浅川 沙千絵
第51話 甘い罠
「浅川さん、大丈夫ですか?」
ワタシは緊張のあまり喉が乾きすぎて、小杉さんが出してくれるお茶を何度もおかわりしていた。したがって、トイレの回数が多くなる。
「全然大丈夫です。あと、それと旦那さんの前では下の名前で呼んでください」
「あ、えっと、さ、沙千......」
「沙千絵です。サチエ」
ワタシは今、小杉浩子さんの家に来ている。あの浮気症の旦那待ちだ。この計画はワタシの案が通り、ワタシは小杉さんの会社の後輩という設定だ。念のため偽名の方がいいと、ワタシの役名は『今井沙千絵』となった。自己紹介の時しか苗字は言わないのでなんでもよかったのだが、下の名前まで偽名にしてしまうと間違える恐れがあると劉弦さんが言うので、下の名前はそのままだ。
今日の仕事は、旦那にワタシの連絡先を知らせるところまでと指示されてきた。さすがに初めて会ってすぐには連絡先は聞いてこないんじゃないかと思ったが、こういう男は必ずモーション仕掛けてくる、と劉弦さんたちは言っていた。チャンスを逃さないために、初めてとか関係ない。必ずなんらかの繋がりを求めてくるのだそうだ。
旦那の顔を確認しておくために、結婚式の写真を見せてもらった。一緒に撮ったスマホの写真は全部消してしまったのだそうだ。
写真の旦那は眉が太く、キリッとした目をしていた。体型は中肉中背で、優しそうな印象だった。結婚式の写真は、悲しいくらいに2人とも幸せそうな笑顔だった。
小杉さんには、前もって旦那にワタシが来ることを伝えておいてもらった。後輩の相談にのるため、うちで食事することになったという流れにしてある。初めは勝手にうちに呼ぶなんて図々しい、と義母のいびりが始まったらしい。でも、それは想定内。なんとか義母を追い出し、旦那にも参加させる算段なのだ。
事前に小杉さんとワタシで一緒に撮った写真をスマホの待ち受け画面にしておいてもらった。写真を撮る時、少しでも餌にかかりやすいように、ワタシは少し胸が大きく開いたシャツを着た。作戦のために、ワタシの唯一の武器は出し惜しみしない。ワタシは覚悟を決めたのだ。
タイミングを見計らって、さりげなくワタシたちの写真が旦那に見えるようにスマホを置くように指示してあった。アホな旦那はすぐに餌に食いついたそうだ。離婚していないからまだ彼女の家でもあるから、と無理矢理母親を説得していたらしい。
「旦那さんはなんて言ってお義母さんを追い出したんですか?」
今日、小杉さんの義母がいると面倒だなと思っていたが、ここには義母の姿はなかった。
「うちが揉めてると知られるのも世間体が悪いし、慰謝料の話もスムーズに済ませたいなら、あんまり浩子をいびらない方がいいって」
「なんですか、その理由」
「お義母さんも慰謝料の話が出たら、わりと素直に従ってましたよ。親子揃ってがめついから、ホント嫌になります」
ここまでの流れは順調にいっている。浮気症の性分を利用するためにワタシの写真を見せた。それで食いついてきたのが、奥さんを前にして気まずい心境ではある。小杉さんはそれを察してか、ワタシをフォローするような言葉を言った。
「沙千絵さんは、若くて綺麗ですから」
ワタシは他人に綺麗だと言われたことがない。男性に言い寄られたことがないわけではないが、見た目の印象が地味だと自覚している。目も大きくないし、薄い唇に小さい鼻。華やかさがないんだと思う。大きいのは胸だけだ。「そんなことないです」と言うと微妙な空気になった。
「いいんですよ、あんな人。もうこれっぽっちも未練はないです」
これがワタシの仕事、これがワタシの役割だと割り切る。
「沙千絵さんにこんなこと頼んで申し訳ないです。もし変なことされそうになったら、本当のこと言ってください」
小杉さんは、自分のことよりもワタシのことを気にかけてくれている。こんないい人に辛い思いをさせる旦那のことが許せない。なんとしても、これは成功させるしかない。
ガシャガシャッと玄関に鍵を挿す音が聞こえた。旦那が帰ってきた。時計を見ると午後7時前。
「あの人、こんなに早く帰ってくることなんてないんですよ」
そう言って小杉さんは鼻で笑った。まったく未練がないというのは嘘かもしれないが、きっと憎しみの方が上回っているのだ。それにこれから彼に待ち受けている不幸が楽しみで仕方がない様子。失敗は許されない。
「あと、沙千絵さんって言うのも不自然なので、《《さっちゃん》》でお願いします」
ワタシは早口で指示した。小杉さんはコクッと頷いた。
ワタシは俯き、肩を落とした。小杉さんが寄り添うように肩を抱き、スタンバイした。
「ただいま。あれ、お客さん?」
旦那は扉を開けて、惚けた声を出してリビングに入ってきた。ワタシが来るのを知っていたくせに、下手な芝居をしてきた。
「あ、お邪魔してます。すみません、すぐ帰ります。先輩、ありがとうございました」
ワタシは急いで帰り支度をする芝居をした。
「《《さっちゃん》》、いいのよ。それに、まだご飯も食べてないじゃない」
目の前には小杉さんが用意した料理が並べられてある。こちらの指示した通りに和食だった。指定したお刺身もある。
「いやいや、ゆっくりしていってください。浩子がお客さん呼ぶなんて珍しいんだから。浩子もお客さんいるなら言ってくれればいいのに」
とてつもなく態とらしい芝居だ。こちらは全て事情を把握しているだけに、彼の一挙手一投足が虚しく映る。
「あ、それか僕がお邪魔なら、どこか出掛けてきましょうか」
旦那は、愛想の良い笑顔でそう言った。写真で見た優しそうな笑顔が、いやらしく見える。
こちらは浮気旦那の好みに合わせて、体のラインが出る半袖の白いニットを着ている。見られるのは覚悟の上だが、ジロジロと視線を感じる。
「いえ、旦那さんが出掛けるなんて。ワタシのことは気にしないでください」
「じゃあ車で送っていきましょうか?」
びっくりするほど食いつきが早い。この早さは想定外だった。車で2人きりになんかなったら、いきなりホテルに連れてかれても困る。
小杉さんに目をやると、手順通り冷蔵庫を開けていた。
「アナタの分もあるけど、一緒に食べましょうか」
小杉さんは1人分の刺身を盛り付けてある皿を冷蔵庫から出してきた。
「え、僕の分もあるの?じゃあご一緒しようかな」
ニヤニヤしながらワタシの前に座った。ワタシが、今井です、と自己紹介すると、今井さんという苗字は綺麗な人が多いんだよ、と訳の分からない理由で褒めてきた。この人は呼吸するのと同じように、こういう言葉ばかり出てくる人なんだろう。
「なんの話をしてたか、聞いてもいいのかな?」
チラッと奥さんの顔を見てから、ワタシの顔を見た。ワタシは小杉さんの方を見て、旦那さんの意見とかも聞いていいですか、と訊ねた。小杉さんは静かに頷いた。
「ワタシの彼の話なんですけど、結婚まで仄めかしてたくせに、その人、子供がいたんです」
「え?既婚者だったってこと?」
旦那は身を乗り出して聞いてきた。
「離婚調停中みたいなんですな、それ、つい最近まで知らなくて。実は2人で結婚するために一緒に貯金してたんです。でも、彼はそのお金、生活費とかで使ってたみたいで」
「そりゃあ、酷い」
旦那は眉間に皺を寄せ、あり得ないと首を振る。どの面下げて、そんな感想を言えるのだ。
「なんか借金とかもあるみたいで」
深刻そうな顔を作っているが、その薄い仮面の下のニヤけた顔が透けて見える。
小杉さんはグラスを2つ持ってきて、旦那とワタシにビールを注いだ。
「どうしたんだよ、浩子。お前も一緒に飲まないか?」
小杉さんは戸惑った顔で、じゃあ私もいただくわ、とぎこちなく応えた。普段言わないことを旦那が言ったので、驚いたのだろう。3人分のグラスにピールが注がれたところでカンパイをして、みんなが一口飲んだ。
それじゃあ食べようとしたところで、旦那は醤油がないことに気づいた。
「おい、醤油は!」
旦那の声色が一瞬鋭いものに変わったが、ワタシの存在を思い出して、俺が出してくるよ、と優しい声で冷蔵庫を覗きにいった。もちろん、冷蔵庫にも醤油はない。
「無いぞ!」
冷蔵庫の中をガシャガシャと音を立てて探している。冷蔵庫の扉で顔は見えないが、音の大きさでイラついているのがわかる。
「すみません。醤油切らしてたかもしれません。すぐに買ってきますよ」
小杉さんがそう言うと、旦那の動きが止まった。静かに扉を閉めて、振り返った旦那は鼻の下を伸ばしてニンマリ笑っている。
「もう、そそっかしいなあ。刺身買って醤油がないなんてねえ。悪いが、買ってきてくれるか?」
旦那はこれでワタシと2人きりになれる、と気づいたのだろう。急に機嫌がよくなった。普段は奥さんに暴力を振るう男が、慣れない笑顔を作るから気持ちが悪い。
「気をつけて、行ってきなさい」
旦那は車のキーをぶら下げて、優しい声で奥さんにキーを渡した。
料理を指定し、刺身を用意し、醤油を隠したのもワタシたちだ。これはワタシと旦那が2人きりになる作戦。旦那はまんまとワタシたちの罠にハマってくれた。




