浅川 沙千絵
第21話 ちぐはぐ
大石さんは会議室のドアを開けると、待たせたねと言った。大石さんはドア付近のクーラーのスイッチに手を触れた。今日も暑いね、とクーラーの温度を下げていく。経費削減を気にして、クーラーを点けなかったが、大石さんが来る前に点けておいた方がよかったのだろうか。
「浅川さん、たしか学生の頃は静岡に住んでたんだよね」
「はい。高校まで静岡でしたけど」
なぜそんなこと聞くんだろうか。単なる世間話なのだろうか。
「あー、そう。じゃあ今は実家、東京なんだ」
「父の転勤で東京に来ることになったんですけど。最初は父が単身赴任する予定でしたが、ワタシもこっちの大学受かったので、家族全員で東京に住むことになりました」
厳密には父はしばらく東京で勤務した後、静岡に戻るつもりであったが、その会社が倒産した。すぐにお爺ちゃんの住む静岡に戻ると思いきや、こちらでパン屋を始めて現在に至る。
「じゃあ静岡には、もう家無いんだ」
「あ、それまでは父方の祖父の家で同居してたんで、祖父の家はあります」
「ああ、そう。今は、お爺さんお婆さんはご健在?」
「はい。静岡で2人で暮らしてます」
なんでワタシの家庭のことを聞くんだ。
会議室の東側の大きな窓から太陽の日差しが入り、部屋の温度を上げている。冬はポカポカして心地良いのだが、夏は蒸し暑く空調が全く効かない。
大石さんはワタシに背を向けて、窓の外を眩しそうに眺めながら、のらりくらりとした話を続けた。
「お父さんは、まだこっちで働いてるの?」
「まあ。定年とかない仕事なんで、しばらくは働くんだと思います」
「ああ。そう」
その返事は重く感じた。いつもの大石さんではない、暗く思い詰めた表情。努めて明るく振る舞っているが、次に発する言葉は、ワタシにとって最悪なことだと感じた。
大石さんの取り留めもない話と、会議室の暑さにイライラしてきた。窓の日差しで部屋の中がなかなか冷えない。外を眺める大石さんの横顔だけが冷たく感じる。
ふうぅっと深く息を吐き、大石さんは目頭を擦った。急に笑顔で振り向いた。その瞬間、やっとクーラーから冷たい風が流れ始めた。
「じゃあ、お爺さんの家から通えばいいね」
名案だろ、という笑顔の押し付け。
「人事では浅川さんの担当じゃなかったけど、静岡店で産休とってる子のことは知ってるよね。あの子、仕事復帰できないらしいんだよ。8月までの契約社員の人に頼めばいいんだけど、どうも協調性がなくて現場が嫌がっちゃってるみたいなんだ。8月の満期を待たずに産休の子を復帰させようと思ったんだけど、その子産休終わったタイミングで退社したいなんて言ってんだよね」
捲し立てるように言って1人で笑って、さっきから目が合わない。どうやら、《《察しろ》》ということなのだろう。
「それって、ワタシに静岡行けってことですよね」
「そう!いやぁー、浅川さんは察しが早くて助かる。そうなんだよ。そう。人事どうしようかなって思ってたら、浅川さんが静岡出身って聞いて、もしかしたら浅川さんなら行ってくれるかなと思って」
ワタシはまだ行くと返事していない。でも大石さんは万事解決というような顔をしている。ワタシの静岡出身なんて、ただのこじつけだ。現に親は東京に住まいを移しているわけだし、お爺ちゃんの家から通えと、会社の方が決める権利はない。
「ワタシ、まだ行くって言ってないですけど。それは販売応援研修の一環ですか?1週間ではなくて、次の人が見つかるまで......ということなんでしょうか?」
んー、と唸って大石さんは笑っているのか怒っているのかわからない顔。これも察しろ、と言うのか。
「今、うちは新たに正社員を採用する方針ではないんだよね。だから次の人が見つかるまでっていうのは......、ちょっと約束できないな」
「じゃあ、研修じゃなくて異動ってことですか?」
頭が真っ白になった。なんでワタシ?販売なんて、総務部でワタシが1番向いてないと思う。それなのに、どうして。総務部でワタシなんていらないっていうこと!?異動でも都内の店じゃなくて、なんで静岡なの。お爺ちゃんの家って言ったって、引っ越ししなきゃならないじゃない。ワタシを遠ざけなきゃならない理由なんて......、あっ。
もしかしたら美幸が関係しているのではないか。美幸の長欠は、少なからず自分のせいだと感じているはずだ。それで連絡をとり、ワタシに話したことを聞いたに違いない。美幸との関係を知っているワタシが目障りなのだ。そんな自分都合で人を動かせる人事権なんて、大石さんにはないはずだ。
「それって、決定事項なんですか?」
「決定っていうわけじゃないけど、ほぼ決定すると思う。働き方改革で有休消化率や残業を減らすためにも、どの店舗も正社員で固めたいけど、正社員は増やさない方向でしょ。だから内勤社員から選抜して、売場を担当してもらう。そのために浅川さんの件は、昨夜板橋さんに提案しただけなんだよ。板橋さんも甚く乗り気でね。今日の会議で話してると思う。あとは本人の意思を確認してくれって」
これは意思の確認ではない。選択肢をなくし、異動を認めるよう説得されるだけだ。こんな横暴を許していいわけがない。美幸のことだけじゃなく、自分自身を守るためにも、大石さんの不祥事を止めなければならない。美幸も大石さんの自尊心も傷付けずに丸く収めようとしていたが、それでは太刀打ちできない。
「さっきワタシも話があると言ったんですけど」
ワタシは美幸の件を大石さんにぶつけてみようとした。
「本多さんの......」
ワタシが言いかけたところ、言葉を遮られた。
「美幸ちゃんも迷惑だよ。不倫はいけないことだとは本人もわかってる。だけど大人の話なんだから、他人が首を突っ込んじゃいけないよ」
グワッと首から上が熱くなった。これは怒りなのか、恥ずかしさなのか判断できない。何に対しての怒りなのか、何に対しての羞恥心なのか混乱した。
「それは不倫じゃないです!で、それから、しゃ、写真なんか撮って脅したら、それって犯罪じゃないですか!」
何を言い返したらいいかわからなくなったが、とにかく思い付いた言葉で反論した。
「写真って?」
「だから、その、脅迫するために裸の写真撮ったじゃないですか!」
「あ、あれか。あれは、彼女が自分で撮ろうって言ったんだよ。俺は浮気の証拠になっちゃうから、嫌だって言ったんだけどね」
これは開き直っているのか。ますます混乱してきた。
頭の中で整理しようとするが、気持ちが追いつかない。浮かんだ言葉を返すので精一杯だった。
「そ、そんなの嘘です。だって脅すようなLINEも送ってるじゃないですか!それに、彼女、会社出てこれなくなっちゃってたんですよ」
「あのLINEは冗談で送ったんだよ。『最近、彼とうまくいってないから、どうぞ彼に送ってください』なんて言うからさ。俺の方が慌てちゃったよ」
どうなってるんだ。美幸と大石さんの言っていることがまるで違う。大石さんの言っていることが本当なら、なんで美幸は会社に来れなくなったんだ。
「美幸ちゃんは、君のことを気にしてるんだよ」
はあ?なに言ってんの。この期に及んで、大石さんはワタシのせいにしようとしているの?
外に目を向けていた大石さんは、ゆっくり振り返り、ワタシの向かいの席に座った。テーブルに肘をついて、両方の掌を擦り合わせて、ニンマリと笑った。




