浅川 沙千絵
第52話 醤油
「本当にそそっかしい妻で、ごめんなさいね」
小杉さんは車のキーを受け取ると、慌てた様子で財布とエコバッグを持って出掛けた。
「慌てて事故起こすと心配だから、ゆっくり行ってきなさい」
そう言って奥さんを見送ると、玄関の鍵を閉めた。
小杉さんはスーパーへ向かう態にしてあるが、近くのコンビニの駐車場で待機している劉弦さんたちと合流することになっている。部屋の様子は、隠しカメラで監視されている。ワタシに危険が及べば助けに来てくれる算段だ。
事前に一休くんと呼ばれている機械に詳しい男の子が、食器棚に隠しカメラを設置していった。万が一のために寝室にも隠しカメラを設置していたが、そこまでなる前に止めに来てほしい。
旦那のスマホが鳴った。奥さんの小杉さんからだった。優しそうな笑顔でスマホに出た。内心は邪魔だと思っているのに違いない、
「あー、そうだったね。一口だから大丈夫だと思ったけど。そうだね。危ないから、そうしなさい。急がなくていいからね」
そう言って電話を切ると、
「さっきビール一口飲んじゃったから、運転しない方がいいかなって。妻はそそっかしいからね。危ないから歩いて行くって。歩いてだとちょっと遅くなるから、僕でよかったら、その間、悩み聞きますよ」
旦那は席を立ち、さっきまで小杉さんが座っていたワタシの隣の席に座ってきた。普通の人より間合いを詰めてくるのが早い。前職の上司、大石さんを思い出した。年齢の割に若く見えるところとか、若い子に受けそうな匂いのフレグランスを付けてるところとか。少し幼く見える甘い顔とか、大石さんに似ている。こういう人が中途半端にモテたりするから勘違いを助長する。
ワタシは少し戸惑う様子を演技した。こんな話を関係ない旦那さんにまでして申し訳ない、という態を作る。
「実は、浩子さんには言ってないんですけど、ワタシ、彼が妻子持ちだって知ってて付き合ってたんです」
旦那は驚いた顔を作っていたが、その裏側でチャンスを伺っている。
「お金の話は本当なんです。奥さんと離婚したらワタシと一緒になるための貯金をしようって。そこから彼は自分の交遊費を捻出してたんです。ワタシ以外にも浮気してることは、わかってました」
旦那は一瞬奥歯で何かを噛み潰したような顔をした。この話は耳が痛いのだろう。でもワタシは、アンタみたいなどうしようもない男に騙されてしまうバカな女を演出しなければならない。
「ワタシと結婚してくれないのはわかってます。むしろ、結婚してもうまくいかないことくらい想像できますもんね。でも、なんでしょう。一緒に貯金するって言われた時、ちょっと嬉しかったんですよね。きっとこの人使っちゃうんだろうなってわかってても、なんか一緒にそういうことするの、嬉しいって思っちゃうんです」
ダメ男に引っかかるダメ女。シナリオの大枠はできていたけど、セリフはほとんど決めていなかった。相手がどんなことを言うのかわからないから、ポイントだけ押さえてあとはアドリブでやってくれ、と指示されていた。
そのアドリブが自分でも驚くくらいにスラスラと出てくる。嘘をつくのは苦手だし、演技なんかやったことがない。べつにこういう実体験があるわけでもないし。もしかしたら、ワタシはダメ女なのか。ダメ女のワタシにダメ女が憑依する。んー、いまいちピンとこない。そんなことどうだってよいが、ワタシはこの仕事に向いているのかもしれない。
「きっと《《さっちゃん》》は優しいんだねえ」
本人の許可も取らずに、「さっちゃん」と呼んで間合いを詰めてくる。旦那は空を見上げ、満足気な顔で言った。そしてワタシの背中に手を回してくる。鳥肌が立った。
人に《《優しい》》というのが褒め言葉と勘違いしている人が多いが、言われた方は然程嬉しくない。ワタシはその言葉はいろんな人に何回も言われてきた。むしろバカにされている感がある。他人を信じやすい鈍感な女。
「ダメな人を引き寄せちゃうんですかね。ワタシ」
ガンガンに鳥肌が立ってるけど、ワタシは少し旦那の方へ体を寄せた。そっと肩に手を乗せられた。震えが足先から登ってきたが、奥歯を噛み締め耐えた。
「さっちゃんが悪いんじゃないと思うよ」
そう言ってワタシの顔を覗き込む姿は、本当に大石さんに似ていた。包み込むような優しさを演出しつつ、本当は懐の浅い男。ワタシはこの男を介して、大石さんに復讐をしていると錯覚してきた。必ずこの男には後悔させてやる。相手が大石さんとダブるから、こんなにセリフがスラスラと出てくるのか。
ふと美幸の顔が頭を過った。美幸はワタシに大石さんとの関係を悩みとして打ち明けた。あれ自体が嘘だったのだ。本当はワタシのことなんか見えてないんじゃないか。本当は大石さんに構ってほしかっただけなのだ。他人を騙していると、騙している人の気持ちが手に取るようにわかる。きっと美幸は、ワタシにいなくなってほしいと願っていたんだ。急に吹っ切れてきた。ワタシの悩んでいたことなんか、所詮貰い事故のようなものだった。
「いや。やっぱりさっちゃんが悪いのかな」
肩に手を回した手を外し、旦那はワタシを正面に見た。
「その彼の気持ち、わかるよ。君が魅力的だから、離れてほしくなかったんじゃないか」
うわっ、気持ち悪ぅ。鳥肌はマックスで棘のように服の生地を刺した。コイツはこういう言葉を言うことに慣れている。今まで何人にも同じようなことを言ってきたのだろう。ワタシは両腕の鳥肌がバレないように、両腕で体を包むようにして隠した。
「実はね、もしかしたら聞いてるかもしれないけど、僕たち夫婦はうまくいってないんだよ。浩子から、聞いてない?」
ワタシは「えっ?」と言って、驚いた顔を作った。いや、正確には、このタイミングでもうそんなことを言うのか、と本気で驚いた。
「妻は僕の浮気を疑っているだが、浮気はしてないんだよ。うちにも離婚の話が出ててね」
「え?そんなんですか。そんな時に、ワタシ変な相談持ちかけてしまって。先輩に申し訳ないです。それに、旦那さんにも」
「僕のことはいいんだよ。時間が解決してくれるかと思ってたけど、妻の方は離婚したいらしいんだ。そう思わせてしまっているのには僕に原因がある。もう3年も前から妻に対しての愛情はないんだ。他に好きな人がいるってことじゃない。でも、好きな人ができたかもしれない」
うわっ、臭っ!臭、臭、臭っ!!展開が早過ぎる。次のセリフが見え見えじゃないか。小杉さんは監視カメラをどんな気持ちで眺めているのか。
旦那がワタシの連絡先を聞いたら、もしくはワタシの方から連絡先を教えた時点で、奥さんが戻ってくる予定。
旦那は鼻の穴を膨らめて、どんどん顔を近づけてくる。普通、奥さんが帰ってくる家で、そんなことする?それに奥さんが出ていってから、まだ20分くらいしか経ってないのに。この男、病気だ。このままじゃ、押し倒されかねない。早く連絡先を交換しなければ。
「あの、浩子さん戻ってきちゃいますよ」
「大丈夫だよ」
なにが大丈夫なんだ。コイツ、イカれてる。
「僕だったら、一緒に貯金なんてしないよ。そんなことしなくても一緒になれるから」
もう、何言ってんだコイツ。
「ちゃんとゆっくり話しましょう。連絡先交換しませんか」
ワタシは接近してくる旦那の体を少し押し返して、スマホを出した。「ああ、そうだね」旦那も少々バツが悪くなったのか、慌ててスマホを出した。LINEを開き、互いで登録したところ、丁度小杉さんが到着した。
鍵が差し込まれる音が玄関から聞こえると、旦那は小さく舌打ちした。それでもLINEを交換できたのでとりあえず満足したようだ。スマホをすぐに仕舞い、小杉さんの顔を見ると、ありがとう、と言って事前にワタシたちが用意してあった醤油を受け取った。
「なに話してたんですか?」
小杉さんは鍵と財布を片付けながら言った。監視カメラで全て聞いていたのに、すました顔で旦那に聞いた。
「いや、少しさっちゃんの悩みを聞いていたんだよ」
そう、と無表情で返事をしていた。醤油の小皿をみんなに分ける。
「アナタなら、その彼の気持ちわかるかもね」
全てを聞いていた小杉さんは、軽く嫌味を言った。監視カメラで見られていることを知らない旦那は、ふと素の顔になったが、笑って誤魔化した。自分が口説いていた言葉を聞かれていたなんて想像もつかないだろう。きっと、浮気男の気持ちは浮気男がわかるんじゃないですか、という奥さんからの嫌味に聞こえたに違いない。
旦那は居心地が悪そうな笑みを浮かべ、ワタシたちは食事をとることにした。今まで生きてきて、こんなに味わうことができない夕食は初めてだった、




