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鎮めよ!  作者: オノダ竜太朗
第1章 諸法無我〜俺たちには実態がない
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浅川 沙千絵

第18話 思考回路停止


 聞かなければよかった。


 それは美幸の症状ではない。

 医者の診断では、自律神経の乱れが体温を下げてしまっているということで、点滴を打つこととなった。ワタシは看護師に呼ばれ、フラフラしている彼女に肩を貸し、別室へ移った。2日間まともな食事をしていないことと、それとストレスが原因ではないか、今日は点滴をして明日にでも、かかりつけの病院へ行ってください、と看護師に言われた。

 ベッドに横になっている彼女に付き添った。彼女の白くて細い腕に針が刺さるところを、パイプ椅子に座って眺めていた。いつもなら、痛いよぉ、などと巫山戯ふざけるところ、ワタシの頭は『その大石さんが』の続きが気になって、それどころではなかった。点滴が注入され、睡眠不足もあるのかうつらうつらして目を泳がせている彼女を見ると、その続きを聞く雰囲気でもない。


「いいよ。ワタシいるから、ちょっと休みな」


「すみません」


 彼女はそのまま目を閉じて、1分もしないうちに寝息を立てた。看護師が、点滴が終わるまで2時間程かかる、と言っていた。彼女が寝てしまうと、することがなく、何か本でも持ってくればよかった、と後悔した。だが、こんなことになるなんて予測もしてなければ、準備なんてできない。総合病院とかなら売店もあるけど、ここは小さな個人病院だ。コンビニまでわざわざ買いに行くのもどうかと思い、暇潰しにスマホを開くしかない。

 何気なくスマホで『セクハラ』と検索してみた。20万件以上ヒットした。適当なタイトルを開いてみると、『対価型セクハラ』『環境型セクハラ』『制裁型セクハラ』『妄想型セクハラ』と書かれている。セクハラにも幾つかの分類があるらしい。定義やその解説が書いてあるが、スマホの画面をスクロールしていくと、途中途中で広告が挟まっている。企業のPRだったり、前回購入したネットショップだったり。お寺の写真が掲載され、占いの広告だと思ったら『パワハラ、セクハラでお困りの方、相談にのります』というカウンセリングの広告だった。そのままうっかり読んでしまうと、文面と広告が混じってなんのことかわからなくなってしまう。

『妄想型セクハラ』の具体例が、『休日も一緒に過ごそうとしつこく誘う』『髪型が自分の好みではないと指摘する』『一緒に歩いているときに腰に手をまわす』とある。ワタシは大石さんの顔を思い浮かべて、深い溜息を吐いた。

 入社したばかりの頃、今もう退職していない女性の先輩から忠告を思い出した。




『大石さんには気をつけなよ』


『え?』


『あの人ね。ちょっと距離が近いと思わない?』


『話す時ですか。まあ、たしかに近いですね』


『浅川さん、ちょっと狙われてる気がするのよね』


 入社説明会の時から大石さんは誰に対してもフレンドリーで、同期入社の他の人たちにも同じように接していた。ワタシだけが狙われてるとは思えない。


『えー、そうですかー?でも大石課長、既婚者じゃないですか』


 ワタシは入社したばかりの頃は大石さんのことを、大石課長と呼んでいた。まだ若かったし、軽いノリで答えたが、内心悪い気はしなかった。ワタシは今でも父が大好きで、反抗期でも父には反抗することがなかった。いきなりパン屋をやると言い出した時だって、母と妹は猛反対したが、ワタシだけは味方をしてあげた。ファザコンとまではいかないが、同年代の男よりは少し歳が離れている人に惹かれることが多い。その頃30歳くらいだった大石さんは、ワタシにとって魅力的だった。アパレルメーカーに勤務する人は事務職と言えど、服装もこなれていてセンスがあって、みんなカッコよく見えた。見た目も若くて自分に合ったコーディネートをしていた。大石さんは他の人と違って年齢を弁えたファッションをしていた。ただ若く見せるだけの服装はしない、他の人にない大人の魅力を感じていた。気さくに声をかけてくれて親近感があり、落ち着いていて、なにより家族を大切にしているところに好感が持てた。


 先輩に、愛妻家の大石さんがそんなはずはないと言うと、


『騙されちゃダメよ。それ、大石さんの手なんだから』


 と返された。


『最初の頃はこういう業界の人って、みんなよく見えるけど、見た目で判断しちゃダメよ。田村以外はね』


 当時から田村は周りに嫌われていた。服装もいつも同じで、体型はガリガリで貧相。髪型も伸びたら自分で切っているのか毛先が整っていない。メガネは学生がする銀縁の勉強メガネで、まったく容姿を気にしている様子もない。なぜこんな人がアパレル業界にいるんだと疑問に思ったくらいだ。

 でも大石さんは年相応ではあるが、仕立ての良いジャケットとプレスの効いたシャツをちゃんと着こなし、年相応の上品な格好をしていた。自社製品ではあるが、自分の似合うものを熟知している大人の雰囲気を醸し出しているように見えた。初めて会った入社説明会の時に開口一番、子供が2人いると自己紹介で喋っていた。

『この業界は他の業界と違い、かなり給料が安い。子供2人養うのも大変ですよ。入社早々この人は何を言うんだ、と思った方も多いかと思いますが、皆さんも好きなことに携われることに誇りを持って励んでください。でも、もっと給料上がった方が楽だよねえ。皆さんの頑張りにかかってますよ』なんて冗談も交えて笑いをとっていた。みんなと一緒に笑っていたが、憧れの職場で新しい出会いも求めていたワタシは、大石さんが既婚者だと知って少し落胆した気持ちも覚えている。


『あの人、既婚者だって油断さといて、狙った子に近づくのよ。相談にのるよなんて言って食事に誘ってくんのよ。それ、あの人の常套手段。だから、仕事で悩んでても、あの人の前で落ち込んでる雰囲気だしちゃダメよ。すぐ飛びついてくるから』


 それは先輩の思い過ごしであって、先輩に忠告されてもワタシの目にはそんな軽薄な人には見えなかった。もしかしたら、先輩自身が過去に大石さんと関係があったのかもしれない。

 それを聞いた数ヶ月後、ワタシは契約社員から正社員になるローカル店舗のスタッフの手続きを忘れて、間違った給料が支払われてしまい、田村にネチネチ小言を言われ落ち込んでいた。

 その時すかさず大石さんは、相談にのろうか、と近づいてきた。ワタシは先輩に聞かされていたことを思い出した。先輩の杞憂だとは思っていたが反射的に断ってしまった。大石さんには悪いことをしてしまったかなぁ、と後悔しつつも、面倒事から回避するワタシのセンサーが勝手にそうしてしまった。無闇矢鱈むやみやたらに女の人に手を出す人ではないにしても、既婚者と2人で食事に行くのは、世間体もよろしくない。結局、先輩の忠告通りにしてしまったわけだ。




 あの時の誘いを断わらなかったら、今でも大石さんとはいい距離が取れていただろうか。面倒事を回避するように生きてきたと思っているが、本当は面倒事に巻き込まれやすいタイプなのではないか。だから余計に意識して、それを頑なに拒んでいる人間だと自分に言い聞かせているのではないか。先輩に忠告されていなかったら、たとえ既婚者であっても淡い期待をしてノコノコとついていってしまったかもしれない。今となっては、もうどうでもいいことだ。

 ワタシはポツポツと落ちる点滴の雫を眺めていた。体に負担をかけないように点滴の速度は決まっているそうだ。速度が速すぎると、心臓や呼吸循環器などに負荷がかかり、動悸や呼吸困難を引き起こす恐れがあると聞いたことがある。

 点滴スタンドにぶら下がる容器には、油性マジックでローマ字と数字が書かれていた。内容物は知らないが、今美幸の体に足りていないものを注入しているのだろう。点滴筒のカプセルの中で、定期的に雫が落ちる。

 これが全て体内に摂取されれば、美幸は元気になる。体に負担をかけないために、焦ったいくらいに遅いスピードで、気づかないうちに元気になってくれるのだろう。体に栄養さえ行き渡れば、体が元気になり、心も少しは軽くなるのではないか。

 でもこの点滴容器の中身が体に悪いものだったら、体に負担をかけず気づかないうちに体を蝕んでしまうことも可能ではないか。ワタシの体にも、面倒を回避してなるべく自分にストレスを与えないように注意してきたが、点滴のように定期的に体を蝕み、気づかないうちにワタシの体のどこかに、おりのように溜まってしまっているのではないか。

 そんなどうでもいいことを考えていると、シーツの擦れる音がして、ワタシは美幸に目を向けた。


「先輩、すみません。ずっと付き添ってくれてたんですか?わたし寝ちゃって」


 美幸が体を起こそうとした。


「いいのよ。気にしないで」


 そう言って、体を横にしているように促した。点滴はまだ3分の1ほど残っている。目を開けた彼女は、先程の憔悴しきった顔色に比べると、心なしか赤みを帯びてきたように見えた。


「もうこんな時間なので、先輩、いいですよ」


 スマホの時計は午後7時を回っていた。


「なに言ってんの。大丈夫よ」


「でも......」


「ここまで付き添ったんだから、最後までいていいでしょ」


「......ホント、申し訳ないです」


 その時、クーッと彼女のお腹が鳴った。栄養分は摂れても、点滴では空腹は満たされない。彼女は照れて笑った。笑顔が出るだけ、少し回復したのだ。ワタシはその顔を見てホッとした。


「何か食べる物、買ってこようか?」


「あ、でもここ病院ですよね。それに、もうちょっとで終わりそうだし」


 美幸は点滴容器に視線を移した。中身が空に近い状態になっていた。


「じゃあ、終わったら何か食べに行く?」


 ワタシは努めて明るくそう言ったが、彼女はそれを断った。まだ体調が優れないのだ。軽く食べられる物を買って今日は互いに帰ろう、ということになった。

 ワタシはそれを聞いて、どこかホッとしている自分を見つけた。これ以上彼女と時間を過ごし、話の続きをするのが危険だと、ワタシの面倒回避センサーが警告をしている。


「すみません。お礼に、夕食の買い物、わたしが奢ります」


「気にしないでいいよ。それにワタシ、実家暮らしだから、食べる物はあるから」


 ワタシの言い方が間違っていたのか彼女は俯いて黙ってしまった。彼女の好意を素直に受け取ればよかった。なにかお互いに遠慮して、すれ違っている。そんな変な空気の中で、美幸がさっき言った「その大石さんが」が引っかかっている。

 俯いた彼女は、なにか言葉に出そうとしている。


 言わないで、言わないで。


 次に出る言葉を拒む心の声。


 ただ空気の流れは、ワタシの願いに反して、その方向に流れていることを感じた。


「わたし、大石さんに、その、脅されてるんです」


 想像していたことの別角度から矢が飛んできて、ワタシの思考回路が止まってしまった。



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