数原 利休
第57話 悟りの途中
岡山駅に着いた。
駅から外へ出ると、カラオケや金融会社、カメラの会社の看板が見えた。駅前の広場は綺麗に舗装され、少し離れたところにバス停やタクシー乗り場がある。タクシーに乗ろうとしてタクシー乗り場まで歩くと、牛丼チェーン店の看板が見えたので、タクシー乗り場を通り過ぎた。
丁度昼時だったので、牛丼を食べることにした。べつに腹が減っているわけでもない。昼時だから昼飯を食べる。ただ、それだけだ。
せっかく岡山まで来たんだから岡山でしか食べれないものを食べたらいいじゃないか、と人には言われるだろうが岡山と言って思い当たる食べ物も知らなかったし、調べる気にもならなかった。
べつに岡山が嫌いでもないし、岡山まで来たことを不服に思っているわけでもない。そういうことに興味がないだけだ。どこの駅で降りても大して風景など変わりない。建っている建物が違うだけだ。
岡山と静岡が、どっちが都会だ田舎だと張り合うつもりもない。たとえ東京や大阪の都会の駅でも、多少田舎よりもゴチャついているだけで、それが風景として衝撃を受けることもない。食べ物だって同じだ。ご当地グルメとか、あまり興味が湧かない。食事なんて腹を満たすだけだと思う。味音痴というわけではない。普段から優禅さんが作る美味いものを食べさせられてたら、他の食べ物に特別感など抱かなくなってしまう。美味い、不味いということよりも、三度三度食べられることに感謝しなさい、と和尚に教えられている。どんなものを口にしても、その度感謝することは怠らないようにしている。
牛丼チェーン店に入る前に、雲仙さんに電話した。「念のため岡山駅に着いたら連絡をしなさい」と和尚に言われていた。和尚は携帯電話の類が嫌いなのでスマホを持っていない。いつもこういう時は雲仙さんか優禅さんの携帯に連絡するようにしている。
まったく和尚はいつまで僕を子供扱いするのだろう。劉弦さんや天馬さんに「着いたら連絡しなさい」なんて言ってるのを聞いたことがない。僕の方が劉弦さんたちより、色んなことの分別ができる。まあ、劉弦さんたちに連絡しろと言っても言うことを聞かないのだろう。僕だって、今日みたいな遠出の場合は、言われなくても連絡くらい入れるのが常識だということはわかっている。それを態々言われるのが、ちょっと癪に触った。
しかし、そんなことで一々腹を立ててたら時間の無駄遣いだ。
『あ、利休さんですか』
「はい、岡山に着きました。今から食事にします」
『遠いところご苦労様です。気をつけて行ってください』
「はい。食事が済んだら天馬さんの実家を探します」
雲仙さんと優禅さんは、僕を1人の大人としてちゃんと接してくれる。劉弦さんたちとは歳もそんなに変わらないはずなのに、えらい違いだ。蓮実さんは、子供扱いしてくるところはあるが、色んな面で助けてくれる。世間の母親というものがどういうものか知らないが、こういう人が母親なら子供が困ることはないのだろうな、と感じる。
ここで本来なら父親の役は蓮実さんの元夫の劉弦さんなのだろうが、あの人は子供だ。特に天馬さんと絡むとタチが悪い。立ち振る舞いは劉弦さんの方が大人に見えるが、中身はどっちもどっちだと思う。
僕を拾ってくれたのが和尚なので、和尚が父親ということになる。見た目はお爺ちゃんだけど。
辞書で「父親」と調べても「男親」としか書かれていない。「父」だけで調べてみると、「男親」の他には「新しい世界を開いて偉大な業績を残した先駆者」「キリスト教における神」とある。仏教ではお釈迦様のことを「父」とは言わない。僕なりの解釈だけど、お釈迦様は仏の教えを伝えた先駆者ではあるのだろうけど、それが新しい世界なのか偉大な業績であるのか、と考えると少し違う気がする。お釈迦様は、元にあったものを考える上で、それを色んな人に対して色んな言葉で伝えただけだ。べつに何かを作ったわけではなく「ありのままをありのままに受け止めなさい」、この一言を伝えたかっただけなんじゃないか。「こうしなさい」「ああしなさい」ではなくて、「こう考えてみたらどうだろう」という一人一人に寄り添った上で、成り行き上あんなにたくさんの教えに膨らんでしまったんじゃないか。
蓮実さんに来るたくさんの相談を見ていると、人間関係のトラブルばかりだ。職場で精神的な苦痛を味合わされた、家族にモラルのない言葉を浴びせられた、相手から暴力を振るわれた、などなど。もちろん可哀想だとは思うけど、いつも何かが引っかかる。誰もが自分の被害を訴える時、相談者という主人公がありとあらゆる苦難に遭遇し、最後のラスボスがハラスメントをしてくるのだ。職場や状況は違えど、だいたいが同じ物語だ。原因は自分にあるかも知れないと口にする人は少ない。その少ない人たちの中でも「あなたが悪いんじゃない」という言葉を待っている。
僕は相談者の方が悪いんじゃないか、と言いたいのではない。他人に苦痛を与える方が悪いに決まっている。だけど、なぜ苦痛に感じるのか。道を歩いていて、すれ違う見知らぬ人に苦痛を感じないだろう。見た目が柄の悪い人だったら避けて通るはずだ。その柄の悪い人にぶつかりでもしたら、難癖つけられるに決まっている。相手に嫌な雰囲気を感じたら少し距離を取ればいいだけの話。
結論から言うと、相手との距離が必要なのだ。それをみんな、まるで通り魔でも遭ったかのように自分のことを不幸だ、不運だと騒ぎ立てている。
不幸、不運には不測の事態だってこともある。見た目、柄が悪ければわかりやすい。でも、見た目では気づかないことだってある。最初の印象は悪かったが、付き合ってみるといい人だったなんてこともあるだろう。でも、みんなが縛られているのはそこじゃない。職場の人だから、家族だからという柵だけに囚われている。職場の人とうまく付き合わなければならない。家族だから仲良くしなければいけない。そのために自分が我慢するという選択肢をとってしまう人が多い。
なにもみんな好き勝手にやればいいと思っているのではない。好き勝手やってたら、カオスになってしまうことくらい重々承知だ。時には少しの我慢も必要ではある。だけど自分を押し殺すまでの我慢は、不必要だ。
それは我慢ではない。していい我慢というのは、少し時間が経てば気にならなくなる程度の我慢だ。それ以上の我慢は、自分の首を絞めてしまう。
いい例を挙げると、僕と天馬さんの関係だ。あの人が僕のことを揶揄う。煩わしいのでそれを無視する。こうすることで、ある程度の距離が生まれる。僕は気分が悪いが、バカな奴に言われても気にしないようにしようと少しの間我慢する。天馬さんは生意気だと陰で罵ったりするが、それで気分を発散させる。時間が経てばお互いにそれは忘れている。特に天馬さんにやめてほしいと訴えることもしないし、天馬さんも後を引きずったりしない。また明日になれば同じことの繰り返したが、それ以上もそれ以下もない。そういう距離なのだ。
相手に見返りを求めてしまうから、それに見合わないと不満を抱えてしまう。相手を改善させることは、こちらの我儘だ。こちらの我儘が通らない相手の我儘を聞かないためにも、距離が必要なのだ。
お釈迦様も諸行無常と仰っている。死ぬのも生きるのも、成長するのも無常なのだ。無常とは、不変なものは無いということ。こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない、なんてことは考えないでありのままを受け入れるしかないのだ。
だから劉弦さんたちがやっている復讐代行の仕事は、相談者の解決に結びつかないと僕は思っている。だけど、無意味ではない。あの復讐代行は、相談者と対象者の距離を作ってあげる作業だと思う。その距離を作ってあげることで、相談者だけでなく対象者にとってもその方が有益なのだ。
天馬さんの家族にとって、せっかく天馬さんと距離を置いているのに、今更僕が会ってどうするのだろう。
むかし天馬さんが住んでいた町の名前しか聞かされていない。住所は和尚にもわからないのだそうだ。とりあえずその町に向かうしかない。こんなことさせて、和尚は僕を弄んでいるのではないか。
僕はタクシーに乗り、和尚から聞いた町の名前を告げた。番地がわからないのでその町の港に行ってください、と運転手に伝えた。天馬さんの実家は定食屋を営んでいるが、父親は漁師だと聞いていた。港に行けば知っている人がいるかも知れない。
僕の見た目が幼いことと、行き先が曖昧なことを訝しんだ運転手は「親御さんは知ってるの?」と聞いてきた。
「港に行けば、お爺ちゃんが迎えに来てくれます」
と、僕は相手が望みそうな答えを適当に答えた。
しかし、僕がなんでこんな探偵みたいなことをしなければならないんだろう。




