シーン6 友花
このごろは、通学路から二駅離れた街のマクドナルドで待ち合わせをしている。駅前の大通りの十字路に面した店だ。そう言い出したのは友花だった。
「誰かに見られたら、何が起こるかわからないもの」
僕はそこまで心配する必要はないと言ったが、友花は譲らなかった。
僕の考えはいつも甘く、友花はいつも慎重だった。
友花は僕の恋人だが、世間でいうところは妹だ。全く血は繋がっていないが……これまで以上に僕は気をつけなければならない。友花は僕の庇護下に入ったのだから、もう失うわけにはいかない。
僕はいつも友花より先に着くよう、時間を調整していた。
男を待つ女なんて哀れでしかない。初めて抱いた女にそう言われた。古風な母からは教われなかったことだし、現代的な考え方だと納得した覚えがある。それに、トイレットペーパーの大袋や重い根菜、ネギの突き出た買い物袋を両手にぶら下げているような女に、友花をしたくはない。
僕は友花を待つ時間が好きだ。至福のひとときなのだから。
二階の窓際にあるカウンター席から交差点を眺めていると、友花が僕を見つけた。
翳りのある瞳をキラキラと輝かせ、走り出す。信号が青のときは加速して、赤のときは僕から目を離そうとしない。僕も同じく目を離さない。
僕が微笑むと、友花も微笑む。
「愛してる」と口だけ動かして告白してみれば、友花は慌ててキョロキョロと周りを見回す。その仕草が可愛くて、赤信号のときはわざとそう言っている。
遠目から僕を見つめる友花の眼差しは、どこかあどけない。左目がわずかに斜視気味だからだろうか。至近距離でその目を見ると、僕の庇護欲は掻き立てられる。
友花の姿が見えなくなる。僕は丸椅子をくるりと回し、カウンターに右肘を乗せて階段を見る。
階段口に姿を現す友花を眺めるためだ。
家での友花は、物音ひとつ立てず静かだ。リビングや僕の部屋から遠く離れた北側の、四畳ほどの私室から滅多に出てこようとしない。
その理由を僕は知っている。
母だ。母は友花をいじめるのに長けている。
それに気づいたあの頃の僕は友花に構うようになった。僕が構えば構うほど、母の仕打ちは巧妙になっていった。
僕は、友花と距離を置くことにした。学業に専念し、部活にのめり込み、一つ年下の彼女も作ってみせた。
友花を守るためだった。
と言えばかっこよく聞こえるだろうが、そう言い切れるほど僕は立派な人間じゃない。女を抱いてみたかったのだ。性について知っていることといえば、早熟な友人たちから聞かされた話くらいだった。
知りたかったのだ。快楽の味を。
階段を上がってくる友花の足音が聞こえる。
今日も駅から走ってきたのだろう。そんなに僕に会いたかったのかと思えば嬉しくなった。
現れた友花は、さっきまでの笑顔を引っ込め、きゅっと口元を引き締めていた。
いつもそうだ。
規定どおりに着こなした制服のスカートを握り締める手に、緊張が表れている。
これもいつものことだ。
今日はどんな言い訳を口にするのだろう。
「今日、数学の小テストで赤点取ったの。これ以上成績を落としたくないから、お兄ちゃん、テスト勉強に付き合ってください」
友花は少し声を張って言った。
僕なんかよりずっと優秀で、学年三位から落ちたことのない友花が、赤点だなんて。今日の言い訳も面白すぎる。
「お兄ちゃんに任せろ。今日は三時間コースで鍛えてやる」
僕も鷹揚な口調で声を張り、隣の丸椅子を右手でポンポンと叩いた。
友花は席につくと、鞄から参考書とノート、ペンケースを取り出した。
時代遅れの参考書は僕のお下がりだ。ノートは少女らしい可愛らしさとは程遠い簡素なもので、オレンジ色のペンケースとは不釣り合いだった。
ノートは母が用意したもので、ペンケースは去年の誕生日に僕が贈ったものだ。
母の仕打ちに耐えている友花を不憫に思う。
自分の小遣いでノートを買えば、母になんと言われるか。友花には容易に想像がつくのだろう。だから言われるがままに、与えられるがままに従っている。
友花も僕も、とうの昔にあの人を母親として慕うことをやめ、手放していたのだ。
今の僕たちを知ったら、母は発狂するだろう。
知らせてやりたいとも思う。
いけない。
友花が僕の表情の変化に気づき、愛らしい瞳に翳りを宿し始めた。
「腹が減ったのか。今日は何を奢らせる気だ?」
慌てて話を逸らしたが、遅かった。
大人びた微笑みを浮かべた友花が、僕の顔を覗き込んだ。
「兄上、お腹は空いていますが、もう少しあとでいいですか? 久しぶりに会えたのだから、もう少し兄上のそばにいたいのでござる」
そう口にして、ふとその口調を変えた。
「ごめんね、私、なんかまた思い出させちゃった?」
僕たちは互いの心の揺れに敏感だ。恋人同士になってからは、ことさらに。
「金欠なのを思い出しただけだ」
「ウソが下手ですぞ、兄上」
友花の声は優しかった。
僕は見惚れてしまう。
日に日に女らしく、美しくなっていく。そんな友花が僕を見つめて笑っている。
嬉しくて仕方がなかった。
兄上、か。
「二人のときは名前で呼んでくれないか?」
思わず口走っていた。
「ああ、無理しなくていいから」
慌てて付け加えると、友花は僕を見つめた。
頬を赤く染めて視線を逸らした。
「なつ……」
そこまで言って、口をつぐんだ。
「もう少しだ。頑張ってみろ」
「今日は無理でござる」
突然、曇りなく笑った友花に、きっぱりと断られた。
僕は笑いながら、知らず知らずのうちに伸ばしていた右手で友花の頭を撫でていた。
友花は僕の手に頭を押し付けてきた。猫のようだと思っていると、僕の手を取って自分の膝の上に乗せた。
とっさに周囲へ目を走らせ、手を引こうとした僕は意気地なしだ。
友花が僕の手を強く握り返して、そっと離す。
艶かしい仕草だった。
付き合ってみてわかったが、友花はときどき驚くほど大胆なことをする。
僕がその目を見つめていると、友花が小さくつぶやいた。
「夏彦に頭を撫でられると安心できる」
朗らかな笑みを口元に浮かべた。
「いつもありがとう」
瞳に安堵の光を湛えて微笑んだ。
嬉しいはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さった。
「友花、僕を恋人として見てくれている?」
思わず聞いてしまった。
「なんでそんなこと聞くの?」
聞き返された。
「お前は、いつから僕のことが好きだったの?」
今まで聞けなかったことが、口をついて出た。
「物心ついたときには、もう好きだったよ。私はそんな自分を隠さないとって、私はおかしいって、いつも、いつも、思ってた」
友花は肩をすぼめながらそう言った。花が萎れてゆくようだった。
抱きしめたかった。「大丈夫だから」と背中を摩ってやりたかった。
けれど、ここではダメだ。
僕はさっき友花が触れた右手を見る。
ふと思う。僕と身体の関係を望む日が来るのだろうか。僕でいいのだろうか。
そう思わせる自信はある。
だが、待とう。
地獄に落ちてもいいと思っているのは僕だけかもしれない。同じ覚悟を友花に求めるわけにはいかない。
友花自身が選ばなければ意味がない。
僕らは禁忌に触れるのだから。
友花に言った。
「僕も自分がおかしいと思っていたよ。無意識にお前のことをいつも目で追っていた。隠していたのは僕も同じさ。あの大きな家で、いつもお前を探してた」
友花はしばらく僕を見つめていたが、突然、思いついたかのように言った。
「スマホの位置情報、共有する?」
「位置情報?」
「うん。そうしたら、いつでも私を見つけられるよ、兄上」
なんの混じり気もない明るさだった。
僕はうなずき、カウンターに置いていた自分のスマホに手を伸ばす。
「じゃあ、僕の位置情報も共有しよう。先に設定するよ」
「ううん。夏彦のは、まだいい」
「どうして?」
「だって、夏彦はまだ私のものじゃないから」
僕は友花を見た。父とともに死んだ愛人、君枝。以前、検索して見つけた彼女の写真を思い出す。
「まだ」
その一言にどきりとしながらも、自然と口角を上げていた。
友花が差し出したスマホを受け取って操作していると、友花はオレンジ色のペンケースから、僕のものとは色違いのシャーペンを取り出した。
そして、僕のシャーペンの隣に並べた。右手の人差し指でつついたりもしている。
乙女チックな仕草に鼓動が速くなった。
それでも僕は素知らぬ顔を突き通す。
「そういえば、2Bの芯に替えたよ」
いちいち感動していると知られたくなかった。
「どう?」
「友花の言うとおりだった。指に負担がかからないし、書きやすい」
「でしょう! 滑る感じが病みつきになるよね」
友花の表情はどこまでも晴れやかだった。
お揃いのシャーペンは、去年の誕生日にペンケースと一緒に贈ったものだ。
あのときから僕は、友花といつかこんな風になりたいと思っていたのだろうか。
わからない。
あのときは、ただ見守っているつもりだったはずだ。
本当だ。
✴︎
気がつけば、二時間近く経っていた。友花のノートに視線を送れば、解き終えた問題がびっしりと並んでいた。
「そろそろ何か食べようか」
わざとらしく文庫本から視線を上げた僕がそう言うと、友花は参考書を閉じながら言った。
「兄上、金欠ではなかったのでござるか?」
「二時間も勉強したんだ。腹が減っては戦はできぬというだろう。なんか食おう」
「承知した。兄上」
友花は笑いながら、シャーペンを大切そうにペンケースにしまった。
僕らは席を立ち、一階の注文カウンターへと向かう。
死角になる階段の途中で、いつものように僕は友花の右手を取った。
友花が立ち止まり、僕を見上げる。
僕は左手を友花のアゴに添えて口付けた。
驚いたのか、友花が僕の右手を強く握った。
一秒足らずのファーストキスだった。
何くわぬ顔で歩き出した僕に友花は難なく付いてきた。
一階が見える手前で僕は友花の手を離す。それが今までの僕たちのルールだったから。




