シーン7 残響
三階で止まったエレベーターから伊藤が降りてきた。
「伊藤さん! ちょうどよかった」
ナースステーションの受付に立っていた冨永が、ほっとした顔で声を掛けてきた。
「こちらの方が、友花ちゃんの病状についてお聞きになりたいと訪ねてこられまして」
伊藤は冨永にちらりと目を向けた。
「冨永さん、患者さんのお名前は……」
言いかけたところで、カウンターを挟んで冨永と向き合っていた女が、さっと振り向いた。
「あ、どうもー」
女は伊藤の言葉に割って入った。
艶やかな赤いワンピースに、黒のパワーショルダージャケット。足元には、赤いアウトソールが印象的なハイヒール。
華やかな装いだった。
女はにこにこと笑いながら会釈をすると、左肩に掛けた小ぶりのショルダーバッグを、左手でガサゴソと探り始めた。
なかなか目当てのものが見つからないらしい。
「あっ、もう。ほんと不器用」
自分に悪態をつきながら、ようやく名刺入れを引っ張り出した。
黙ってその様子を見ていた伊藤は、さまざまな患者と接してきた経験から、相手の職業や人となりをある程度推し量ることができた。しかし、目の前の女については見当がつかなかった。
水商売の女性には見えない。かといって、どこぞの夫人という雰囲気でもない。それでいて、身につけているものは誰もが知ってるブランド品だ。
ふと、かすかに消毒液の香りがした。
女は、名刺を取り出すのにも手間取っている。
「なんでこんなにぴったりくっついてるのよ」
またも悪態をついていた。
その指先に目を留めた伊藤は、短く切り揃えられた爪に気づいた。
医療従事者かもしれない。
「お待たせしました! はい、どうぞ」
「頂戴します」
伊藤は両手を揃えて名刺を受け取った。
そこには、こう記されていた。
北伊医科大学
法医学教室・法医学解剖室
解剖室長 井上 薫
伊藤はハッとして顔を上げる。
「そんなふうに見えなくて、ごめんねー」
井上薫は悪びれもせず笑った。
「ちょっとお話を聞きたくて。お時間、頂けますか?」
「はい。歩きながらでかまいませんか?」
「もちろんです」
二人は肩を並べて廊下を歩き出す。
「今、ある事件を担当しているんだけど、詳しいことはお話しできなくて。一方的な質問になってしまうかもしれないの。先に謝っておくわ。申し訳ありません」
「何度か警察の方から説明を求められたことがありますので、お気になさらないでください」
伊藤は穏やかにそう答えた。
「私にお答えできることでしたら、何でも。ただ、立場上、お話しできないこともあります。そのときは上の者に確認させてください。先にお断りしておきますね」
井上は、はたと伊藤の顔を見た。
「よかったー。気が合いそう」
その笑顔につられて、伊藤も微笑んだ。
それでも、すでに看護師としての表情に戻していた。
「お知りになりたいこととは、なんでしょうか?」
「助手から聞いた話なんだけどね。この病院に、身体に原因のわからない切り傷が現れる少女が入院しているって」
井上は隣を歩く伊藤へと目を向ける。
伊藤は立ち止まりかけたが、何事もなかったかのように無理やり歩を進めた。
「左足の付け根から右肩にかけて、斜めに走る傷なの。似たような傷を、ほかでも見ていてね」
井上は口調を変えず、続けた。
伊藤の表情が、ぐっと引き締まる。
あたりか……。
井上はそれ以上、問いを重ねなかった。
待合所に着くまで、伊藤は一言も口を開かなかった。
待合所の自動販売機の前に立った井上は、コーラを選び、Apple Watchで支払いを済ませた。
ゴトッ。
ペットボトルが取り出し口に落ちた。
その音に、伊藤がギクリとする。
伊藤はぎこちない足取りで隣の自動販売機へ進み、エネルギーバーを立て続けに三種類購入した。
商品を手にしたまま、もう片方の手にある小銭入れをじっと見つめていた。
その視線の強さが気になった井上は、口元に運んでいたコーラを離した。
「どうしました?」
「悪寒が……して」
伊藤の顔から血の気が引いていた。
貧血を起こしたのだろうか。
「大丈夫ですか? 少し座りませんか」
伊藤は首を横に振った。
「担当の水本先生にご紹介します」
そう言って歩き出す。
まだ足取りはぎこちなかったが、先ほどよりも速い歩調だった。
「ありがとうございます」
井上も後に続いた。
人気のない廊下に、井上のハイヒールの音が響き渡っていた。
硬い床に反響するその音は、妙に耳障りだった。
井上は顔をしかめた。
だが、歩調を緩めれば、足早に進む伊藤に遅れてしまう。それに誰かに背中を押されているようでもあった。
そのまま歩き続けた。
エレベーターホールに着くと、呼び出しボタンに触れる前に扉が開いた。
二人はそのまま乗り込んだ。
伊藤が五階のボタンを押した。
扉が閉まる。
ところが、すぐにまた開き始めた。
誰かが乗ってくるのだろうか。
伊藤は開ボタンを押した。
その途端、扉が閉まり始めた。
もう一度押しても、動きは変わらない。
扉が閉じた。
二人は怪訝な顔を見合わせた。
エレベーターは動かなかった。
階数表示は三階のままだ。
そのとき、伊藤の視線が井上の肩越しに止まった。
大きく見開かれた目が、何かを捉えていた。
「そんな……!」
その声は震えていた。
井上が振り返る。
白衣の男が立っていた。
首が、あらぬ方向にねじ曲がっていた。
井上が叫び声を上げるより早く、エレベーターが急降下し始める。
足元がふっと頼りなくなった。
二人の身体が床から浮きかける。
伊藤はとっさに手すりをつかみ、空いた左手を井上へと差し出した。
井上はその手に両手ですがりついた。




