辻 天馬
第47話 浅川沙千絵という女
浅川沙千絵を見て、長野の女を思い出しちまった。一瞬、顔が綻んでしまったのに自分自身で気づいた。あの女には黙って居なくなって、許されないことをしたと思っている。だが、俺にとっては辛い想い出ではない。むしろ、俺にとっては大切な時間を過ごせた幸せな想い出だ。
浅川沙千絵を見てニヤけた俺に、劉弦も蓮実も気づいていた。いつもの調子でヘラヘラして誤魔化した。
和尚には俺が地元でチンピラだったことや、弟の舜のことは話しているが、長野の女のことは話していない。劉弦とは、互いに過去の話には触れないようにしている。そういった面で、距離感が丁度いい奴だ。
俺は胸の大きい女に反応してしまう。それは長野の女のせいかもしれない。劉弦たちは、俺がただの巨乳好きだと勘違いしているが、その方が助かる。訂正するつもりもない。
あれから何年経ったか忘れた。あの女だって既にオバサンになっている筈だ。浅川はあの女ではないのはわかっている。この女が龍幸寺に居付くのは、あまり歓迎できない。せっかく忘れかけていたのに、あの女を思い出しちまう。
だから俺は、態と浅川を雇い入れようとアピールしてみた。いい加減な俺がアピールすればするほど、アイツらはあの女を入れることに反発すると思ったが、俺の意図と反して肯定的なようだ。
こともあろうに、あの浅川という女をテストしようと言うのだ。面倒臭い話になってきた。劉弦の考えている意図がわからない。
「お前、あの女、タイプだろ」
劉弦はいつものテンションで、揶揄うわけでもなく普通に言った。否定するのも面倒臭いから、まあな、と答えておいた。
「蓮実のところに、また相談のメールが来ててな。37歳主婦、亭主が浮気症の上にDV夫なんだそうだ。この主婦とアポを取ってある。いつも通り蓮実がカウンセリングする。復讐したいという意志があれば、いつも通り俺たちの出番だ。亭主が浮気症というのが丁度いい。あの浅川という女に、この亭主を引っ掛ける役をやってもらう。そこで、お前が旦那でも彼氏でもいいが、いつもみたいに脅すという段取りだ。脅し方のプラン考えるのは、お前の方が得意だろ」
劉弦は話をどんどん進めている。あの女を参加させるだと?なにを言い出すんだ。
「ん?その亭主を引っ掛ける役が、あの浅川って女ってこと?それは、あの女が了承したのか?」
「だから、テストだって言ってる。その役ができないと言うのなら、うちで働くというのは断る。その亭主を引っ掛ける役も失敗したら、断る。そういう意味でテストだ」
「いや、そんなの無理じゃねえの?俺は蓮実のカウンセリングの仕事を手伝うのかと思ってたけど」
劉弦は、そう答える俺を見て首を傾げた。
「なんだ。お前らしくないな。それとも、あれか。騙すとは言え他の男に接してもらいたくねえのか」
俺も鈍感だが、劉弦ほどじゃない。
そうか。あの浅川という女がテストに落ちればいいのか。普通の素人の女が、そんな簡単に人を騙せるわけがない。おとなしそうな女だった。そんなテストをやるって言ったら、自分から断ってくるに違いない。俺の立てたプランで、そんなのできない、と思わせればいいのだ。
「そんなんじゃねえよ。プラン考えとけばいいんだな」
そんな流れで、今、俺の目の前に浅川沙千絵という女がいる。俺の話を真剣な眼差しで、ご丁寧にメモまで取って聞いている。
「まあ、無理にとは言わない。アンタみたいな真面目な子が、芝居でも男を騙すなんてできねえもんな。仕方ねえよ。こんなことやりたくないと思うよ」
浅川紗千絵はメモを書く手を止めた。じっと下を向き、そうですよね、とボソボソと何か小さい声で言っている。知らねえ男を誘惑して来いと言われて、「はい、そうですか」なんて簡単には受け入れられないだろう。蓮実に聞いた話だと、つい先日まで働いていた会社で上司と噂を立てられたり、パワハラ紛いのことで傷を負ったばかりなのだ。まだ傷が癒えていないうちに、他人を騙すようなことなんてしたくはないだろう。
彼女は下を向いたまま、ゴソゴソとスマホをイジっていた。龍幸寺の評判や口コミでも検索しているのだろうか。ヤバいところ来ちゃった、とか友達にLINEでも打っているのか。
俺は長野の女に似ているこの女を、少なからず傷つけてしまうことに躊躇いがあった。だが、ここは突っ撥ねなきゃならない。こんなことに足を踏み入れさせるわけにはいかないのだ。
「その、DV夫がよく通うキャバクラで働いて、そこで誘惑するというのは、現実的に難しくないですか?」
割と前のめりに聞いてくる。コイツ、意味わかってんのか?お前に無理なことを提案することで、こっちは諦めさせようとしてんだ。べつに意見を聞いてるんじゃない。
「いやいや、嫌ならいいんだ」
「そうじゃなくて、キャバクラで働くというのなんですけど」
「だから嫌だろ。そういうところで働くの、お姉ちゃんは無理だろ」
「キャバクラで働くには履歴書を出さなければならないじゃないですか。履歴書を偽装しても、最近はそういうお店でも素性がしっかりしていない人は雇わないと思うんです。それに、ワタシみたいな地味な女が採用されるとは思いません。仮に採用されたとしても、その亭主がワタシを指名するでしょうか。指名されるようになるまでとなると、かなり時間を要します。プランとしては、あまりにも成功率が低いと思います」
なに言ってんだコイツ、面倒臭えな。やる気満々じゃねえか。
「こういう浮気ばかりしてる人って、それなりに遊び方を知ってると思うんです。後で面倒が起きそうもない軽そうな人を自然と選ぶんだと思うんです。でも、ワタシって、なんかこう、重い雰囲気出ちゃってるじゃないですか」
重い、重い。たしかに重い。腰を上げて俺の肩を掴み、前のめりになって力説する。俺の肩をグイグイ押して、物理的にも重い。そして、面倒臭い。
「もうこの際、重い雰囲気のままでいける方がいいと思うんです。彼氏とうまくいってない女が相談を持ちかけてきたことで、浮気に発展していくとか。その方がワタシできそうです。奥さん、37歳って言ってましたよね。その奥さんって仕事してる人です?」
俺は蓮実に貰った相談者の素性を書いたメモを覗いた。
「えーっと、文具会社の事務員って書いてある」
彼女は、ピョンと飛び跳ね、掌をパンッと叩いた。デカい胸がユサリと揺れた。
「ワタシ、前職は総務部で事務してました!丁度いいじゃないですか。奥さんの部下ってことで。奥さんの協力が必要になりますよね。ワタシが上司である奥さんに相談事があって家に来てるんです。それで、何度か来てるうちに旦那さんと顔見知りになって、相談持ちかけて、そうこうするうちに、っていうのはどうです?」
彼女は名案を思いついてテンションが上がったようだ。声のトーンも1段上がって興奮して話した。蓮実のメモを除いて、旦那さんは41歳なんですね、と独りごちる。
「そのくらいのオジサンなら、なんとかいけそうな気がします。ワタシ、結構オジサン受けいいんですよ。ちょっと露出高めにした方がいいんですかね?」
そう言って自分の胸を、ふんっと持ち上げ、「あ、すみません」と独りで顔を赤らめる。どうなってんだ、コイツは。超面倒臭い奴じゃないのか。
長野の女に似ていると思ったことは訂正する。
全然、似てない!




