シーン4 二人
無機質な解剖台を、天井から降り注ぐ冷たい照明が白々と照らしていた。
この医科大学の法医学解剖室には、換気設備の低い音だけが絶え間なく響いている。耳障り極まりない。
法医学者の井上女史は、桐生から状況説明を聞きながら、解剖台に横たわる男の背中に浮かんだ死斑を確認し、助手とともに男の身体を仰向けに戻した。
「用があったら呼ぶから出てって」
助手には目もくれず、放り投げるように言った。
頬を朱に染めた助手が「はい」と言って引きさがる。
その背中を見送りながら、井上女史がちらりと桐生を見た。
会釈した助手と目が合った桐生は密かに思う。今の男はコイツかと。
「状況説明なんて、そんなことはさ、どうでもいいからさ」
井上女史が桐生の思考を遮った。
「私が解剖すれば、あなたたちより詳しい報告書を書けるんだからさ。教えてよ、この男は何をしたの?」
四体も解剖してれば、さすがに気づくか…、桐生は苦笑を浮かべた。
「隣近所がみな親戚みたいな、そんな小さな町で起きた事件だった。同居してた甥っ子を殺して、何食わぬ顔で捜索活動に参加してたんですよ。遺体が発見されるまで、車のトランク、公衆便所、自宅のクローゼットと、甥っ子の遺体を移動させてた。ビラを配ったり、応援に来た機動隊に現場周辺の地理的な情報を教えたり、ボランティアの炊き出しを手伝ったり。挙げ句の果てには親族を代表してマスコミ対応までしてたもんだから、誰も不審に思わなかったんだ」
そこまで話すと、桐生は上着のポケットをまさぐり始めた。
井上女史が横目でそれを見る。
「ここ禁煙だしさ」
「あんただって、たまに吸ってるくせに」
桐生はニヒルに笑った。
「男前な顔にその笑顔は卑怯だって、わかってやってるだろう、桐生刑事。あいにく私にはその手は通じないよ。私は美人さんで、学歴だって申し分ない。通じないよ」
と言って、井上女史が笑う。
「知ってるよ、そんなこと。あんたが変態で、ベッドでどこをどう扱われたら喜ぶか、俺は知ってるぜ」
と言った桐生がウインクすると、井上女史は小さく吹き出した。
「愛してる」
そう言って微笑んだ女史は、すぐさまその笑みを引っ込め「それで?」と言った。
先を促す声だった。
「甥っ子に、両親がまぐわっているところを何度も見せたんだとさ。父親が母親を虐待してるんだって、そのたびに教えてたらしい。甥っ子は父親を毛嫌いしていたという裏も取れてた。だから最初に上がった容疑者は父親だった」
桐生は煙草を一本取り出し、唇に挟んだ。
ライターの小さな炎が、冷たい照明の下で細く揺れる。
深く吸い込み、目を細めた桐生が紫煙を吐いた。
「一口ちょうだい」
井上女史が言った。
桐生は咥えていた煙草を左手の人差し指と親指で挟み、井上女史の口元へと差し出してやり、右手で女史のマスクを顎の下までずらしてやる。
赤い口紅を引いた唇が、差し出された煙草を咥えた。
井上女史はゆっくりと煙を吸い込んでゆく。
「美味いか」と聞いた桐生に、女史は紫煙を吐きながらうなずいた。
そして「あんた、やっぱりいい男だわ」と言った。
桐生が笑う。青年のように微笑む。
「いまさら気づいたのかよ」
今は刑事ではない男の笑顔は、静かで魅惑的だった。
井上女史はもう一度、桐生の指に挟まれた煙草を吸うと、
「マスク戻して」と言った。
桐生が女史のマスクを繊細な指先で元の位置に戻してやる。
やはりこの男の指使いは美しい。
「ありがとう」
井上女史はそう言って、手袋を外した。
流し台で念入りに手を洗い、新しい手袋をはめる。
その頃には、もう顔がきりりと引き締まっていた。
「こっからが楽しいんだからさ」
そうつぶやくと、解剖台に横たわる男を見下ろした。
井上女史はメスを手に取った。
左右の肩から胸の中央へと切り開いてゆく。
大胆かつ繊細に。
「なんで殺したの? この男は」
皮膚を切り裂きながら、井上女史は尋ねる。
「その甥っ子を?」
「甥っ子の母親を旦那と離婚させて、自分が結婚するつもりだったんだと。子供の敵意を父親に向けさせて、夫婦仲を悪くするのには成功した。だからもう、甥っ子はいらなくなった。殺したんだ。旦那は真っ先に容疑者として事情聴取に呼ばれた。その間、この男は悲劇の嫁を助けて、ヒーロー気取りしてたってわけ。だが同居してたから、この男の持ち物から甥っ子の痕跡が出たところで、殺人の決定的な証拠にはならなかった。初動の甘さもあったが…結局、殺人を立証できず、死体遺棄でしか起訴できなかったんだ」と桐生。
「畜生だな、こいつ」
井上女史が吐き捨てた。




