シーン5 あの日、死のうと言ったのは私だった。
肌色の少し盛り上がった一本の線が、水本の右手人差し指を、友花の右肩から左足の付け根へと導いた。
その感触はグミのように柔らかい。皮膚が突っ張ることもなければ、その下に何かが埋まっているような違和感もない。毎回、最初はここに、こうして現れる。そしてそれは、少女の青白い肌に、どこか艶めかしさを感じさせる線でもあった。
友花の身体は、ベッドを覆う透明な保温フードの中に横たわっていた。内部の温度は一定に保たれ、薄いビニールの向こうで、青白い肌が静かに照明を受けていた。
「今回はどうしますか?」
そのかたわらに立つ伊藤が聞いた。
皮膚の病理検査をしても、血液検査をしても、CTスキャンをしても、何の異常も見つからなかった。
そして、この線は少女の身体のどこかへ移動し、その移動先に傷痕を残す。
一度目は背骨に沿った一直線に。二度目は左腕から指先へと続く一直線に。三度目は、豊かとはいえない二つの尻を横断する一直線となった。
「寝ずの番をして、どこにどう移動するのか見てやろうと思う」
水本が言った。
「ちょうど特別室に空きが出たところです。移動許可を取ってきます」
「あまり……大袈裟にしたくないのだが」
「トイレも備品も揃っています。仮眠できるソファもありますし、一時も目を離さずに済む体制が必要です。私もお手伝いしますので、交代で見守りませんか」
伊藤の申し出を無言で受け止めた水本は、控えめに頷いた。
やがて特別室に移された友花のベッドのそばに、水本は椅子を引き寄せて陣取った。
「体温が上がってきてる。クーリングの用意をしてきてくれないか。それから、何でもいい。自販機にあるエネルギーバーを買ってきてくれ。君も何か腹に入れるものを買っておいで」
そう言いながら、水本は小銭財布を伊藤に手渡した。
「承知しました」
財布を受け取った伊藤は、代わりにコーヒーの入ったマグカップを差し出した。
「少し甘めにしてあります」
水本はマグカップを受け取り、「ありがとう」と言って一口飲むや、「美味いな」と微笑んだ。
「行ってきます」と言った伊藤が、静かに引き戸を閉める。
その背中を、水本は見送っていた。
意味はなかった。
ただ、なんだかこれが最後のような気がして、少し引き留めたくなっただけだった。
ふと、病室の明かりが消えた。
水本は顔を上げた。
遮光カーテンを閉めた暗闇の中、誰かの顔がすぐ上にあった。
目が合っている。
そうとわかるほどの視線で見られていた。
次の瞬間、髪を鷲掴みにされた。
頭が後ろへ引かれ、首が反り返る。
耳元に吐息がかかった。
水本はブルリと身構えた。
「僕だけが見ていい友花の傷を、そう熱心に眺めないでくれ」
男の声が言う。
水本の喉仏が震えた。
「ヒィ」
短い声が漏れた。
もう何も言えなかった。
身体も動かせなかった。
眼球さえ動かせなかった。
金縛り……だ。
そう思ったときには、もう遅かった。
すぐそばで、男がニヤリと笑う気配がした。
「僕のものに触れる時は気をつけろ」
掴まれていた髪が離された。
反り返っていた首がガクンと正面に戻され、そのまま固定された。
水本の視界に、長身の影が現れた。
影は友花のベッドに歩み寄る。
やめろ。
叫ぼうとした。だが、唇が開かなかった。
無理に開こうとすると、唇の皮膚が細い糸に引かれるように突っ張った。
上下の唇が、縫い合わされていた。
水本は声にならない悲鳴を上げた。
透明な保温フードが、音もなく持ち上がった。
男は身をかがめ、友花の背と膝の下に腕を差し入れた。
そして、少女の身体をベッドから抱き上げ、その額に口付けする。
*
――ごめんなさい。ごめんなさい。あなたの心に私だけを残しておきたかったの。そうするしかなかったの――
あのとき、死のうと言ったのは私だった。
もう、耐えていく自信がなかった。
母の愛を受けられないと知ったのは、いつの頃だっただろう。
ピンクのワンピースが欲しいとねだれば、水色のワンピースを与えられた。ピアノが習いたいと言えば、習字教室に通わされた。
母と兄と三人でテーブルを囲む食事の間中、母はテーブルの下で私の足を踏んでいた。
兄と共に通っていた小中高一貫教育の名門私立校は、曽祖父が開校に尽力した学校だった。代々、伴成家の者が理事を務め、学校法人にも多額の寄付をしていた。
母は学校側にとって、慎重に扱わなければならない人物だった。
母は学校行事や授業参観のほとんどの時間を兄のために使い、終わりのほんの数分前になって、ようやく私の教室の前に現れた。
勧められても「途中で入るとみなさまのご迷惑になるから」と言って、廊下で待ち続け、決して教室には入ろうとはしなかった。
優秀な兄を優先するのは当たり前だと思っていた。
母に褒めてほしくて学業に邁進したけれど、どんなに頑張っても、成績表を見る母の表情はどこまでも冷ややかだった。
そんな母に代わって私を褒め、支えてくれたのは兄だった。
幼き日から、私は兄と手を繋ぐのが好きだった。
絵本を読み聞かせてくれたのも兄だった。
深夜、広い邸宅の闇を怖がる私の手を引いて、手洗いに連れていってくれたのも兄だった。
手提げかばんに入れたはずの折り畳み傘が見当たらず、濡れそぼって校門へと向かう私に、傘を差し掛けてくれたのも兄だった。
周囲の期待がそんな兄に向くのは、当たり前のことだった。
兄もその期待に応えようと、文武両道を実践する日々を送るようになった。
私と過ごす時間は、少しずつ削られていった。
私は孤独を深めていった。
そんなある日、私は自分の出生の秘密を知った。
ここにいてはいけない。
そう思うようになり、その日、衝動的に家を出た。
細雪が降り始めた駅のホームに、一人立つ私を見つけた兄は、安堵したのか、私をゆっくりと抱きしめた。
「どこへも行くな。僕はお前のために生きている。母の仕打ちも知っている。僕があの家を継げば、すべてが解決する。それまで待ってくれ」
それは兄が妹に向ける言葉ではなく、その仕草は妹に対する抱擁ではなく、その声は家族と話す時のものではなかった。
私は泣きじゃくった。




