辻 天馬
第70話 和尚の過去
松田のババアの家からの帰り道、和尚はなぜだか上機嫌だった。先を歩く和尚はチラチラと振り返っては、ニヤニヤして俺のことを見てくる。始めはスルーしてたが、あまりにも気持ち悪いので、そのままを言った。
「なんだよ、ニヤニヤして。気持ち悪りぃなあ」
俺の問いかけにまたチラッと振り返り、ハッハッハッー、とデカい声で笑った。なんだ、テメーは黄門様か。
「なあ、なんなんだよ」
和尚の態度には、いささか腹が立つ。このジジイは、今日だけじゃなく何かというと要領を得ない受け応えではぐらかす。自分で考えろと言いたいのだろうが、もしかしたら何も考えてないんじゃないかと勘繰ってしまう。それが仏の教えというのだろうか。
前に般若心経の解説が書いてある本を読んだら、何もない、あらゆるものに実態がない、心というものは存在しない、とか《《ないない》》ばかりで、じゃあ結局なんなんだよ、とその本を放り投げてしまった。
このジジイ。結局何もねえんだろ。人をおちょくりやがって。世話になってるのも事実だが、腹が立つのも事実だ。いっぺんこの禿頭を平手で引っ叩いてやろうか。そう思ってツルツルの後頭部を見ていると、和尚はクルッとこっちに顔を向けた。ツルツルの後頭部に、急に目と鼻と口が現れたように見えた。
「あの婆さんが、他人を褒めるとはなぁ」
お前も爺さんだけどな、と言いたい気持ちをグッと堪えた。あのセリフが俺を褒めた言葉なのかは定かぇはなあが、悪態しか吐かないババアが、ああいうことを言ったのは、俺も悪い気はしなかった。
他の檀家さんは一休のことを褒めるが、あのババアは一休のことを褒めない。「あの年齢でしっかりしてたら病気だ」と悪態を吐いていたくらいだ。
「和尚は、どう思うんだよ」
「なにがだ」
「俺が、その......」俺は質問をしておいて言うのを躊躇った。自分で自分のことを《《いい顔になったのか》》を聞くのは、尻の穴が痒くなる。
「いい顔になった、というのか」
「そうそう。その、あれ、どうなんだよ」
「お前は、どう思う」
「知らねえよ。わかんねえから、聞いてんじゃねえか」
クソッ。面倒臭え。話が進みやしねえ。
ジジイは長い時間溜めてから、「知らん」とだけ言って、またフフフと笑い始めた。イラつく。やっぱり引っ叩いてやろうか。
歩いていると俺の爪先に蝉が当たった。死骸だと思ってたら生きてやがって、驚いたのか地面でクルクルと暴れ出し、ジジジジジーッと鳴き始めやがった。気持ち悪りぃ奴だ。その鳴き声に反応して、周りの蝉も一斉に鳴き始めた。うるせえ。
俺は、もう1つ気になっていたことを聞いた。
「あのさぁ。さっき松田のババアが、和尚のことを犯罪者みてえなもんだって言ってたけど、ありゃあ、なんだ?」
和尚は振り返らなかった。その背中は、それ以上聞くな、と言っているように見える。余計に気になる。
「和尚は、過去になんかあったのか?」
フフフ、と笑う声が聞こえるが、声に抑揚がない。
「あれだな。坊さんはロクな仕事もしないくせに金ばかり取るとか、人が死んだ時に儲かるみたいなことを言いたいんじゃろ」
そして、またいつもみたいにフワフワとした笑い声に戻った。和尚が言葉で、はぐらかすのは珍しい。いつもだったら笑って誤魔化すか、禅問答のように質問に質問で返してくるのが普通だ。絶対、過去に何かあったのだと思う。触れてはいけない質問だったのだ。
気にしないことにしたいが、やっぱり気になる。もし目の前に「押すな!」と記されている赤いボタンがあったら、誰だって押したくなるだろう。雲仙さんたちに聞いたら答えてくれるだろうか。そう言えば、雲仙さんたちも、どういう経緯でこの寺にやってきたのだろうか。益々、気になる。
でも、気になっても、知ってはいけないことなのだろう。知ったところで、後悔するかもしれない。
お釈迦さんだって、実態がない、なにもない、と言っているのだ。
たまには、仏さんの言うことに従っておこう。




