シーン2 取り憑かれた男
「水本先生、お願いできますか! また伴成友花さんにみみず腫れが!」
慌てた看護師伊藤はノックを忘れ、朝の挨拶を忘れ、水本が夜勤明けなのも、その優秀さから看護師長を拝命していることも、手本であれとの院長からの期待も、聡明な脳みそから吹っ飛んでいた。
仮眠ベッドからのそりと起き上がった水本が「君、僕のメガネを探してくれるかい⁈」と言いながら、打ち捨てるように置き捨てたであろう白衣を、右手の勘で手繰り寄せて羽織り始めた。
伊藤は水本がキャリアの起死回生を狙って、取り組んでいる脳死と移植に関する論文素案や資料、患者のデータがわんさと積み重なった机上の森から黒縁丸メガネを探し出し、その両レンズに付いた曇りの原因はなんだと推察しながら、水本に手渡すのだった。
水本には忘れられない女性がいて、その女は水本と別れた数年後に死に、霊となって水本にまとわりつき、当直当番の日の逢魔が時、水本に夜な夜ななにをそうさせているという。その噂は当直当番の水本の部屋から毎回、面会人などなかったのに、女と会話する声がもれ聞こえ「今はダメだ」と享楽とも悶絶とも取れる、水本のぐぐもった声が聞こえるという看護師たちの話が元になっている。
どこからどう伝わったのか、誰がなにをどう言ったのか、聞いたかは今はもう曖昧で、次第にあやふやなものとなって久しいが…、病院とオカルトは誰に聞いても相性がいい。そして第一線から落ちた水本の今の姿を見れば納得せざるをえず、今や当直当番日の深夜帯は、水本の部屋は禁足地となっている。
当番なのに誰も近づかないのは矛盾でしかないが、祟りなど、障りなど、誰ももらいたくはない。
シワが目立つ白衣をひるがえして足早に歩く水本の歩調に、遅れ気味の伊藤が告げる。
「今回は清拭している最中に現れて、みるみる間に50センチほどの長さになりました」
「意識レベルの変化はあったのか⁈」
水本が食い気味に聞くと、伊藤は答えた。
「一瞬ですが、自発的に開眼したんです。呼びかけには応じず、視線も合いませんでした。すぐにまた閉眼してしまって、JCSを正確に評価する間もありませんでした」
そう言って視線を前に向けるや、「先生」とつぶやいて立ち止まった。その声の緊張に、思わず伊藤に視線を向けた水本も、おのずと足を止めた。
「なんだ?」
水本が聞けば、伊藤は「振り向いちゃダメですよ。友花ちゃんのお母様がいらっしゃってます。いつものように病室の前に立ってらっしゃいます。どうしますか? 今行けば顔を合わせる羽目になりますし…、みみず腫れの原因を問いただされかねません。わからないと説明しても通じないと思います」と言った。
「自分の虐待を棚に上げてか」
水本が吐き捨てる。
「そうは言っても院長とは親しいお家柄の方なので……今、診察されるのであれば言動に注意された方が」
「わかってる。私だってこれ以上、風下には立ちたくない」
言い終わるか終わらないかで、もう歩き出していた水本だった。
水本は半年前から現れるようになった友花の“みみず腫れ”に興味をそそられていた。植物状態にある人間の身体的異変は、論文の注目度を上げるのではないかと密かに期待してもいる。
なにせ友花は17歳であり、華奢で可憐で美しい子である。そしてその家柄はあの、今でもことの顛末を詳しく知らなくても、「ああーっ」と誰もが記憶しているあの事件の伴成家でもあるのだから。




