数原 利休
第61話 桜庭の過去(1)
「若い時な、向こうで悪さしたんだ。それも大した悪さじゃないけどな。小心者の俺は、神奈川にいられなくなっちまってな」
そう桜庭さんは自嘲した。それは本当に大したことがない話で、まるでゴミでもポイッと捨てるように話し始めた。
「学生の頃から小さい悪さを積み重ねて、もうヤクザやるしか道はないって勝手に思ってたんだな。今のワルと違ってむかしのワルは頭が悪ぃから、発想がそれしかねえんだ。学校みてえな頭ごなしに押さえつけるような環境が嫌でな。大抵そういう奴がグレるんだよ。顔見知りの先輩のツテで地元の組に出入りするようになって下働きから始めたよ」
桜庭さんは、誰に言うでもなく地面の一方向を眺めながら、ポツポツと話し続けた。初めはそこに何か気になるものでも落ちてるのかと思ったが、その方向には何もない。小さなビニールの切れ端のようなものが落ちていたが、視力の弱い桜庭さんには見えていないだろう。
「特に慕ってた先輩じゃねえから、色々コキ使われるのも嫌でね。まあ実力主義の世界だと思ってたから、軽くシメてやったら、それをそいつの兄貴分に咎められてな。こっちがシメられちまった。上下関係がどうのこうのって、あそこは学校よりタチが悪い。頭きたから兄貴分の《《コレ》》に手ぇ出しちまった」
桜庭さんは小指を立てて、ニキニキと曲げ伸ばしした。それは女の人のことだとすぐわかったが、どうしてむかしの人は女の人のことを小指で表現するのだろう。
「それがどうしたもんか、組長の妻の耳にも入っちまって、呼び出されてな。またシメられるかと思ったら、姉さん1人でな。まあ、俺は《《コッチ》》が得意だったからなぁ」
今度は軽く握った拳の人差し指と中指の間から親指を出して見せる。そんなサイン、子供でもわかる。しかしどうしてそうやって、そういうことを手で表すのか。はっきり言葉で言わない分、かえって卑猥に感じる。
桜庭さんという人は、少し上品な人だと思ったが、そうでもないみたいだ。
「兄貴分の女だったらシメられるくらいで終わるだろうが、組長の奥さんじゃあ良くて破門だな。殺されるかもしれねえ。だから、逃げてきたわけだよ。べつに組長に惚れて組に入ったわけじゃねえからな。後悔なんかありもしねえ。ただただ見つからねえように遠いところ、遠いところっていって辿り着いたのが、ここさぁ」
僕はお寺のことを思い出した。僕も劉弦さんたちも、行くところがなく辿り着いたのが龍幸寺だ。どこにでも似たようなことがあるんだな。
「人目を気にして、こんな田舎まで来ちまったはいいが、身寄りもなけりゃ、金もねえ。畑から野菜盗んで食ってたりしたよ。今みたいにスーパーやコンビニなんてねえから、ゴミ漁ったって食えるもんなんかありゃしない。ここらは海しかねえ。漁師になるしかねえかなと思ったが、俺は魚を触れねえんだ。ありゃあ、見た目が怖えだろ」
見た目が怖い大人が、魚が怖いって、なんか笑える。フフッと笑ってしまうと、桜庭さんも笑って言い訳を始めた。
「刺身だったら食える。だけど、あんなテカテカした見た目で、口なんかパックリ開けて、手足がねえのに体振って泳いでるんだぜ。気持ち悪いだろ」
凄まじく幼稚な理由なので、失礼を承知で声を出して笑った。
「だから仕方ねえ、野菜食うしかねえからなあ。この辺はむかし水害が酷かったらしいから農家なんかねえよ。普通の家が自給自足でちょっとした庭の畑で育ててんだ。素人が作ってるから、家によっちゃあ育て方がヘタクソで根っこしかなくて何の野菜だかわかんねえものまで食った。けど、こんな小せえ町だろ。俺のことはすぐに話が広まって、取っ捕まったんだ。それがうちの組長」
桜庭さんは得意気な顔で、組長の話を始めた。てっきり桜庭さんが組長だと思っていた。そういえば組の看板も『玉城会』と書いてあった。先代の組を受け継いで、桜庭さんが組長なのかと思ったら、違うみたいだ。
「浮浪者みたいにしてる俺を見たオヤジは『若えのにダラシねえ』って一喝されてな。オヤジは、組分けして玉城会旗揚げしたばっかりで、まだ3人しかいなかった。オヤジ以外の2人の兄貴が、また2人とも武闘派で、そりゃあもう、コテンパンに締め上げられたよ。たかが野菜盗んだくらいで、殺されるかと思った。だがなぁ、オヤジは完全にノビちまった俺に『行くとこ、ねえのか』って心配してくれてな。『じゃあ俺が一人前の男にしてやる』って。それからオヤジと兄貴たちに、男の生き方を教えてもらったんだ」
そう語る桜庭さんは誇らし気だった。
「俺はそうやって生まれた町を捨てて、オヤジに拾ってもらったんだ。うちのオヤジは優しかったよ。兄貴たちだって、喧嘩やシノギのやり方だけじゃなくて、言葉使いや他人との付き合い方、箸の持ち方からまで生きてく上での大事なことを教わった。血の繋がりなんてねえよ。だけど、あの人たちの存在はそれ以上だった」
誇らしげ気な表情の中、少し曇った目になる。白く濁っている目だから、あくまでもニュアンスだが、少し濡れているようにも見えた。
「その組長さんや、兄貴さんたちは、今どうしてるんですか」
『兄貴』に『さん』を付けてしまったことに違和感があり、言葉を知らないみたいで少々恥ずかしかった。でも僕の口から『兄貴』と呼ぶのもどうかと思い、結果的にそう呼ぶしかない。
「1人は刑務所に入ってる。もう1人は死んじまった。でも、2人はオヤジを守るためにそうなった。2人は男の中の男だ」
刑務所に入った理由も、死んでしまった理由も聞かなかった。そんなことを聞くのは無粋な感じがした。
「オヤジは生きてるよ。でも、もう歳だ。施設に入っている」
少し悲しい表情に見えたのは、僕の気のせいなのかもしれない。
「でも、オヤジはオヤジだ」
また誇らし気な表情に戻る。血の繋がりなんか関係なく、誇れる親や子分を持っている桜庭さんが羨ましい。ふと、額縁の写真に目を移す。桜庭さんの隣で、睨んでいるのか眩しそうに目を細めているのか、真ん中に写っているイカついおじさんが多分組長さんだ。その組長さんの顔が、和尚の顔とダブって映った。




