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鎮めよ!  作者: オノダ竜太朗
第1章 諸法無我〜俺たちには実態がない
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浅川 沙千絵

第19話 誓い


 美幸はあの一件の翌日、退社時刻を過ぎた時間に田村に呼び止められ、会議室でまたネチネチと言われたらしい。

 それはアイツの理不尽な叱責で、言うことがお粗末過ぎて返す言葉なく、悔しさのあまりに泣いてしまったのだそうだ。田村が出ていった後、会議室で呆然としていると彼氏から電話がかかってきた。イラつきが残ったまま気のない返事をしてしまったことで彼氏と口論になった。ほんの小さなことなのに彼氏にもネチネチと言われ、その気持ちを引き摺ったまま仕事に来てもこの状況。田村と彼氏がダブって見えて、言い返す言葉がなくなってしまったそうだ。


 会議室で1人塞ぎ込んでいると、声をかけてきたのが大石さんだった。


『どうした?そんな顔して』


『いいえ。なんでもありません』


『さっき田村が出できたけど、田村に何か言われたのか』


『まあ......。でも大丈夫です』


『そうか?まあ、本多さんなら強い子だから大丈夫だろうけど。でも、溜め込んどくのはよくないぞ。愚痴でもなんでも聞くよ』


『ありがとうございます』


『じゃあ、パッと飲みに行こうか』


 彼氏から「昨日はごめん。ちゃんと会って話そう」というLINEがきていて、このイラつきを残したまま会うのは面倒だと考えているところだった。会社の上司に相談に乗ってもらう、という断る理由ができたことで、大石さんの誘いに乗るのもいいかな、と思った。


『でも、そう言えば、大石さん。今日、結婚記念日って言ってませんでした?』


『なに言ってんだよ。俺は課長だよ。君の上司だ。悩んでいる部下と結婚記念日、どっちが大事だと思ってんだ』


『でも、大石さん、家族大事にしてるし』


『それは大事にしてるけど、仕事の方が大事に決まってるだろ。うちの奥さんは、そういうことを物凄く理解してくれてる。悩んでる部下放っておいて結婚記念日に真っ直ぐ帰ってきた方が怒られちゃうよ。アンタ、何やってんのって』


『凄いですね。大石さんのところは信頼しあってるんですね』


『そうかなぁ?まさか、彼氏となんかあったの?』


『さっき彼氏から電話かかってきて、ちょっと田村さんのことでイライラしてたから、素っ気ない返事しちゃって。そうしたら、最近なんか冷たいとか、他に男でもいるのかとか、小さいことばっかり言うから喧嘩しちゃって』


『あー......そうなんだ。実はさ、本当のところを言うと、うちもさぁ、昨日喧嘩しちゃって。今日は寄り道したい気分なんだよね』


 大石さんの家庭に問題なんてないのだろうと思っていたが、大石さんの意外な一面を見て、油断したんだと思う。むしろ美幸の人助け精神がくすぐられて、自分が一緒にいてあげなければと勘違いしたのかもしれない。


『じゃあ、わたしが愚痴を聞いてあげる感じになっちゃいますね』


『そういうことに、なっちゃうかな』


『でも、結婚記念日には、ちゃんとプレゼントしなきゃダメですよ』


『そういうの選ぶの、俺、苦手なんだよな』


『じゃあ、一緒に選びますから、プレゼント買って、ちゃんと帰りましょう』


『いいね、それ。でも、うるせえ、飯は外で食ってくる、ってタンカ切ってきちゃったんだよね。それに美幸ちゃんの悩みも聞いてあげなきゃ......』


 美幸も、ここで下の名前で呼ばれたことに違和感を覚えたが、それはフレンドリーな大石さんのことだからと軽く流してしまった。


『じゃあ、プレゼントさっと決めて、パッと食事して帰りましょう。今ならまだデパートも間に合います』


 彼氏とのこともあったし、何より大石さんの夫婦喧嘩に興味が湧いてしまった。


『その代わり、《《飲み》》は無しですよ。酔っ払ってプレゼント渡すんじゃ、記念日が台無しですからね』





 ここまで聞いていると、和気藹々とした良い関係の上司と部下の話だ。


「でも、その後、大石さんと、《《そうなっちゃった》》んですよね」


 聞きたくなかった。《《そうなっちゃった》》って、何なんだよ。ちゃんと言葉にして言えばいいじゃん。そこまで話しといて、想像すればわかるでしょみたいな言い方、なんなの!じゃあ、どうやって言えばワタシは納得したのか。セックスしたって言うのも間が抜けてるし、抱かれたっていうのも昭和臭いし、寝たって言うのも気持ち悪いし。結局、《《そうなっちゃった》》と表現するしかなかったのだろう。

 なんだか無性に怒りが湧いてきた。それはそんなことをツラツラと話す美幸に対してなのか。問題を作ってしまった大石さんに対してなのか。それとも、その大石さんが美幸に接近する口実を作ってしまった田村に対してなのか。

 美幸の口から大石さんの名前が出てきた時には、既にどこか予測していた。だけど、彼女から聞いてしまうと、信じたくはないが、それを事実として受け入れなければならない。

 真実は知らないままでいたかった。美幸が悪いわけじゃない。結局ワタシの怒りの矛先は、下手に首を突っ込んでしまったワタシ自身に向けられる。だけど、後悔してももう遅い。だったら美幸のために、最後まで付き合うしかない。


「そうなっちゃったまでは、いいんです。お互いに大人ですし、わたしが黙っていれば済むことだから。1回だけの人って、べつに初めてじゃないし」


 意外だった。美幸は真面目で、本当に好きになった人としかそういう関係を持たない子だと思っていた。だけど、そんなのワタシが勝手に作り上げた《《お利口さんの美幸》》像なのだ。まだ若いし、世間のモラルに反して後先考えずになんてことくらいあるんだろう。今時の若い女の子なんて、そんなこと重くは考えてないんだ。たった3つしか変わらない歳の子を《《若い子》》と定義付けて、それは年齢の差ではないことくらいわかっている。自分に置き換えたら、そんな軽はずみなことなんかできない。頭に浮んだとしても、それは理性で抑えるのが社会人だ。でも、それは言い訳。思い返せば、前の彼氏と別れたのはいつだっただろう。大学生の頃だったか。それから社会人になって、1度も彼氏ができていないどころか、1回こっきりの遊びもない。仕事に夢中だったと言うほど、形振なりふり構わず打ち込んできたわけでもない。恋をする勇気もなければ、遊ぶ度胸もなかった。

 本当は自分がつまらない堅物なんだと思い知らされた。


「大石さん、実は入社した時から美幸ちゃんのことが好きだった、なんて言うんです。わかってますよ。そんなの男の人って、誰にでもそう言うんです。またシタいから。わたしだって大石さんのこと嫌いじゃないから、またシタっていいんです。けど、既婚者で同じ会社で、しかも上司ですから気まずいじゃないですか。だから1回で終わりにした方がいいと思ったんです」


 ワタシからしてみたら、1回でもダメなものはダメだと思う、とは口にできなかった。


「あまりにもしつこかったので、また今度にしましょうって、その時は断ったんです。それが社交辞令ってわかったんですかね」


 そういうのって社交辞令とは言わないだろ、と口を挟むのは堪えた。


「そしたら、シテるところ写真撮ったんだよ、って言うんです。少し怖いって思ったんですけど、その時は大石さんもヘラヘラしてたから、冗談だと思った程度で、その日は帰ったんです。わたしも社交辞令でまた今度って言っちゃいましたけど、そんなつもりはないことを示すのに、買ったプレゼント持たせて、ちゃんと結婚記念日してくださいよ、って言ったんです。それで、脈ナシだって諦めてほしかったし」


 結婚記念日というワードが出てきて、一瞬何のことを言っているのか記憶が飛んでいた。そうか、結婚記念日でプレゼントを買いについていって、食事して、それからそういうことになって......?!どういうこと?そんな短時間でそんなことになる?それは日を跨いではいないの?終わって帰したのは何時?色々と突っ込み所はあったが、どこから突っ込んでいいのかがわからない。


「そしたら、次の日。大石さんが昼休みに話しかけてきたんです。わたしはそれについては触れないで、昨日はご馳走様でした、って一応お礼を言って。そうしたら、大石さん、『美幸ちゃんの彼氏って、カーバンクルの社員なんだって?』って、いきなり言ってきて......」


 それを聞いて、ワタシの腕には鳥肌が立った。

 カーバンクルとは同業の社名で、最近はヤングアダルト層のブランドでヒットし、いわばうちのライバルでもある会社だ。美幸の彼氏は、専門学校のデザイン学科の同期でライバル社の社員でもある。同業他社と交際してはいけないという規則があるわけではないが、美幸もなんとなくそれを隠していて、多分知っているのはワタシと同期の女の子2人しかいないはずだ。ゾッとしたのは、それを大石さんが知っていたことだ。


「たまに展示会とかでカーバンクルの社員さんと会うことがあるんだよって」


 それは嘘だ。総務部の課長が展示会に行ったりしないし、他社と話すこともないはずだ。


「企画部の今泉くんだっけ?って言って、わたしにスマホ見せてくるんです。見せてきたのは、わたしの写真でした」


 無論、それは《《普通の写真》》ではないのだろう。家族を愛して大切にしている大石さん、欲望の赴くままハイエナのように女の子に近づく大石さん、いったいどちらが本当の大石さんなのだろうか。多分どちらも本当の大石さん。表面上の優しい大石さんしか知らないままでいたかった。

 もしかして、あの田村だってワタシたちには見せない優しい一面を奥さんにだけは見せているのかもしれない。

 なんだか吐き気まで催してきた。


「だから、わたし写真消してくださいって言ったんですよね。そしたら、これからも仲良くしようって。あの顔思い出すだけで、もう足がすくんじゃって、次の日会社に行けなくなってしまいました」


 早くこの場を去りたい。だけど逃げちゃダメだ。この子を守ってあげないと、ただの害のない先輩だけで終わってしまう。何度も読んだ自分の姓名判断を思い出してみる。何度も読んだから、ほぼ丸暗記している。


 ・自分の殻に閉じこもり、何事も悪い方向に考えてしまう

 ・些細なことで気を病んだり、人の顔色をうかがってしまう

 ・中年にさしかかる頃に運気は下降

 ・災難が続き、苦労する


 ロクなことが書いてない!1つくらいポジティブに考えられることはないのか。


 ・温和な性格が人望を得られ、周りが助けてくれる


 そうだ。きっと誰かが助けてくれる。きっと被害者は美幸だけじゃないはず。他の人に協力を得て、大石さんに美幸にちょっかいを出すのはやめてもらう。もちろん大石さんの面子めんつも守らなければならない。下手な仕返しをされても困る。それに美幸のことを1番に考えたら、そんなこと公にできない。美幸のことは伏せて協力を求める。なんならワタシが当事者だってことにして周りに聞けばいい。それくらいのリスクは背負わないと聞き出すことなんてできないだろう。大石さんにも自分がしたことの愚かさに気づいてほしい。そして平穏な総務部を取り戻したい。総務部のためには、美幸の笑顔が必要なのだから。


「わかった。ワタシがなんとかする。もしかしたらそういう被害に遭ってるの美幸だけじゃないかもしれない。もちろん美幸の名前は言わないよ。それで、大石さんにバカなことやめるように言うから。写真も消してもらう。ワタシに任せて」


 ワタシは早口で捲し立てた。一気に喋ったので、少し息が上がった。

 今まで都合の悪いことから逃げてきた。だから、ここで大きな壁にぶつかっている。越えなきゃいけない壁。ここで見て見ぬフリをしていたら、今までと同じだ。

 ワタシは面倒な事を回避するのが賢い選択だと思っていた。でもその反面、傍観者でいる自分のことを小さい人間だと感じていた。姓名判断なんか当てにして、自分が運のない人間だと卑下して生きてきたかもしれない。これからは違う。

大石さんを凶弾するのではなく、公にせずに気づかせる。その方が大石さんにとっても、美幸にとってもいいと思う。ワタシのやり方でなら、丸く収められる気がした。


「先輩......」


「大丈夫。悪いようにしないよ」


 少しキャラの違うワタシに戸惑ったのか、彼女は不安な目を向けてきた。

 家の前まで送ろうとしていたが、そのままタクシーで帰ると言い出した。

 彼女がタクシーに乗る時に、また普通に会社に来れるようにするね、と約束した。彼女は疲れきっているのか曖昧な笑顔を返してきただけだった。

 タクシーを見送っていると、食べ物を買いに行くと言っていたことをすっかり忘れていたことに気づいた。食欲もなかったし、またズルズルとこの話をしなくて済んだのは都合が良かった。彼女だって、買い物に出かける気分でもないだろう。

 重い腰の自分を奮い立たせ、ワタシは体が熱くなっていた。少し興奮していたのだ。ワタシの気が変わらないまま、明日を迎えたい。もう傍観者の自分は嫌だ。ワタシがなんとかするからね。ワタシはタクシーが見えなくなるまで眺め、そう誓った。



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