シーン1 ことの始まり
ーーその女は一人湖面の中央に立っていた。それでもその女の足先は水に濡れてはいない。そして女の目はその湖の四方を覆う気高き峰も、1000年の時をかけて培われた森も見てはいなかった。ただただ、女は一人の男の顔を見つめているーー。
高級住宅地の十字路に青いビニールシートの囲いが作られていた。その一枚を捲り上げた男が歩を進めながら口にする。「遅くなってすまない。どんな様子か手短に頼む」と。
男を見上げた鑑識の齋藤が「桐生さん、例のアレだと思います。左足の付け根から右肩へと切り上げられています」と言うと、傍らに置いたジュラルミンケースからキットを出しつつ「最深部の深さは約3センチの切創、死因は出血死でしょうね。我々が駆り出されたのだって、それとわかっての出動でしょうよ」と言いながら、大の字に倒れた男の指紋を採取するが、「この男、指紋を焼いてやがる」とつぶやいた。
「なんだって」と桐生が覗き込むや、齋藤が掴んでいた男の手を桐生の目前にかざし見せた。「クソだな」、「ええ、クソですね」と言い合っていると、課長の田中が「いつまでやってんだ、さっさとすませろ!いつまでここに仏さんを転がしてるつもりだ!わかってると思うが、三軒右隣は現役の自由党幹事長の家だぞ」と不機嫌にガナリ立てた。
ゆるりと顔を上げた桐生が「課長、例の事件つながりだってことわかってましたよね、それで俺らを呼んだんですよね。仏の指紋が焼いてあるのも知っていた。今回は上がなんと言おうと、がっちり事件解決まで押さえといてくださいよ」と少々高圧的な声で切り返した。
じろりと桐生を見た田中は「4件目だ。お前たちこそちゃんとやれ。帳場は立てない、極秘でやる。監視カメラ映像の回収は指示したのか」というと、傷口付近の血液を滅菌綿棒で採取していた齋藤が、その綿棒を乾燥用の通気孔が設けられた専用のスワブケースに収めながら「どうせ、またなんも映ってないでしょ」とあくび混じりの声でささやいた。
齋藤に鋭い一瞥をくれた田中は、聞こえなかったことにしてその言葉をスルーすると、「桐生の班と齋藤の班での担当とする。報告は直接俺に、他には漏らすな。書類も作るな。俺が事件解決後、まとめて提出する。部下への箝口令と記者との接触禁止を徹底させろ。とにかくこの死体をとっとと片付けろ。幹事長はあと30分で自宅を出るらしいから」と歯切れは悪いものの、いかつい声でそう言った。
結局はそうなのだ。誰もがこの気味が悪い連続殺人を表沙汰にはしたくない。そう思っている。
突風が吹いて、突然、仏の上半身から血が吹き出し、真後ろに倒れて絶命する。どの現場で回収した監視カメラ映像にも、それしか映っていない。
そして仏はみな、理不尽な事件の容疑者だった。証拠不十分で不起訴になった者もいれば、裁判で無罪となった者もいる。罪に問われながらも減刑され、軽い刑で済んだ者もいた。




