きつける。
しかしまた銀の粒子となり、知らない“誰か”を作り出す。
確認もせずに襲い掛かると、現出した“誰か”がまた、銀の粒子となった。
「もう知っていると思うけど、僕の戦闘力はまちまちだ。世界中に名を馳せた英雄の次が、山奥の田舎でひっそりと生きた民間人なんてこともある。でも、“何故そうなると思う”?」
聞く気はなかったが、言いたいことは分かる。
『最古の蛇』は“殺した相手”を被るという。
強者が常に強者であれば、『最古の蛇』は被れば被るほど弱くなることになる。
しかし実際、手ごたえのある相手だと思ったあと、拍子抜けする相手になることがあるのだ。
「“戦い続けられるにしても限度がある”。僕が“脱皮”して出る“誰か”は、みんなベストコンディションだ。けど、君は食事もするし、就寝もするだろう? 僕は1日中、1か月、いや、年単位でも続けられるけど、君はどう? きちんと“最強のまま”でいられるのかな?」
「らあっ!!」
拳がかわされた。
今度は先ほどの女の子と同世代の、青い髪の少女だった。
途中の“誰か”たちも、もしかしたら彼女たちの知り合いだった者なのかもしれない。
女の子たちは見た目に反して戦闘能力が高いようだが、途中の“誰か”たちは一般人程度だった。
過去、彼女たちのグループか何かに紛れ込んだ『最古の蛇』が、まとめて被ったのだろう。
距離を取った青い髪の女の子は、話を聞かないエレナに、心底同情した表情を浮かべていた。
妙に様になっているから、その女の子はもともとそういう性格だったのかもしれない。
「なあ、聞いてくれよ。どれだけ保つかは知らないけど、結末は見えているじゃないか。僕は“無限”とはいえ、さっき言っただろう? 被った相手は僕の大切な宝物なんだ。“ストック用”は名前を知ろうともしていない人も多いけど、これだ、と思った人はひとり残らず覚えている。そんな彼ら彼女らの人格や思考が僕に大きく影響を与えるんだ、僕を育ててくれた恩人でもある。……なーんて」
「その割には挑発するじゃない?」
「あっはは、挑発となってしまうか、これは失態だね。誤解だよ。“懇願しているんだ”。諦めてくれ、と。さっき言った僕に大きく影響を与えてくれたうちのひとりが“近い”んだよ。君が拳を収めてくれないと、より一層大切な宝物を失うことになってしまう。……君にはある? 大切な宝物」
エレナが目を細めた一瞬、『最古の蛇』の赤い瞳が、ぎらついたような気がした。
「……意外と人情家みたいだね?」
「っ―――」
ぎょっとする間もなく、目の前の女の子が、自分の胸をナイフで突き刺した。
反射的に駆け出そうとし、しかしエレナは踏み留まる。
女の子は銀の粒子となり、また別の“誰か”となった。
端正な青年で、柔和に微笑み、しかし瞳は深く、何を考えているか分からない異質さを感じる。
「いいね、いくら敵とはいえ、人を殺すのに躊躇が無いから、壊れているのかと思ったけど、そうじゃない。君は心こそが強いんだ、誤魔化さないでちゃんと痛がりながら戦っている。……この男を失うのは惜しいけど、こういうのはどうだい?」
手を広げて、何を考えているか分からないまま、柔和に笑う。
『最古の蛇』が被ったその“誰か”の口調や所作は、妙に噛み合っているように見える。言っていた通り、影響を受けたひとりなのだろうか。
しかしもう、二度と会うことは無い。
その青年も自害した。
次に現れたのは、エレナと同世代の女性だった。
芯が通り、凛々しく、『最古の蛇』の赤い瞳すらも装飾品のように似合う、美しい人物だった。
その女性は、赤い瞳のまま、一瞬、呆然とした。
「……私。ここ、どこ。酷い雨……、なにこの銀の、光……? ……あなた、ここがどこだか分かるかしら?」
混乱の中、戦場の中、それでも品性を保ち、我を失わない、きっと本人そのものがそこにいた。
これは演技ではない。
今『最古の蛇』は、“彼女”を操ってはおらず、思うままに行動させている。
「気づいたらここにいて……、いいえ、私、確か、“あの野郎に”、っ、……。い、いえ、ごめんなさい。それよりここ……! な、なに、あの……りゅ、龍? な、何か問題が起きているのね!? ひとまず私についてきて……、……ところであなたはここで何を? ああ、失礼だったわね。私は、」
「……残念だけど、あなたはもう死んでいるの」
エレナは、残酷な事実を伝えた。
女性は、一瞬呆気にとられ、しかしエレナよりも自分の身体を疑い始めた。
勘も良く、頭も回る女性だったようだ。
エレナは、容赦なく詰め寄り、殴り飛ばした。
「……所詮は赤の他人。でも、心に反した行動を取る。塵にも満たない程度だろうが、そういう行動を取り続けると、心に異物が積もる。それが“無限”に続くんだ、いつ辛くなるかな?」
失礼なのだろうが、次に現れたのは、殴り飛ばすのに躊躇の要らない、顔がてかてかと脂ぎって光る、丸々と太った男だった。
にたにたと笑い、エレナの身体を舐め回すように見つめてくる。
肉体的な疲弊に、精神的な負荷。
エレナにしてみればほんの僅かなことでしかない。
だが相手は“無限”である。
人間は常に全力を出すことはできない。どれほど長く戦えるとしても、戦闘を始める前の自分よりは力は落ちる。
違うのはその戦闘力の減少が緩やかかそうでないだけだ。
「そんなわけで君ぃ、諦めてくれんかね。これだけ“脱皮”したのは……、“久しぶり”なのだよ。悪いことは言わん、これ以上私を殺してはならんよ。ほっほ」
「そ」
エレナが駆け出すと、太った男はぎょっとして身体を縮こまらせた。
触るのも嫌だったので、靴の裏で蹴り飛ばすことにした。
また、銀の粒子となる。
エレナは、破壊の衝動のまま、即座に跳びかかった。
そこで。
「ぶ―――」
エレナは、“正面から殴り飛ばされた”。
「―――あーあ。だから言ったじゃないか、これ以上は駄目だって。ほっほ」
辛うじて防いだ両腕の感覚が一瞬消え失せ、即座に激痛が登ってくる。
泥にぬかるむ大地で踏ん張り、エレナは強く舌打ちした。
余計なことに気を取られたせいで、“次”が何かを確認もせずに突撃してしまうとは。
こうしたちょっとした悪しき変化が、今後も累積することになる。
しかし、そんな微々たる肉体的精神的な疲弊など、この“事態”には何ら問題にならない。
銀の粒子は、今までよりもずっと大きな体躯を形作る。
隆々とした青の筋肉の肌を晒し、しかし貌は不釣り合いに細く、まるで首から上を別の人形に乗せ換えたような異形だった。
その存在は、自分の頭を包み込めるほどの手のひらで、顎をかく。
『最古の蛇』は、また“本人”に行動を委ねたのだろう。
先ほどの女性のように眉を寄せ、自分が今どこにいるのか分かっていないように首を傾げると、周囲の銀の光や、周囲の爆音、そして天空の巨龍すら気にもせずに、細い眼でエレナを見据えてきた。
まるで、周りで何が起きていようがどうとでもなると言わんばかりに。
「女。答えなさい。ここはどこか」
「……やっぱり、そういうこともあるってわけね」
その存在は、神経質そうに表情を険しく歪ませた。
自分の質問に答えなかったエレナを、存在してはならぬ汚物のように睨みつける。
神経質そうな男、という表現が適切かは分からない。
なにしろ現れたのは、“人間”ではない。
“魔族”。
過去、『最古の蛇』に被害に遭ったらしい超常生物が、目の前に現出した。
「……一応聞きたいんだけど、筋トレやり過ぎたみたいなあんた。あんたはもう死んでいるって言ったら信じる?」
「興味深い話である。後で聞こう。四肢の骨を砕くに留められるかは知らんが」
赤い眼光の青の魔族。
『最古の蛇』が被った“本物”が、エレナに射殺すような殺気を向けてきた。
「……」
エレナは指をぱきりと鳴らした。
事態としては最悪に近い。
だが。
試したいことのひとつ目は、確認できてしまいそうだった。




