シーン3 異形の母
水本に先んじて歩き出した伊藤は、友花の病室の前に立つ母親の忍に声をかけた。
「おはようございます、伴成さん。朝の診察が終わるまで、こちらでお待ちになってください」
努めて明るい声だった。
伊藤の後ろから水本が姿を現し、忍に軽く会釈する。そのまま病室のドアノブに手をかけたところで、忍が口を開いた。
「先生、あの子、まだ生きてるんでしょうか」経文でも読むような、暗く沈んだ声だった。
水本は目を見開いて忍を見た。
「この間は話したいと言っておられた。気をしっかり持って見守ってあげてください」無愛想とも機械的とも取れる、冷たい口調だった。
すると忍は、薄紫色のフレアスカートの裾をたなびかせ、すくりと伊藤と水本の間に割って入った。猫のようだった。そして水本の白衣にすがりつく。
「ええ、先生。私はあの子を愛しています。誰よりも回復を願っていますし、先生の治療方針も信頼しておりますとも」
色模様が透けて見えるような艶美の笑みを、口元に浮かべていた。
伊藤はそのきわどさに不潔感を覚えながら、忍に声をかける。
「伴成さん、待合スペースでお待ちいただけますか」
忍の表情が一変する。
黒目の薄い双眸に獣のような怒りをギラつかせ、伊藤を睨みつけたのだった。
「また私を邪魔者扱いするのね。私はあの子の母親なのに」
その声は硬く、鋭かった。
廊下での押し問答を聞きつけたのか、友花の病室のドアが開いた。中から看護師の木村が顔を出した。三人の表情を見て一瞬で状況を察したらしく、そのふくよかな顔に人の良い笑顔を浮かべた。
「ああ、お母さん。お久しぶりです。友花さん、さっき一瞬だけ目を開けてくれたんです。よかったですね」
木村はそう言いながら忍に近づき、水本の白衣を掴んでいる手にそっと触れた。指を一本ずつ白衣から離すと、その手を両手で包み込み、優しく撫でた。
「待合スペースまでお供します」
「えっ、友花が目を開けたの」
忍は木村の顔を見つめた。
つい先ほどまで伊藤を睨みつけていた目に、すでに好奇の光を宿らせている。
木村に手を引かれて歩き出すと、忍はもう水本にも伊藤にも目を向けなかった。友花の病室を振り返ることさえしなかった。
ウキウキとした足取り。うっとりとした、場違いな顔つき。
伊藤は二人の後ろ姿を見送りながら、忍のどこかギクシャクとした振る舞いと、その得体の知れなさも、仕方のないことなのだと自分を納得させるのだった。
息子を失い、養女までが生死の境を彷徨った。あの出来事を思えば、無理もないことなのかもしれない。
友花は忍の夫・千広の愛人だった女、君枝の子どもだ。だが、千広と友花に血縁関係はなかった。
千広と君枝が世間を騒がせた事件に巻き込まれ、不慮の死を遂げたあと、忍は幼い友花を引き取り、伴成家の養女とした。
両親も親戚縁者も猛反発した。
だが忍は、その反対を頑として聞き入れなかった。
「伴成の家は、戦後の混乱の中でさえ、国の行く末に責任を負ってきた家です。その家が、たった一人の幼子を引き受けることもできないとおっしゃるの? 世間がなんと言おうと、私はこの子を育てます。それが伴成の名を継ぐ者の矜持というものでしょう」
伴成家の先々代は、敗戦直後、占領軍との折衝に携わり、復興政策の立案にも深く関与した人物だった。政界に身を置いた時期は短かったが、その名を知らぬ者は当時の政財界にはほとんどいなかったという。戦後八十年を経た今も、その家名は少なからぬ影響力を残している。
もちろん忍の行動は世間の好奇心を引いた。
夫・千広が伴成家の婿養子だったこと。愛人の君枝と千広の死に方。そして、二人が死んだ事件の異様さ。
どれもがワイドショーには格好の材料だった。
賑やかで恥知らずな報道のお祭り騒ぎは、その年の十大ニュースに選ばれるほどに加熱した。




