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06.

須磨稿・代季。

向こうでも自分の名前はこれだった。幸いにも、と言っていいのだろうか、こちらの世界でもそれが己の名前だ。この世界での身分証明書、俗に言うIDカードにも、一字一句間違いなく刻み込まれている。

IDカード。この世界に生まれ落ちた瞬間から、この世界の人間が所持することを義務付けられている身分証明書のことであり、余程の生まれでもない限り大多数の人が所持するものである。学校に通うにも医療機関を受けるにも売買をするにも、重要な際にはもちろんのとこ、日常生活のあらゆる面でも必要不可欠なそれは、言わば戸籍と同異議を持つと共に、この世界で生きる人間の要でもある。

―――そのカードを、この世界の住人ではない代季が所持している。

はっきりと代季自身の顔写真と氏名が書き綴られているそれは、どう見ても「須磨稿代季」本人のものでしかあり得ない。しかし同時に、顔写真や氏名の共に書き連ねてある両親の名や、これまで代季が歩んできたとされる経歴には一切の覚えがない。正しく言えば、連ねられているのは代季の知る両親ではなく、また彼が十九余り歩んだ人生とも一致する部分がひとつもないのだ。

須磨稿・代季――旧・姐繪(そっかい)なる国で春先に生まれ、なにごともなく小学へ上がる。しかし同年、姐繪の王が病死、それにより国は傾き荒れ果てた。住む場所を追われた須磨稿家は流民となって大帝国リュフシオンの水聖都・カルライナへと流れつく。一年後、父・功哭(こうこく)がカルライナにて軍へ徴集されたことによりカルライナへの永住を国が許可。以降、代季は母・姪蘭(めいらん)がほそぼそと郊外で営むカフェを、小学及び中学高学に行くこともなく手伝いを続けた…といった旨が簡潔にカードには記してあるが、…そんな記憶など、代季には無論ない。

街の役所を経て国が発行するそれは、その甚大なる効能故、法の中で最も厳しく取り締まわれている。誰かを騙って不正にその強固なる法を破ってIDカードを発行することは、ほぼ不可能に近い――少なくとも代季には、出来ない。…そもそも代季はこちらの人間ではないのだ、IDカードの知識とて、こちらにきてから辛うじて己で掻き集めたあやふやなものでしかない。

元居た世界で可もなく不可もない一般家庭に生まれた代季は、おおよそ大半の人間が歩むだろう型に嵌った道筋を、例に漏れることなく19年間歩いてきた。国が瓦解することも国から追われることも父親が徴集されることも母親がカフェを経営することも、ましてや小中高一貫して学校に行かなかったこともない。なにしろ代季は大学での帰り路で起きた交通事故で、こちらの世界に組み込まれることになったのだから。

それでも、この世界には「須磨稿・代季」という人間の存在が元から在ったことになっている。出生から今に至るまでのすべてが、何かの冗談のように形を変えた戸籍とも言うべきカードに深く刻まれていることがそれを物語っている。

不正は一切許さず、また仮に国を騙して偽のIDカードを発行出来たとしても、ことあるごとに求められる認証装置でのデータベースとの適合との齟齬でいずれ露見するのがオチである。そんな技術の結晶であるIDカードで、この世界の日常をなんなく謳歌出来るのだからそれがなによりの証拠だろう。

はじめてこちらで目が覚めた瞬間から手に握っていたそれ。代季を縛ると同時になによりも代季自身を助けたそれ。夢で相見えた彼は詳しいことなど何一つ話してくれなかったから、当初はこのカードしか頼るものがなかったのである。

カードによると、祖国から共に流れてきた両親は3年ほど前に亡くなっているようだ。

突然飛ばされた世界、面識さえない父とも母とも、もちろん自分自身の知り合いもいない異界で暮れ果てた代季に救いの手を差し伸べてくれたのは、カードの中の母と同じようにひっそりとカフェと貸し宿を営む若き女店主、ウィリンズだった。

店の前で立ち尽くす代季の手にIDカードが握り締められているのを見た彼女は、その提示を求めた後、しっかりとそれを吟味してから代季の手を引いた。流民であることを記してあること、もしくは両親を亡くしたことに同情したのか、はたまた元から大層なお人好しなのか、ウィリンズはカードに記してある代季の素性や状況以外を詳しく聞くこともなく、ほぼ破格の家賃で住まいを提供してくれた。

それからウィリンズの店の手伝いをしながら、世界と己の間に大した齟齬もなく、恐ろしいほど平穏に日々は過ぎ、今現在。

都合良く空いたその3年間、まるで代季のために誂えられた現状と、そこに潜り込むように当て嵌まった自身のポジションに、夢の中の彼が笑った気がした。




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