シーン8 『どこ?』
白く、硬質な印象を受ける壁面だった。だが、不思議と清らかさも感じられる。漆喰の白と、柔らかな曲線を描く壁面のせいだろうか。そう合点がいった桐生は、見上げていた視線を足下へと沈めた。紫煙を吐き、傍らのスタンド灰皿に煙草の灰を落とした。
エレベーターが三階から地下二階まで異常な速度で下降したのは、昨日の昼過ぎだった。同乗していたのは井上と看護師の伊藤、二人だけだった。地下二階の駐車場に車を停めた見舞客が、エレベーターの扉がひとりでに開くのを目にした。中では井上が伊藤の上に折り重なるようにして倒れており、驚いた見舞客が通報したという。
井上のスマホの緊急連絡先に登録されている桐生が、一報を受けたのは、井上が緊急手術に入った六分後だった。
すぐに駆けつけ、事情説明を求めたものの、病院関係者は総じて口が堅かった。仕方なく手帳をかざして刑事であることを示し、現場を担当する刑事たちにも掛け合ったが、捜査中を理由に説明を拒まれ、詳しい事情は何一つつかめなかった。
箝口令でも敷かれているのか。よからぬ予感に駆られ、あちこちに電話しまくって、ようやく手に入れた事件当日の捜査報告書と現場検証書類は、やはり奇怪そのものだった。
聞き込みに関する捜査報告書には、エレベーターの異常な下降に関する証言が三件あった。
二階では患者と付き添いの看護師、一階でも患者と看護師、地下一階では看護師一人が、それぞれエレベーターを待っていた。いずれも呼びボタンを押していたにもかかわらず、エレベーターは停止せず、扉の向こうを凄まじい走行音が通り過ぎていったという。
五人は異口同音に、あの異様な音からエレベーターが落下したと思った、と証言している。
ところが、現場検証書類には、エレベーターに異常は認められなかったと記してあった。
ケーブルには多少の劣化が見られたものの、経年によるものであり、新しい摩耗痕や損傷はなかった。過速度を検知する調速機や非常止め装置にも、作動した痕跡は認められず、かごにも昇降路にも衝突や接触による傷は見つかっていない。
そして、何より不可解なのは、三つの階からの呼び出しを無視したエレベーターが、地下二階の正規の停止位置で、何事もなかったかのように停まり、扉を開いたということだ。
伊藤は井上の体重によって頸部を圧迫され、窒息死している。井上は伊藤に左腕を巻きつけた状態で、左肩を脱臼し、左上腕部の二か所を粉砕骨折している。二人の死傷は、エレベーターの異常な加速と急停止によって生じたものと考えるのが、妥当な推測だ。
事故の前、井上からLINEが届いていた。
『例のあいつらと同じ傷が浮かび上がる少女がいるらしい。ちょっと見てくる。あいつらが何者だったかは、事件解決には関係ないから。行き先:広尾の大口病院別棟、脳神経外科』
携帯が鳴った。
「はい」
電話に出た桐生に、鑑識の齋藤が開口一番、妙なことを聞いた。
「声めっちゃ枯れてますよ、添い寝して風邪引いたんですか?」
「昏睡してるんだよ! お前にはデリカシーってものがないのか!」
さすがにまずいと思ったのか、齋藤は声を落とした。
「すいません。ふざけたこと言いました」
桐生は事故の後、齋藤にだけ連絡を入れていた。井上の容体も、井上が病院を訪れた理由も伝えてあった。
「タバコの吸いすぎだよ。で、何の用?」
桐生が話を戻すと、齋藤もいつもの調子で応じた。その気遣いが嬉しかった。
「田中さんが、桐生はどうするんかなって、俺に聞いてきたんですよ」
「どうするって、何をだ?」
「ふふっ。わかってるくせに」
齋藤が笑った。
「田中さんは、あなたに有給を取って井上女史に付き添ってほしい。でも、直接は言いにくいんでしょうね」
桐生は黙って煙草をくわえた。
「で、あなたは井上女史がその病院に行った理由を知っている。なのに、捜査本部にはその報告は入れていない」
「……それで?」
「俺にだけ連絡をくれたのは、連続殺人の捜査を続けたいからでしょう?」
齋藤は一拍置いた。
「でも、井上女史のそばも離れたくない。違います?」
「正解」
桐生は短く答えた。
「田中さんにどこまで報告するかは、お前に任せる。さっき手に入れた資料を送るよ」
「了解です」
「頼んだぞ」
電話を切った桐生は、苦笑いしながら「めんどくさいやつ」とつぶやいた。
LINEが鳴った。
『どこ?』
井上からだった。
ああ、いつもの薫だ。
左手の親指で『戻るよ』と打ちながら、スタンド灰皿に煙草を投げ捨てた。




