↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白磁の檻  作者: 國生さゆり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/9

シーン5 あの日、死のうと言ったのは私だった。



肌色の少し盛り上がった一本の線が、水本の右手人差し指を、友花の右肩から左足の付け根へと導いた。


その感触はグミのように柔らかい。皮膚が突っ張ることもなければ、その下に何かが埋まっているような違和感もない。毎回、最初はここに、こうして現れる。そしてそれは、少女の青白い肌に、どこか艶めかしさを感じさせる線でもあった。


友花の身体は、ベッドを覆う透明な保温フードの中に横たわっていた。内部の温度は一定に保たれ、薄いビニールの向こうで、青白い肌が静かに照明を受けていた。


「今回はどうしますか?」


そのかたわらに立つ伊藤が聞いた。


皮膚の病理検査をしても、血液検査をしても、CTスキャンをしても、何の異常も見つからなかった。


そして、この線は少女の身体のどこかへ移動し、その移動先に傷痕を残す。


一度目は背骨に沿った一直線に。二度目は左腕から指先へと続く一直線に。三度目は、豊かとはいえない二つの尻を横断する一直線となった。


「寝ずの番をして、どこにどう移動するのか見てやろうと思う」


水本が言った。


「ちょうど特別室に空きが出たところです。移動許可を取ってきます」


「あまり……大袈裟にしたくないのだが」


「トイレも備品も揃っています。仮眠できるソファもありますし、一時も目を離さずに済む体制が必要です。私もお手伝いしますので、交代で見守りませんか」


伊藤の申し出を無言で受け止めた水本は、控えめに頷いた。


やがて特別室に移された友花のベッドのそばに、水本は椅子を引き寄せて陣取った。


「体温が上がってきてる。クーリングの用意をしてきてくれないか。それから、何でもいい。自販機にあるエネルギーバーを買ってきてくれ。君も何か腹に入れるものを買っておいで」


そう言いながら、水本は小銭財布を伊藤に手渡した。


「承知しました」


財布を受け取った伊藤は、代わりにコーヒーの入ったマグカップを差し出した。


「少し甘めにしてあります」


水本はマグカップを受け取り、「ありがとう」と言って一口飲むや、「美味いな」と微笑んだ。


「行ってきます」と言った伊藤が、静かに引き戸を閉める。


その背中を、水本は見送っていた。


意味はなかった。


ただ、なんだかこれが最後のような気がして、少し引き留めたくなっただけだった。


ふと、病室の明かりが消えた。


水本は顔を上げた。


遮光カーテンを閉めた暗闇の中、誰かの顔がすぐ上にあった。


目が合っている。


そうとわかるほどの視線で見られていた。


次の瞬間、髪を鷲掴みにされた。


頭が後ろへ引かれ、首が反り返る。


耳元に吐息がかかった。


水本はブルリと身構えた。


「僕だけが見ていい友花の傷を、そう熱心に眺めないでくれ」


男の声が言う。


水本の喉仏が震えた。


「ヒィ」


短い声が漏れた。


もう何も言えなかった。


身体も動かせなかった。


眼球さえ動かせなかった。


金縛り……だ。


そう思ったときには、もう遅かった。


すぐそばで、男がニヤリと笑う気配がした。


「僕のものに触れる時は気をつけろ」


掴まれていた髪が離された。


反り返っていた首がガクンと正面に戻され、そのまま固定された。


水本の視界に、長身の影が現れた。


影は友花のベッドに歩み寄る。


やめろ。


叫ぼうとした。だが、唇が開かなかった。


無理に開こうとすると、唇の皮膚が細い糸に引かれるように突っ張った。


上下の唇が、縫い合わされていた。


水本は声にならない悲鳴を上げた。


透明な保温フードが、音もなく持ち上がった。


男は身をかがめ、友花の背と膝の下に腕を差し入れた。


そして、少女の身体をベッドから抱き上げ、その額に口付けする。



        *



――ごめんなさい。ごめんなさい。あなたの心に私だけを残しておきたかったの。そうするしかなかったの――


あのとき、死のうと言ったのは私だった。


もう、耐えていく自信がなかった。


母の愛を受けられないと知ったのは、いつの頃だっただろう。


ピンクのワンピースが欲しいとねだれば、水色のワンピースを与えられた。ピアノが習いたいと言えば、習字教室に通わされた。


母と兄と三人でテーブルを囲む食事の間中、母はテーブルの下で私の足を踏んでいた。


兄と共に通っていた小中高一貫教育の名門私立校は、曽祖父が開校に尽力した学校だった。代々、伴成家の者が理事を務め、学校法人にも多額の寄付をしていた。


母は学校側にとって、慎重に扱わなければならない人物だった。


母は学校行事や授業参観のほとんどの時間を兄のために使い、終わりのほんの数分前になって、ようやく私の教室の前に現れた。


勧められても「途中で入るとみなさまのご迷惑になるから」と言って、廊下で待ち続け、決して教室には入ろうとはしなかった。


優秀な兄を優先するのは当たり前だと思っていた。


母に褒めてほしくて学業に邁進したけれど、どんなに頑張っても、成績表を見る母の表情はどこまでも冷ややかだった。


そんな母に代わって私を褒め、支えてくれたのは兄だった。


幼き日から、私は兄と手を繋ぐのが好きだった。


絵本を読み聞かせてくれたのも兄だった。


深夜、広い邸宅の闇を怖がる私の手を引いて、手洗いに連れていってくれたのも兄だった。


手提げかばんに入れたはずの折り畳み傘が見当たらず、濡れそぼって校門へと向かう私に、傘を差し掛けてくれたのも兄だった。


周囲の期待がそんな兄に向くのは、当たり前のことだった。


兄もその期待に応えようと、文武両道を実践する日々を送るようになった。


私と過ごす時間は、少しずつ削られていった。


私は孤独を深めていった。


そんなある日、私は自分の出生の秘密を知った。


ここにいてはいけない。


そう思うようになり、その日、衝動的に家を出た。


細雪が降り始めた駅のホームに、一人立つ私を見つけた兄は、安堵したのか、私をゆっくりと抱きしめた。


「どこへも行くな。僕はお前のために生きている。母の仕打ちも知っている。僕があの家を継げば、すべてが解決する。それまで待ってくれ」


それは兄が妹に向ける言葉ではなく、その仕草は妹に対する抱擁ではなく、その声は家族と話す時のものではなかった。


私は泣きじゃくった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。