第2章 諸行無常〜現実はどう足掻いだって現実でしかない 数原 利休
第56話 嘘の八十八ヶ所巡礼
車窓から見える風景は、僕にとってはただの風景。することがなくて顔を上げて、ちょっと横を向いたら視界に入ってきたもの。同じような建物や看板、田んぼや畑、そして平地。たまにひょこっと見える海。大手企業の看板を掲げた工場なんか見ると、へえ、こんなところにあったんだ、と思うくらい。風景は、ただただ左から右に流れていく。
トンネルに入ると外が暗くなり、車内の灯りで反射した窓に映る自分の顔と見つめ合ってしまうことになる。へえ、僕ってこんな顔してたんだ。天馬さんたちに童顔であることでガキ扱いされるけど、18年かけて出来上がった顔は、自分では幼いのか老けてるのかなんか考えることはない。顔を変えたり、成長したりするのは面倒臭い。
自分と同年代が周りにいないから、同年代と接することがないのでわからない。テレビで見る同年代の芸能人を見ても、なんとも思わない。バラエティー番組で映画の番宣かなにかで出てきた主役の女優さんが年齢を言うと、えー、なんて観覧者の声が聞こえる。そんなに若いのに大人っぽく見える、ということなんだろうけど、そんなの大人っぽい化粧すればそうなるでしょ。若い時は大人っぽく見られたいのに、歳をとってくると若く見られたいという女の人の心理がわからない。その点、男は化粧とかしないから、いつまでもガキな人が多い。うちのお寺にも2人ほど、そういう大人がいる。
利休くんは、年齢の割にしっかりしてるね、なんて言われることがある。まずはこの《《年齢の割に》》というところだ。これを言ってくる人は、僕のことを18歳だと認識しているのだろうか。僕の発言や行動を見て《《しっかりしている》》と言うのだろうが、世の中の18歳という基準がわからない。自分ではまだガキだと思っていないが、取り立てて大人っぽいとも思っていない。《《しっかりしている》》というのは、うちの2人が《《しっかりしていないから》》じゃないか。
まあ、みんなが言うのだから見た目は幼いのかもしれないが、べつにそれについてはコンプレックスに感じてはいない。でも見た目が幼いからと言ってバカにされるのは違う。
若干、沙千絵さんにもその節がある。彼女は僕のことを子供扱いしているように感じた。相手の方は30歳で随分と年上ではあるが、18歳で社会人であれば付き合いというものは対等とまではいかないが、互いを尊重して話すべきだと思う。沙千絵さんは僕の実年齢を知らないから仕方ない。和尚以外は、僕のことをちゃんと知らない。
劉弦さんと天馬さんは僕の実年齢を知っていようが関係がない。バカにしてくるのは、それは子供扱いというわけではなく、単にそういう人たちなのだ。僕が同年代であろうと、顔が老けていようとも、なにか理由をつけておちょくってくる輩だ。おちょくる内容も中身がないから、全く腹が立つことがない。バカを相手にしてあげているので、感謝していただきたい。
くだらないことを考えている間に、もう大阪まで着いてしまった。静岡から目的地の岡山までは、正味3時間くらいで着いてしまう。
僕は新幹線に乗っている。鉄道オタクではないけど、こんな乗り物を作ってしまう人間というのは改めて凄いと思う。後世にこんな物ができると江戸時代の人は想像したのだろうか。自分の足で歩いて日本地図を作った伊能忠敬がこんな乗り物を見たら、どう思うか。17年もかけて歩いて計測した日本地図が役に立ったのかと喜ぶのか。それともそんな長い時間をかけたことをバカらしく思うのか。暇だとくだらないことを考えてしまう。
僕は和尚の指示で、岡山に向かっている。
出家するため、というのは嘘だ。もちろん出家はするのだが、それは外出するための口実。四国に和尚の知り合いなんていない。四国になんか用事はない。そもそも出家なんて地元でもできる。
和尚に頼まれたのは、天馬さんの実家に行くことだった。四国だと嘘を吐いたのは、天馬さんのようなアホな人は出家するために八十八ヶ所巡りをするといえば信用すると思ったからだ。岡山といえば中国地方なので、方面的に四国と思い付いただけだ。
天馬さんはすっかり信用したようで、感動して泣いていた。捻くれてるくせに、心は真っ直ぐな人だ。
和尚に言われたことは、天馬さんの家族に会ってきなさい、ただそれだけ。天馬さんの家庭の事情は、僕はよく知らないし、興味もない。天馬さんはむかしヤクザのようなことをやっていて地元に居られなくなった、というのは本人の口から聞いていた。天馬さんが岡山を離れて、もう20年以上も時が過ぎているというのに、和尚は僕に何をさせたいのか。
『家族がもう天馬さんのことを許しているのか、それを確認してくるということでしょうか』
僕がそう聞くと、和尚はフフフッと笑うだけで何も言わない。家族の愛を知らない僕に、家族の絆みたいなものを見て来い、とでも言いたいのだろうか。それは僕の出家と関係あるのだろうか。
「家族の愛」というのは単語でのみ意味は理解しているが、それがどういうものか僕は知らないし、実際わからないのだから理解しようもない。
僕の家族は和尚たちだ。和尚が父親で、蓮実さんがお母さんみたいなもんだ。雲仙さんと優禅さんはお兄さんですかね。あの人たちが僕の家族の代わりだ。一緒の屋根の下で暮らしている。家族とはそれ以上でもそれ以下でもない。
もちろんただの同居人というわけではない。僕を受け入れてくれた和尚には感謝してるし、誰かが病気になったら心配もするだろう。
劉弦さんと天馬さんのことも一応家族だと思っている。どうしようもないアホたちで、面倒臭いし、煩わしいし、話しかけないでほしいし、どこかへ居なくなってくれないかなあと思うが嫌いではない。少し嫌味な出来の悪い兄貴たちだ。いや、弟と言った方が正しい。
僕は親に捨てられた、そう話す方が手っ取り早いのでそう言ってきたが、実際はちょっと違う。僕はあの家に生まれたけど、家族ではなかった。父親は仕事もしないで昼間から酒を浴びて、夜働く母親は色んな男の家で寝泊まりしてほとんど家に帰ってこない。ここで言う父親、母親というのは生物学上の親でしかない。その生物学上での父親と昼間一緒にいても、僕と目を合わせようとしなかった。酔って暴力を振るうならまだいい方だ。僕は自分が透明人間なのではないかと錯覚した。父は独り言のように、お前は本当は誰の子なのかわからん、と言った。その父親は生物学上の父親ですらなかったのかもしれない。
くだらないことを思い出してしまった。過去を思い出す時、現実味がない。その記憶は長い年月をかけて捻じ曲がったり、僕の都合で脚色されているかもしれない。和尚たちとの生活が日常で、過去の自分はすでに忘れかけている。僕の記憶にはすっかり靄がかかってしまった。
そんな僕に天馬さんの家族と会って、いったい何を話せばいいのか。天馬さんはウチで結構元気にやってますよ、と伝えてくればいいのだろうか。いい大人のクセしてアホですが、むかしからそうなんですか、と聞けばいいのか。
単刀直入に天馬さんを許しているのか聞けばいいのか。許してると聞き出せれば、「へえー、そうなんですね」と思うだけだし、許してないと答えられれば、「へえー、でしょうね」と思うだけだ。そんなこと電話でもして聞けばいいだけなのに。和尚はいったい何を考えてるのだ。
何かを感じてこい、という思惑があるのだろうけど、僕の心はそんなに柔軟じゃない。べつに傷ついて心を閉ざしているわけではないからだ。
まあお世話になっている和尚の頼みなので、天馬さんの家族と会って、事実をそのまま伝えれば僕の仕事はそれで終わりだ。時間が余れば四国へ行って、本当に八十八ヶ所回ってくるのもいいかもしれない。その八十八ヶ所巡礼するのも、一つ一つのお寺を見て肌で感じ、何かを得るものがあるのだろうか。僕にとっては、そういうことはただの体験だ。体験に何かを期待してはいない。体験によって、物事を知ることは重要である。ただそれだけのことだ。
あと数十分で岡山駅に着く。顔を横に向ければ新幹線の窓がある。風景は相変わらず左から右に流れているだけだ。




