浅川 沙千絵
第20話 朝礼
ワタシは眠るのが怖かった。朝目覚めたら昨日の誓いを忘れて、気が萎えていたらどうしようかと起きるのが怖かった。
そんな心配は目覚めてすぐに解消された。いつもより早く、それにスッキリと目覚め、昨日の気持ちは萎えていなかった。いつもは二度寝なんかしてギリギリまで布団から出なくて、遅刻しそうになることを起こさない母のせいにしたりする。ちゃんと声かけたでしょ、それでも叩き起こしてよ!なんて言う母との口論なんてほぼ毎日だ。それが声をかける前にちゃんと起きてきて、朝食ができる前に食卓に座っているワタシを見て、母は驚いた顔をしていた。
朝食を終え、身支度をし、いつもより30分も早く家を出た。いつもの山手線のホームも、時間帯が早いだけで違う風景に見えてくる。ワタシ自身が早く家を出たことで気持ちに余裕が出てくる。ホームの人たちもみんな余裕がある人間に見えてくる。それにワタシみたいに、なにか使命感に溢れている人たちはばかりに見える。そんな子供じみた勘違いをするのは、意気が高揚しているからだ。昨日の誓った気持ちは萎えてない。
大石さんの被害にあった人がいないかもしれない、被害にあったけど喋ってくれないかもしれない、そう考えると萎えてしまうからマイナス面は考えないようにした。その時はその時だ。特に策なんかは考えてなかった。他の被害者なんて探さなくてもいいんだ。直にバカなことはやめるように、大石さんにお願いすればいい。平穏な仕事場に戻しましょうと、ワタシの気持ちを伝えればいい。うん、その方がいい。
大石さんだって鬼じゃない。そんなバカなことをすれば自分自身を貶めてしまうことくらいわかるはずだ。ちょっとだけ魔が差しただけだ。あんな可愛い子とそうなって、ちょっと欲が出てしまうのは男なら仕方がないことなのだろう。そう、美幸が可愛過ぎるからいけないのだ。
あんな良い子はいない。そんな子を苦しめるなんて、大石さんだって本当はしたくないはずだ。2人とも大人だから、そういう関係になってしまったことは仕方のないことだとして、これからの今まで通りの関係を続けるために忘れましょう。そう言ってあげることで、大石さんも救われるのではないか。
こんな綺麗事が通じるほど、世の中は甘くはないかもしれない。でもそんな綺麗事で、これからも居心地のいい総務部を作っていきたい、ワタシはそう思う。
そうこう考えているうちに、会社の最寄駅に着いた。
この駅で降りる人たちは、近隣のアパレル勤務の人が多く、みんなオシャレだ。ワタシはそんな人たちに混ざって、改札を抜け、会社に足を進めた。
出社して驚いた。美幸が出勤していた。
「あ、昨日はありがとうございました」
美幸は視線を逸らしたまま、昨日の礼を言ってきた。大石さんの話をしてしまい、ワタシに知られたことが気まずいのかもしれない。もしかして話したことを後悔しているのだろうか。そう思った瞬間萎えそうになったが、聞いてしまった以上、放っておくことはできない。約束したのだ。だけど、美幸の意思も尊重しなければならない。
「大丈夫なの?あの、昨日の話なんだけど......」
言いかけのところで、小早川さんが出社してきた。
「もう、年々夏の暑さが酷くなってくるよな。デブにはキツい季節だよ」
独り言を言いながら、汗ビショの小早川さんは、首にかけたスポーツタオルで汗を拭きながら自分のデスクに向かった。白無地のTシャツが汗で透けていた。風呂上がりなのかと思うくらい、頭からゴシゴシ顔を拭き終わると美幸の存在に気づいた。
「あれ?もう、体調大丈夫なの?」
「ご迷惑おかけしました。元気モリモリです!」
彼女は両膝を曲げて脇を締め、拳を握って『頑張るポーズ』をした。彼女は明るく振る舞っていた。ワタシが横から水を差すようなことはしない方がいいが、少し無理をしているないか心配になる。
「やっぱり、本多さんがいると、総務部がパァッと明るくなるね」
小早川さんは、たっぷりついた頬の肉をあげて、たちまち明るい表情に変わった。それから次々と社員が出勤してきた。みんな美幸に声をかけ、彼女のリアクションに顔が綻ぶ。
彼女の出勤で、総務部が華やかになる。他の人が欠勤明けで出社してきても、こうはならない。いつもは朝からムスッとしている田村でさえ、「体調が回復したなら、なによりです」なんて声までかけている。彼女は複雑な笑顔で返事をしていた。
そんな無理しなくていいよ、と視線を送るが、彼女は社員に取り囲まれて、ワタシの視線に気づいていないようだ。彼女がいることで総務部みんなが元気になることを重荷に感じてはいないだろうか。もうその辺でいいにしてあげて、とワタシは胸の奥で悲鳴をあげていた。
そうこうしているうちに、大石さんが出勤してきた。美幸の顔が少し曇った。それはみんな知らないから、いつものように大石さんと挨拶を交わした。
「お、もう体調は大丈夫なの?」
美幸に気づいて、大石さんが声をかけた。
「たいへんご迷惑おかけしました。もう、大丈夫です」
彼女は視線を少し下にずらし、消え入りそうな声を必死に出した。そうか、と大石さんは軽く彼女の肩をポンと叩いて、無理するなよ、と言った。大石さんの手が触れた時、彼女は肩をすくめた。大石さん、嫌がられてるの、ちゃんと気づいて。
「じゃあ、朝礼始めまーす」
小早川さんが総務部の中央に集まるよう、みんなに声をかけた。板橋部長は重役会議に出席しているため、朝はいつもいない。代わりに一般社員の中で1番歴の長い小早川さんが朝礼を行う。辞令など大切なことがあれば、大石さんが言う時もあるが、大抵10分程度で小早川さんが報告事項を済ませる。
「次週の販売応援研修ですが......」
小早川さんがみんなを見渡す。
『販売応援研修』とは、内勤社員も現場スタッフに混ざって店頭に立って販売することだ。内勤の社員も現場でお客様を知ることが必要だという考えから、この研修が開始された。お客様と接して、なにが必要とされているかを感じ取ってくるという名目だが、総務部にとって、特に人事課では現場スタッフの仕事を知ることは重要だ。
現場では、デスクワークの仕事を見下しているスタッフもいる。一番重要な仕事は販売することで、その重要な仕事は現場スタッフが担っていると考えている人も少なくない。一方、内勤は日々こなさなければならない業務のほかに、急に飛び込んでくる現場スタッフ個人の手続きに追われている。互いの仕事を知ることで、内勤と現場の連携が取れるようになるための施策だ。
最初は、みんな猛反対だった。人見知りでお客様対応などできないから内勤を希望したんだと言っていた社員が多かった。でも現場に出て帰ってくると、楽しかったと言う社員がほとんどだった。接客対応でお客様に喜ばれたりするのが嬉しいと言う。売上がたてば、みんなで喜んだり、空き時間ができればスタッフとコミュニケーションとるようにり、自然と親近感が湧くのだそうだ。連絡先を交換し、今では互いの上司の愚痴を言い合っているという社員もいて、ある意味いいガス抜きにもなっている。美幸も渋谷のティーンズブランドの販売応援に行ったとき、1人のスタッフと行動を共にすることで仲良くなり、連絡を取り合っていると言っていた。
販売応援研修は、役職者以外の社歴の短い社員から順に声がかかる。現在渋谷店と池袋店に行っているのはワタシよりも1年後に入社した2名だ。そろそろワタシにも声がかかる時期だ。
「おはようございます」
小早川さんが大石さんに目配せをし、大石さんが前に出て挨拶をした。
「次週の販売応援研修は、経理課の石野さんと、PR課の宮本さん。お願いします」
呼ばれた2人は複雑な笑顔を浮かべていた。先に経験した社員から楽しかったとは聞いてはいるものの、内勤の仕事と販売とは仕事内容が違う。できることならやりたくないという気持ちが顔に出てしまっている。経験者が、大丈夫だよ、と2人に声をかけていた。
PR課の宮本さんはワタシより社歴が短いが、経理課の石野さんはワタシよりも社歴は長いはずだ。順序は関係なくなったのかな。
「配属先の店舗やブランドは、本人の希望を聞いてから決定しますので、午後1時に会議室に来てください」
新宿店は忙し過ぎるから避けて暇な店舗の方がいいですよ、と新宿店で研修した社員がアドバイスした。でも希望する店舗はどこでも良いわけではなく、人員が足りない店舗でないと認められない。あくまでも販売応援なのだ。だから必然と暇な店舗は除外される。
横浜店だと出張手当出るじゃないですか、と横浜店経験者は言う。でもその人は都内に住んでいて、県を跨ぐ出張なので手当が出るが、石野さんは神奈川から通勤しているため、その場合は出ない。でも通勤時間が短くなり早く帰宅できることを考えると、石野さんは横浜店を選びそうだ。
あと...、と大石さんはみんなを見渡し、ワタシと目が合った。
「浅川さん。ちょっと話があるので、このあと会議室に来て」
突然の呼び出しに驚いて、はぁい、と変な返事をしてしまった。今回の研修は免れたと思っていたが、やはりワタシも研修対象なのだろうか。人見知りが激しいため、楽しいとは言われても、できることなら店舗で接客なんかしたくないと思っていたが、避けることはできないのだろう。ワタシは美幸みたいに人当たりがよくないし、他人が迷っているコーディネートのアドバイスなんかできっこない。
研修は2名ずつの予定ではあったが、今回は異例なのだろうか。それともワタシの人見知りを知っている大石さんは、店舗研修を免除する代わりに別の仕事を与えるつもりなのだろうか。
何を言われるのかわからなかったが、美幸のことで大石さんに直談判しようとしていたワタシにとって、大石さんと2人になれることは好都合だった。
「それでは、今日も不備なく仕事をこなしましょう。お願いします!」
小早川さんが言うと、全員お願いします、と言って各々の席に散らばった。佐伯さんがまた田村のところへ、営業部からなんでけど、と領収書らしき紙を持っていった。またか!と心配になり、田村の言動を伺っていると、舌打ちをして、
「いいよ。俺から営業部に言っておくから」
と今日はすんなり受け取った。佐伯さんに言っても仕方がないと理解したのだろう。もしかしたら美幸が欠勤したことが自分の叱責のせいだと気にしているのかもしれない。
佐伯さんはペコっとお辞儀をして席に戻った。ワタシは胸を撫で下ろした。あとは大石さんと美幸のことを片付ければ、総務部は何の問題もないと思って、ホッとした。でも大石さんのことが大問題なのだ。
「ワタシからも、ちょっとお話があるのですが」
前もってワタシの用件もあることを伝えようと、大石さんに声をかけた。
「ああ、わかった。とりあえず、先に会議室に行ってて」
ワタシはその指示に従って、会議室で待っていた。
ちゃんと伝えなければならない。美幸もこの先大石さんとは《《普通にしていたい》》のだ。ちゃんと説得して、この場で写真も消してもらわなければならない。ワタシは手汗を握りしめ、大石さんを待った。




