数原 利休
第58話 進展なし
港に着き、タクシーのドアが開くと磯の香りが鼻を突いた。決していい香りではなかったが、嫌な匂いではなかった。むしろタクシーの変な芳香剤の匂いから解放された安堵の方が大きい。
べつに海が嫌いというわけではない。僕が生きていく上で、マリンスポーツに縁がないというだけだ。泳げないのではない。海で泳いだことがないわけじゃない。海水がベタベタして好きじゃないというのもある。海パンに砂が入ると洗うのも面倒だ。日焼けすると肌が痛くなるのも好きじゃない。海水も汚い。変な海藻が足に絡む。周りの迷惑を考えないパリピ集団や、イチャついてるカップルが目障り。やはり諸々の理由で海は嫌いなのかも知れない。
「多分、アンタが言ぅとる港は、こっちじゃないかね。2キロくらい先にも港あんだけど、あっちゃ廃れとるけん、誰も寄らん」
運転手が言うには、この町には漁港が2つあるが、今降ろされたこの港の方が賑わっている。廃れたもう一方は、孫との待ち合わせには不向きだろう、ということだった。
「あー、でも迎えに来るんは爺さんやろ。もしかしたら、あっちの方が古いけん、もしかしたらそっちかもしれんねえ」
料金を払って降りた僕に、運転手は窓を開けて話しかけてくる。
「いやー、やっぱ爺さんやったら、そっちの港や。追加料金いらんから、そっちまで乗っけてっちゃる」
「大丈夫です。もし違ったら2キロくらい歩いていけます。もしかしたら、お爺ちゃん車で来てくれてるかもしれないし」
運転手が去る様子がないので、「すぐに連絡取れるので本当に大丈夫です」とスマホを見せると納得したのか、港の駐車場から車を出した。
スマホ持ってるのに何故正確な住所を聞かない、車で迎えに来れるのなら何故岡山駅まで迎えに来ない、などの矛盾点があるのに運転手はそこには突っかからなかった。
町の港は賑わっていた。磯の香りと醤油の香ばしい匂いが一緒に漂ってきた。港の船乗り場て漁師たちがテーブルとコンロを出して酒盛りをしていた。中には女性の姿もある。出荷作業を手伝う人たちだろう。朝早い漁が終わって、出荷作業も終わり、みんなでお酒を飲んで楽しんでいる最中だった。
「あのー、すみません」
僕の位置から1番近いところで、バターと醤油で貝を焼いている女性に声をかけた。歳は30代後半くらいか。ふっくらとした体型で優しそうなオバさんだったので、1番声をかけやすそうだった。オバさんはコンロから顔を上げた。目を細めた予想通りの優しい笑顔で「はいはい、どうなさいました?」とこちらに顔を向けた。
「人を探してるんですけど、辻村さんって方いますか」
酒盛りをしている人たちは、20代から30代と見える人がほとんど。みんな日焼けして浅黒く、健康的な人ばかりだ。天馬さんの年齢を考えると天馬さんの父親は70歳近いだろう。既に引退している歳だ。周りを見渡すと、そんな歳をとった人はいない。
優しそうなオバさんは暫く考えてから、隣にいた同じ歳くらいの茶髪のオバさんに視線を送るが、その茶髪のオバさんは首を振った。その間に、どうしたどうした、とガタイの良い漁師たちが群がってきた。
「なんだ、兄ちゃん。生き別れた家族でも探してんのか」
白いタンクトップに下は紺のジャージ、頭にタオルを巻いた眉毛の太い男が近寄ってきた。男は赤黒く日焼けして、皮が厚くなっているのか表面が日差しに照らされ、テカテカと光っていた。手には海老の尻尾を持っている。彼の不躾な質問に茶髪のオバさんは「ちょっと!」と言って、彼の腰の辺りを叩いた。
「なんだよ」
「いきなり失礼でしょ」
失礼もなにも、こちらは生き別れた家族を探しているわけではないので、べつに失礼ではない。多分茶髪のオバさんは、僕のことを気遣ってくれているのだから、それに従うべきなのだろう。他人の親切を無にしてはいけない。
「いや、いいんです」
それについては答えずに、なんとなく匂わせるような態度をとるのが賢明だ。僕は少し寂しげな表情を作ってみようとした。設定は、ここは父親の出身地で、父はむかし家を飛び出し他県で結婚し、生まれた子供が僕。祖父母の顔を見たことがないから会いに来た、ということにしよう。まあ、天馬さんが家を飛び出したのは事実だから、僕と天馬さんは親子というところだけ嘘だが、そういう設定なら辻褄が合うだろう。
タンクトップの漁師は、ブルーのカラーボックスに無造作に入れられていた生きたままの海老をガッと一掴みし、無造作に油の中に放り込んだ。ジャワーッと油が爆ぜる音がした。バチバチ水が跳ねる。灰色だった海老があっという間に赤く揚がる。網のオタマで掬い上げ、尻尾の方を掴んで紙皿に乗せた。
「おう。腹減っちょるだろ。食え」
田舎のオジさんは、子供を見ればみんな腹が減っていると思っている。さっき牛丼を食ったばかりなので、腹は減ってない。
「あ、大丈夫です。さっきご飯食べたばかりなので」
軽く断ったのに、タンクトップは訝しげな目を向ける。
「ダメじゃ、兄ちゃん。好き嫌いしたら大きゅうなれん」
田舎のオジさんは面倒臭い。
「ちょっとシゲさん。この子いらんちゅうてるもん」
茶髪のオバさんの助太刀が入る。田舎のオバさんは見た目が派手でもみんな心が優しいようだ。
「ダメじゃ。美味いから食うてみぃ。海老食うたら頭も良くなるし、早い球だって投げれる。兄ちゃん、野球部やもんな」
田舎のオジさんは決めつけが凄い。この運動神経の無さそうなヒョロい体を見ても、僕が坊主頭というだけで野球部と決めつけてくる。それに海老を食べたらあたまが良くなるというのは、アスタキサンチンが脳神経の補修する効果があるというのを聞いたのだろうか。アスタキサンチンとは海老や蟹などに含まれる赤い色素のことで、どっかの大学の先生がマウスで実験すると記憶や学習能力に影響したらしい。でも、早い球を投げれるようになるかは実証されていない。
無碍に断るわけにはいかないので、僕は紙皿を受け取った。殻を剥こうとすると「殻ごといっちゃれ」と言うので、言う通りにした。バリバリとした殻は薄い煎餅のようで香ばしくて美味い。口の端から足が飛び出て気色悪かったが、足も同じように美味しい。テレビの食レポだと、身はフワフワとしてと表現すればいいのだろうか、2つの食感が絶妙で、油で揚げただけなのに海の塩気だけで充分だ。これが食材の味とでも言わんばかりに、シゲさんと呼ばれたタンクトップの男は胸を張って僕を見下ろした。
「ここで生まれ育った奴は、みんな海老食うて育っちょる」
たしか天馬さんは海老が嫌いじゃなかったか。
「どうじゃ。頭、良くなったやろ」
脳神経を修復させ、学習能力が上がるのが証明されたのかもしれないが、そんな食べてすぐに効果が出るわけがない。
「これで兄ちゃんも、次の成績表はオール5や」
まだ僕のことを中学生だと思っているのか成績表の話まで出てきた。
「だけど、シゲちゃん子供ん時から海老食うてるが、オール2やったもんなぁ」
1人の漁師がシゲさんに突っ込むと、みんなが笑った。いかつい漁師たちの野太い笑い声が腹に響いた。
「アホか。体育は5じゃ」
「ほー。そりゃアホの言い分じゃ」
またみんな豪快に笑う。これは港のジョークなのか。
「はあー、八さんなら知っちゅうか?八さん、むかしからおるけぇ、辻村いう漁師知っちゅう?」
隅で大人しく日本酒を飲んでいた赤ら顔のお爺さんがいた。こちらの日焼けは更に年季が入っていて、よれよれの半袖Tシャツからはみ出している腕は赤を通り越して石みたいな色になっている。顔なんか、額に深くたくさんの筋が入り、それがシワなのか目なのか《《ほうれい線》》なのかわからない。顔がまるで岩だ。
「辻村さん?辻村さんね、辻村さん?」
お爺さんは独特なイントネーションで名前を繰り返した。
「八さんさぁ、6人兄弟やのに《《八郎》》やど」
またシゲさんの港ジョークでみんなが笑う。
「親父がな、役所に「《《六》》郎」って書いて出したんだけど、あんまり字ぃ汚えから、《《八》》に間違われたんよ」
おちょくられてるのにお爺さんは嬉々として解説してくれた。これはお爺さんの鉄板ネタなのだろう。
「アレじゃねえかな。隣の船着場の太一さんじゃなかか。苗字は辻村やったかなぁ。もう引退しちょるけど、船は置いてあるよ。今でも手入れしとるんじゃねえの」
「ありがとうございます。じゃあ、そちらに行ってみます」
それは確かな情報ではなさそうだが、この町には港はもう1つそこにしかない。そちらの港で情報を得られなければ、あとは交番にでも聞けばいい。最初から交番で聞けばいいのだろうが、警官のお世話になるのはなんとなく面倒臭い。教えてはくれるのだろうが、僕自身のことを根掘り葉掘り聞かれそうだ。警官相手に、その家の孫だと嘘を吐くわけにいかない。
情報を教えてくれたことと海老をご馳走になったお礼を言い、その場を離れようとすると、「ちょっと待てぃ」とシゲさんが僕を止めた。
「よし、車乗っけてっちゃる」
えっ、飲酒運転?田舎はそのくらいならOKなのか。そう早とちりをしていると、シゲさんは車のキーを最初に声をかけた優しそうなオバさんに渡した。このオバさんはお酒を飲んでいない。
「アタシね。運転下手やからすぐエンストするけん」
またみんながゲラゲラ笑う。
「あ、大丈夫です。歩いて行けるので」
「ほうか?結構あるで。歩いていくには、ちぃと遠いど」
「岡山に来たの初めてなんで、ゆっくり海でも見ながら歩いて行きます」
僕は心にもないことを言って遠慮した。歩くのはしんどいけど、親切にされるのはもっとしんどい。それに嘘を言って出てきたが、本当に八十八箇所巡りをするより楽だろう。
「それならなぁ、港に誰もおらんかったら桜庭さんにでも聞いてみたらいい。この道路ずうっと真っ直ぐ行って、途中にプレハブ小屋が建っとるけん。そこにずっとむかしからこの辺を見とった桜庭さんって爺さんが住んでるけん、なんか知っとるかもよ」
最後に6人兄弟の八郎さんは、親切に教えてくれた。
他人と話すのは面倒だし、親切にされるのも好きではない。海も嫌いだし、海老もそんなに好きじゃない。なのに、なぜかここを離れるのが少し寂しい感じがした。多分、それは気のせいだと思う。だけど、もう少し海老を食べればよかったかな、と踵を返し港の方に向いた僕の背中が、なんだか肉癢ゆい感じがした。




