浅川 沙千絵
第17話 扉
泣き崩れている美幸を抱えて部屋に上がった。
部屋の中はカーテンが閉められていて、まだ陽が落ちていない夏の夕方なのに真っ暗だった。壁を手探りで触り、部屋の電化を点けた。彼女をソファに座らせ、ワタシは台所へ向かい、グラスに水を汲んで彼女に飲ませた。部屋の物は散らかってはいなかったが、テーブルの上にはコンビニの袋と食器トレーが置かれていた。食べ物が喉を通らないのか、一口二口食べただけで、ほとんど残してしまった様子。
彼女が落ち着くまで、しばらく背中を摩った。
鼻を啜る間隔が少し空いてくると、先輩すみません、と湿った声を出した。
「どうしたの?」
やっぱり風邪じゃなかったんだ。美幸を抱えた時、熱があるとも思えなかった。風邪をひいている様子もない。ワタシは返事を待った。顔を上げて口を開こうとするが、言葉が閊えるようで、また俯いてしまう。
彼女はソファの上で体育座りをするように膝を抱えて座っていた。その膝の間に顔を埋めて黙っている。ワタシはカーペットの上に腰を下ろし、その彼女の顔を覗き込んだ。
彼女はTシャツにショートパンツで薄着だった。ワタシは仕事着のままだ。半袖のカジュアルな服装ではあるがレイヤードで着ているため、部屋の中では少し暑い。部屋の空気が湿っていて、シャツが汗で背中に貼り付いているのが不快だった。ワタシはカーテンを開けて、窓を開けた。吹きこんだ風は少し温かったが、汗ばんだ体には気持ちがよかった。
あっ、と美幸は惚けた声をあげ、のそのそと立ち上がり何か探し始めた。ソファの下を覗き込み、手を差し入れた。取り出したのはエアコンのリモコンだった。
「暑いですよね。気づかなくて、すみません」
そう言ってワタシにリモコンを差し出した。それを受け取った時、彼女の手が触れた。彼女の手は、氷に触れているかのように冷たくなっていた。
「ちょっと、ホントどうしたの」
慌てて彼女のおでこに触れたが熱はなく、むしろ冷たかった。
「病院行ったの?」
彼女は首を振った。彼女の顔をまじまじと見ると、血色も良くない顔をしていた。
「病院行こう!」
大丈夫ですからと言う彼女の言葉を遮り、外に出る格好に着替えるように指示した。テーブルの上のコンビニの袋の横に財布があった。その財布と一緒に市販の頭痛薬が蓋の空いた状態で置いてあったのが目に入り、まさか、と思ったが中を覗くと箱を開けただけで中身は減っていないようだ。
ワタシはそれには触れず、保険証の在り処を聞いた。
「保険証は財布の中?」
下だけ履き替えた彼女はクローゼットを開けて、ぼうっと立ったままコクンと頷いた。上着を選ぶ様子もないので、適当にハンガーからカーディガンを取り出し、彼女に羽織らせた。
この時間だと診療時間はとうに過ぎているので、スマホで近くの当番医を探した。タクシーを呼び、無理矢理彼女の手を引いて外に連れ出した。
タクシー運転手にスマホの画面を見せて行き先を示すと、「当番医ですか?」と言った。はい、と返事をすると、「今日なら、もっと近いところに当番医ありますよ」と運転手が教えてくれたので、ワタシは慌てて、「そこでお願いします」と行き先を変更した。
なんて親切な運転手さんなんだろう、と思ったが冷静に考えてみると、なんの病気かもわからないお客さんは早く降ろしたいのだろうと、気がついた。
着いた病院は小さな開業医だったので待合室は混雑していた。子供の泣き声が聞こえる。仕事帰りなのかスーツ姿の男や老夫婦が椅子を占拠し、座れそうもない状態。どう見ても元気そうな中年の男性が、まだ呼ばれないのかと受付の人にクレームを言っている。ああいう人は、どうして昼の診療時間内に来ないのだろう。自営業で店を閉めれないとか、持病の薬が切れてしまったとか、止むに止まれない事情があるのだとしても、当番医だって大変なのにもう少し謙虚でいられないかと、いつも思う。
田村もそうだ。
偉そうに自分の言い分ばかり言って、勝手にキレて周りに迷惑をかける。自分の仕事も大事なのだろうが、相手にも仕事があるわけで、もっと配慮した言い方があるんじゃないか。ワタシは、美幸が欠勤した理由は、田村との件が絡んでいると見ている。
なかなか呼ばれない待ち時間、ワタシは彼女に欠勤の理由を聞いた。
「彼氏と、何かあったの?」
田村が原因だとは思っていたが、ワタシは態と違う理由で様子を伺った。カマをかけたようで、自分の聞き方が少し嫌だと感じた。
彼女は俯いたまま首を振った。
やっぱり、田村とやり合った件が原因なのだ。
「じゃあ、田村のこと」
なるべく重たくならないように優しい口調て言ったつもりだ。言わなくてもわかっているが、敢えて名前を出して、返答しやすいように配慮してみる。もし彼女が言いたくないのなら言わなくていい。相手の気持ちを無理にこじ開けて、また嫌な気持ちがぶり返してもいけない。だけど、親しい間柄でそれを見過ごすこともできない。気にしているよ、というアクションだけは起こしておかないといけない。
改めて言葉にして頭に浮かべると、自分はなんて冷たい人間なんだ、と惨めな気持ちになった。ワタシはそうやって、いつも面倒な事を回避してきた。人には他人に触れて欲しくない時だってある。ワタシなんか、いつだってそうだ。他人に介入されたくない。だからワタシも余分なことに首を突っ込まない。ワタシは他人と適当な距離をとり、自分の気持ちを閉ざしている。勝手にワタシの扉を開けてほしくない。周りからは「害のない人」と思われているだろう。
それに、人は裏切る。
他人のトラブルだったはずなのに、知らず知らずのうちに渦中の人となり、挙げ句の果てには自分だけ悪者になってしまうことさえある。
だけど、相手が美幸だから放っておけない。美幸が苦しんでいるのなら、聞いてあげることで楽になってほしい。悩みというものは、どんな小さなことでも本人にとっては重大なことだ。それを卑下する気持ちは毛頭ない。美幸の抱えている問題が、そんなに大したことなくて、すぐに解決する問題であってほしい。
田村のパワハラが原因であれば、大石さんや板橋部長に直訴してもいい。もちろんワタシが言っていることは内密にしてもらうよう根回しはするが、美幸のためなら、そこまではしてあげられる。他の人だったら首を突っ込まないが、美幸には随分助けられてきた。田村の件は、美幸だけじゃなく部署のみんなが頭を抱えているのだ。部長だってすぐに動いてくれるはずだ。
しばらくの沈黙の後、美幸は少し顔を上げて、間を置いてから少し首を傾げた。ゆっくりと視線をワタシの方に向け、口を開いた。
「直接的ではないんですけど」
わー、と子供の泣き声が響いた。ワタシたちは、そちらに目をやる。診察室から母親に抱かれて泣き喚く子供が出てきた。子供に視線を移した美幸に、ワタシは先輩らしい一言を言わなければと話しかけた。
「直接的でなくても、田村のことなんだよね。ワタシ、上に言ってあげる。美幸みたいな真面目な子が出社できないなんて、あんな人、部署に置いておく方がどうかしてるよ。ワタシ、板橋部長か大石さんに相談.....」
そこまで言ったところで、美幸に遮られた。彼女は小声で何か言った。ワタシの聞き間違えでなければ、「その大石さんが」と聞こえた。出社できなくなった原因が田村だと決めつけていたので、なぜそこで大石さんの名前が出てくるのか検討がつかなかった。
「本多さーん。本多美幸さーん」
看護師が美幸の名前を呼んだ。彼女はすっと立ち、診察室へ入っていく。ワタシはそれを呆然とした顔で眺めていた。当てが外れた。ワタシは、間抜けな顔をしていたのかもしれない。
家族でもないのに診察室の中まで付き添うつもりでいたが、立ち上がることを忘れてしまった。既に診察室に入ってしまった彼女を見送り、今更ついていくこともできなかった。タイミングを逃してしまった。
彼女は、「《《その》》大石さんが」と言った。「大石さんが」ではなく、「《《その》》」が付いていた。その大石さんが、どうしたというのだ。直接的ではないといっても田村が絡んでいるのはわかるが、そこへなぜ大石さんが関係してくるのか。大石さんまでパワハラしてるというのだろうか。
それは、絶対ない。あの人は優しいというよりも、強く他人に当たれない。たとえ相手が女性だろうと、部下だろうと、気を遣いすぎて言いたい事を言えない性格だ。どちらかというと気が弱いと言っても過言ではない。
その大石さんが、美幸に何をしたというのだろうか。そこまで考えて、ふっと嫌なことが頭を過った。ワタシが入社したばかりの頃女性の先輩に、大石さんには気をつけなさい、と言われたことを思い出した。大石さんの唯一の問題点。もう今はないと思っていたが、強く否定はできない。
今まで面倒事は避けて生きてきたのに、ワタシは開けてはいけない扉を開いてしまったのかもしれない。




